彗星に心が… 「しんぶん赤旗」より

《彗星に、心がついて…》
本 田 慧 さ ん
ほ ん だ     さ と る

  ほんだ・さとる
    広島県福山市瀬戸町出身。
 奈良女子高等師範学校卒。
    
(現・奈良女子大学)
 高知県立安芸高等女学校、
 奈良県立女子師範学校、
 静岡県女子師範学校、
 広島県立福山高等女学校の教諭、
 戦後は岡山県立倉敷青陵高校の教諭、
 山陽学園短期大学教授をへて、
 奈良女子大学同窓会(佐保会)経営の学校法人
 「佐保会学園・奈良佐保女学院短期大学付属
   倉敷幼稚園」の園長を
      2003年夏までつとめました。
         岡山県倉敷市在住。
          1913年7月1日ー2015年8月25日
 

 「慧(さとる)と読むの。男の人にはちょいちょいあるけど、珍しいわね。賢いことよ、ホホッ。彗星に心がついたのね」

 「ホンダ彗星」で知られた世界的アマチュア天文家、故・本田実氏(1913-1990)の夫人です。生涯に新彗星12個、新星11個の発見の業績の影に、慧さんがいました。
 星へのロマンと業績は、岡山県倉敷市の倉敷天文台の記念館に収められました。その記念館の隣に住み、市内の幼稚園に通う毎日です。

 「教育者になりたいと思ったのは、小学校6年生のころ。奈良女子高等師範学校の家事科へ行ったのは、担任と親のはからいでした。広島県からたった2人の入学。卒業して、高知県立安芸高等女学校に赴任しましたが、2年目に病気になりました。弓道3段でバレーの選手。体操と家庭科を担当し、弓道部をつくり、休日はテニス、登山と休みなしでしたから。遊びすぎたのね」

 春休みで帰省したところ、“故郷の沼南実業学校の教諭になれ。校長先生とは約束をしたから”と母の話でした。

 「とんでもないって言ったの。なら自分で断れと言うから、断りに行きました。まあ驚いたことに!校長と意気投合して“やりましょう”って返事をしてしまいました。ローマ字が逆さまでないことがわかればいいから英語、ピアノが少し弾ければいいから音楽、ラジオ体操ができるから体操の教科をというものでした」

 男女共学の学校での楽しい日々…。

 「給料が70円のとき、360円もするカメラを買って、洋服を縫わせて、着せて、パチパチ写真も撮ってやるの。自作のワンピースを着た写真をみんな大切にしているそうよ。先日、その時の教え子15人が、古稀同窓会だといい、訪ねてきましたよ」

 1年あまりで、奈良県立女子師範学校へ。理由となった悲恋の相手が、実家の裏山の黄道光観測所の好青年・本田実さんでした。

 「観測所の見学に、生徒たちを連れていったり、本田が用事で訪ねてくれば食事をと、家族ぐるみのつき合いでした」

 ある日のこと。沼南実業学校に、速達封書が届きました。

 「手紙には、“24年間探し求めた女性にめぐり逢えた”、“今日から旅立つ真実一路の人生”と。 びっくりしました。結婚の対象としては考えていなかったから。しばらく悩んだあげく、純粋で一途なこの人ならと、心に決めたの」

 でも、ふたりの結婚は猛反対されました。

 「生活力も学歴もないからだって!。聞き合わせに行くと、堅実な農家。でも家柄が違いすぎると反対されました。この人との結婚がだめなら、もう誰ともしません!と、愛する生徒たちを残し、母校の教授のお声がかりで奈良県立女子師範へ。そして静岡へ…」

 激化する戦争は、倉敷天文台に奉職した本田青年にも、赤紙を送りつけました。

 「義兄が静岡にやって来ました。1941年7月29日のこと。本田さんと結婚する意思があるかって。翌日の夕方、実家にもどり、その場で挙式。翌31日には本田の生家の鳥取県へ。入隊の8月1日の朝、鳥取駅のホームで別れたのよ。“ちょっと行ってくる”と言い残して…」

 居場所は軍事機密でしたが、本田実は一計を案じ、拾ったレンズで望遠鏡を作り、彗星を発見しました。新聞は「空に科学する兵士」(「読売」、1942年6月14日付)と書き立てました。南方に元気でいることが知れました。
 復員は、終戦の翌年、1946年の6月29日でした。


 「長男が生まれた年(1948年)のこと、買ってやれないから、“あれがお前の鯉のぼりだよ”と。
 新彗星(4つ目のホンダ彗星)が贈り物でしたよ。子どもたちには、まともに育ってほしい。汚染されないで育ってほしい。純粋な人間になって、正義つらぬく勇気のある人に育ってほしい、…」

 “私の本田のように…”と、つぶやきが聞こえたようでした。

「しんぶん赤旗」1994年1月9日付けより

小惑星「サトル」誕生
小惑星「サトル」誕生  鳥取県の佐治天文台から、

 小惑星「サトル」の写真が

 贈呈されました。

   星の 「サトル」は、

 高知県の関勉さんが発見した小惑星。

 慧夫人の内助の功をたたえての命名でした。


  
佐治天文台で=2000年9月30日


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