はじめに

おやじの一周忌を迎えた。

いまでも 時々夜中に階下で ごそごそ動き回っているような気がして、ふと 当時の記憶がよみがえってくる。

それにしても つかみどころのない、奇妙な病とのたたかいであった。
その一方で、貴重な勉強体験でもあった。
このまま忘れ去ってしまうには、あまりにも もったいない気がしてならない。

これから世の中は、高齢者人口がますます増えて、このような問題は 身近にどんどんふりかかってくるにちがいない。
また、いつ自分自身がそうならないとも限らない。 けっして他人事として 済まされない 切実な問題であるといえる。

従って、この経験を なんらかの形で残す必要があるのではないか。 それがまた、お世話になった皆さんへの恩返しの一端にでもなれば…。そんな思いで、思い切って筆をとった次第です。

幸い、おやじの行動を その都度メモに残しておいたので、これに当時のなまなましい状況を思い起こしながら、まとめてみた。

御一読頂き、一笑に付して頂ければ 幸いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成八年六月 篠崎 辰夫

もくじ

まえぶれ …………………………

ポット事件 ………………………

じゃんけんおじさん ……………

病院が大好き ……………………

徘徊がはじまる …………………

安定剤 ……………………………

長期戦の覚悟 ……………………

お灸と静子先生 …………………

妻の父 ……………………………

平成五年八月のドキュメント

上野警察署 ………………………

足利健康ランド …………………

数々のエピソード ………………

ねたきりとなる …………………

大往生 ……………………………

まとめ ……………………………

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まえぶれ

 それは 亡くなる四年ほど前の 平成三年の暮れごろから 急に目立ちはじめてきたような気がする。
今から思うと その前からもおかしな行動はときどきあったが 昔からいつも冗談を言ったり とぼけては人を笑わせたりしていたので まさかこれがそのまえぶれとは とても考えられなかった。
またいつものおとぼけがはじまったなあ・・・と。

◎ 夜中に 誰かが家の外や玄関にいる と言っては 起きだして家中の戸締まりの確認をしたり、じっと辺りを見渡して 様子をうかがうようになった。
もともと臆病な性格のところがあるので そんなに気にもとめなかったが。 

◎ サイフなどの 自分のお金や持ち物が なくなった 盗まれた といっては ごそごそあちこち探しまわったり 母のせいにして言い合いをすることが だんだん多くなってきた。
たいていは あとから出てくるのだが 物忘れが最近ひどくなってきておかしいなあ とは感じていた。

◎ もともと 几帳面で 物を大事にしまっておく性格ではあったが もらったお菓子やタオルなどを やたらにしまい込むようになってきた。 
それも キチットしまっておき われわれが さがそうものなら 猛烈におこり出すのである。  もともとが頑固な性格ではあったが。

<◎ テレビが好きで ヒマだといつもテレビにかじりついていた。
そのため 世の中の政治・経済や芸能人の誰が結婚した 離婚した等の出来事は 家中でいちばん詳しかった。
それが だんだん減ってきて おかしいなとは感じたが 年のせいで疲れるのかな と思っていた。

お酒をやめたこともあるとおもうが その持病の回数が減ってきて ますます健康体になってきたのである。
とても そんな病が進行しているとは思われなかった。

◎ 留守番が得意で 電話や客との応対は よろこんでしてくれていたが それもだんだん 心もとなくなってきた。 
相手の方が 避けてくるようになってきたのである。  年だから仕方ないと むずかしいことは たのまないようにしていた。

 このように 今思うと これらのまえぶれが それとは気付かずに徐々に進行していったようである。
気がつかなかったのは もう年も年だということと 人のいい あのおとぼけな性格もわざわいしていたのかも知れない。

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ポット事件

決定的な事件が起きたのは 平成四年の暮れのことである。
毎朝 やかんに水を入れ お湯を沸かしてポットに入れてお茶を飲むのが おやじの日課であるが、その日は 何を思ったか お湯の入ったポットを そのままガステーブルの上に置き ガスに火をつけていたのである。
幸い発見が早く 大事にいたらなかったが ポットは下の部分がドロドロにとけて使いものにならなくなってしまった。
 これはたいへんなことになったと家中が気がついたのは この時からである。
それでも普段は いつもと何の変わりも無いため、とても信じられなかった。
 
 このことがあってから、お湯はいつも沸かしておき、お茶も入れてやるようにして、おやじには火をつかわせないようにしていたが、それでも自分でお茶を入れたがって、茶筒に直接お湯を入れたり、茶碗に直接お茶の葉を入れたりと、やることが目茶苦茶になってきた。

この日以来 おやじから目がはなせなくなり おやじとの闘病のたたかいがはじまる。  

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じゃんけん おじさん

 家の西側に面した道路は 小学校の通学路になっていて 朝夕の登校・下校時にもなると 子供達の声でたいへんにぎやかになる。
 小学生のうちは みんな無邪気で元気がいい。 必ずまっすぐには帰らず 友達とふざけあいながら通っていく。 暑くなると途中のどがかわくのか 決まって家の玄関の前にある水道の水を飲んで帰る子が何人かいる。
その時「すいませーん お水を飲ませてください」「ありがとうございました」と 大きな声で言ってくる。 毎日のことなので やかましくて仕方ないが そうも言えない。

そんな毎日に おやじは すっかり子供達と仲良しになり じゃんけんをしたり 冗談をいったりして 相手になっていた。
それは 決してボケという感じではなく いつものおやじ特有の冗談やおとぼけの範囲内の行動に見えた。
子供達もおやじをバカにしているといった感じは全くなく やさしいおじさんとして一緒に遊んでいるという風であった。

 そんなおやじを 子供達は 「じゃんけんおじさん」と呼んでいた。
なくなってからしばらくして その子供達が家にきて「じゃんけんおじさん このごろいないけどどうしたの」と聞きにきたそうな。
なくなったと聞いて びっくりしたような がっかりしたような様子であったという。
そして 今年のお正月にも 子供達から おやじ宛の年賀状が届いた。
子供達に本当にしたわれていたのである。

 だれとでも 気がねなく相手をするおやじの性格をもっとも象徴するエピソードといえよう。

こんな中で 症状はだんだん進行していったのであろうか。 

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病院が大好き

 長寿の秘訣かもしれないが、おやじは 普段から持病と医者と たいへんうまくつきあっていた。
週一回は 決まった日にキチッと自転車でかかりつけの病院に出かける。
雨が降ろうが 寒かろうが 関係ない。 看護婦さんとも すっかり仲良しになっていたようである。

 老人医療で 本人の負担はごくわずかだが 三ヶ月ごとに送られてくる医療費明細書を見ると 数十万円かかっている。 

 この病院通いは 進行して徘徊するようになっても しばらく続いた。

 だんだん進行してきた頃のことである。
医者に行く日が はっきりしなくなり 日曜日なのに病院に行くといってきかず 朝から母と口論している。 振り切って出かけ 休みを確認すると、帰ってきて それで気が済んでいる。

またある時は 医者にサイフを忘れたといって あわててもどっていった。
心配なので 車であとを追いかけたら 看護婦さんと わけのわからないことを話していた。  連れ戻して家の中をさがしたら フトンの下にあった。
看護婦さんからは 「最近だんだん進行してますね」と言われる。

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徘徊がはじまる

 その後しばらくは まえぶれのような行動が 一進一退で続いていた。

 ポット事件から半年ほどたった 平成五年の6月ころのことである。
梅雨の雨がしとしと降っている夜中に 次の事件が発生した。

「おじいさんがいない」と 母があわてて起こしにきた。
みんなで近所をさがしていると 道路を隔てた 前の家の玄関前で はだしのまま さかんに何かにおびえながら 家の中に入ろうとしていた。

わけを聞くと どろぼうを追いかけてきたという。 びっしょりになり「フテーヤローダ」などど口走って ふるえている。

あきらかに普段の様子と違って 目がすわっている。 なにをいっても聞こうとしない。  

 それからまもなく こんどはやはり夜中にフトンを抱えて飛び出し 隣の家の裏口の戸をドンドンたたいて「オーイ ドロボーがいる」と大きな声でわめいている。
あわてて連れ戻すが ドロボーに脅える日が続くようになった。
なんでふとんを抱えていたのか あとで母が聞いたところでは ドロボーになぐられるのを防ぐためだったらしい。

 心配していた 昼間の徘徊が始まったのも この頃からである。

 ちょっと油断しているすきに いなくなる。 その都度母と妻が車でさがしまわり 車に乗せて帰るという日がだんだん増えてくる。
「外にでてはダメ」などと否定するようなことをいうと ムキになって抵抗してくる。 まるで子供が親に反抗するかのようである。
 そのうち近所の人も気づいて 見つけると電話してくれたり 家の中に入れて お茶を出して相手をしてくれるようになった。 
ほんとうに近所の皆さんには お世話になった。

 それでもこの頃は まだ徘徊の距離も五百米以内程度で 立ち寄る家も 知っている家の範囲内であったが それがだんだんエスカレートしてくるのである。

 この徘徊も いつもということではない。ある時突然おきる。一種の発作なのかも知れない。
普段と徘徊の時とでは 顔つきや体の動きが全く別人のようになる。
ふだん ずって歩くようになっても この発作がおきると しゃんとして 走るように歩き出す。 母が追いかけても見失うほどである。 そして力もでてくる。  とめるのも振り切って飛び出す。 とても母の力では 太刀打ちできない。

「徘徊」とは 「何の目的もなく歩き回ること」 と辞書に書いてあるが 本人は しっかりした目的をもっている。
一番多かったのは 「家に帰る」といっては 何やら荷物をまとめて それを持って出ようとすること。 家はここだよ といってもムダにすぎない。
次に「仲町にいく」(昔住んでいたところ)、「小島町にいく」(東京の妹が住んでいたところ)、「熊谷にいく」(弟の家)、「お寺にいく」(親戚)等々。
昔の記憶がよみがえってくるのだろうか。

いちばん心配したのは 交通事故である。 あの勢いで飛び出していって 事故にでもあったら 本人や家族もさることながら 相手にも迷惑をかけることになる。
しかし 見ていると ちゃんと心得ているように見える。
一度 お寺の方向に飛び出していったのを 追いかけていったら 交通量の多い十七号国道で 信号をキチンと待っていた。さすが歩道橋はのぼらなかったが。

 あれだけ徘徊して 一度も事故にあわなかったのは ほんとうに幸いであった。

徘徊が進んできたので 名前と連絡先電話番号を書いた「迷子札」を作って 胸のポケットに挟みこんだり 縫いつけることにした。
いやがるかと心配したが 反対に「ありがとうございます」といって 喜んでいる。
そして 早速それをつけて 外に出ようとする。  
どうも これをつければ 堂々と外に出れると思ったのかも知れない。

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安定剤

 昼夜区別のない徘徊で 母と妻の看護もだんだんつらくなってきた。 寝不足も重なって共倒れの心配も出てきた。  
従って 医者と相談して 夜寝るように 安定剤を投与してもらうことにした。
 安定剤をのみはじめてから 夜はよく寝るようになり ホット一息ついた。
しかし しばらくして 足がふらつくようになり そのうち身体がよく動かなくなって おむつをかって ねたきりに近い状態となってしまった。 
 平成六年の夏の暑い頃のことである。

 それでも 発作の症状がおきると 不思議なことに身体もシャキっとしてくる。
その落差があまりにも大きいので ふだんはふざけているのか といいたくもなる。
 そのうち ウンチを手でこねるようになり まわりがウンチだらけということもあり ますます目が離せなくなった。

八月の旧盆に お寺に墓参りにいく間 夏休みで下宿から帰ってきている息子に頼んで 見てもらっていた。

ずっとそばにいてもらっていたが それでも自分でおむつをとって 手でこねてしまったらしい。 それを息子がきれいにふいてしまつしてくれていた。
ふだんあまり何もしない息子であるが いざとなると頼りになる。

 そのうち 話すことばもわけがわからなくなり 顔色もわるくなってきた。
この様子から もう長くはないのではないか とあれこれ準備の段取りを思いめぐらした程であった。

これが 安定剤によるものと気がついたのは もうしばらくしてからである。

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長期戦のかくご

 安定剤をやめると 身体が少しは動くようになり 顔色も戻ってきた。
しかしどういうわけか 便の出が悪くなった。 何日も出ないので 食事を流動食に変えてみた。 すると その日の晩から翌朝にかけて 4〜5回便がでて その度におむつをかえる。  
まだ身体が思うようにうごかないため このおむつをかえる時がたいへんである。
まして 夏の暑いときでもあり においが部屋中充満してくる。 急遽換気扇をつけたり 消臭剤をたくさん置いたりするも おいつかない。

 いままで身体の中にたまっていたものが出て気分がよくなったのか おむつをかえる度に「どうもめんどうかけてすいません」と泣きながら言い 母と妻ももらい泣きする。

 この母と妻の二人がかりの献身的介護には 今更ながら頭がさがる思いである。

 一時はどうなることかと 最悪の事態を想定したが 持ち直した。
しかし 自分で立てるようになったものの 排便の感覚は戻らず おむつとの戦いは続く。  また 昼間は 身体がもどって徘徊との戦いも再びはじまった。

 少しでも症状の回復がならないものかと 何軒かの医者の門をくぐるも 症状を聞いただけで 体よく見離される。

しかたなく 妻も半日手伝っていた学童保育所をやめ 母との二人三脚による長期戦の覚悟をきめる。

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お灸と静子先生

 妻の弟が 神奈川県平塚市で鍼灸院を開いている。
その彼が おやじのことをいろいろ心配してくれて お灸を進めてくれた。
頭のてっぺんにするので 脳を刺激し 効くのかも知れない。 不思議と徘徊の発作も静まるようである。

 夕食後のお灸が 妻の日課となった。
ちょっと遅れると「先生 先生 お願いします」と催促してくる。
脳への刺激が気持ちいいのか 喜んでやってもらっている。
熱くないように ゆっくりやるので 二十分から三十分かかる。 その間中ずっとおとなしくしている。
やる方は 中腰なのでたいへんである。

 それ以来 妻は すっかりおやじの「先生」になった。
お灸以外でも 妻を呼ぶ時は 先生 先生 という。  母はこわいのか 何かを頼む時は いつも「先生 先生」といって 2階まで上がってくる。

このお灸は 寝たきりになるまで ずっと続く。

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妻の父

良くないことは重なるもので おやじのボケの症状が表面化した頃と時を同じくして 平成四年の秋に 妻の父が胃癌で入院。 あと一年の命と宣告された。
 妻は 弟二人妹二人の長女で その責任もあった。しかし妻の実家が新潟県で 病院も柏崎市と遠く こちらも目の離せない病人がいて なかなか看病にもいけない。
すぐ下の弟も神奈川で所帯を持っているため 現在一番下の弟が跡をとっている。
幸い 妹二人が実家の近くに嫁いでいるため 交代で看病にあたってくれている。
 すぐ下の弟は 脱サラ後 鍼灸の学校に入り 資格をとって現在鍼灸院を開業しているが 長男の責任もあって なんとか回復させたいと 仕事と家族を放り出してまで 神奈川と新潟を何回も往復してくれていた。
 その長男が 無農薬野菜療法を取り入れて 病院側とトラブルを起こしたほどで 一時は病院から すぐに退院してくれというところまで追い込まれた。
すこしでも良くなって欲しいと願う患者側と 事務的な病院側の大きな隔たりを目の当たりに感じた。

それにしても これだけみんなが一生懸命看病してくれているのに こちらでは、妻に十分な看病をさせてやれなくて 本当に申し訳ない限りであった。
妻は こちらのおやじのことを まず考えてくれていたが その心中たるや たいへんだったと思う。 この時ほど妻が もっと実家の近くに嫁いでいればよかったのに と思ったのではないだろうか。

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平成五年八月のドキュメント

八月十四日  
 妻がいつものように 電話で柏崎の病院にその後の父の状態を聞くと 今日医長の回診があり そのあと呼ばれて もう一週間もつかどうかの状態といわれたとのこと。ついにきたかと、いつでも飛び出せるように準備する。

八月十五日
 こちらの方は 安定剤をやめて安定し 食欲も旺盛で 顔色も一段と良くなってきた。 お灸と青汁の効果も大きいと思われる。
しかし 徘徊は相変わらずで やはり目が離せない。 このごろは暑いものだから 夜に動きまわる。 すっかり昼夜逆転となってしまった。
今日も 夜中トイレにおきると 下でごそごそ物音がするので行ってみると 玄関でなにやら動きまわっている。
しばらく見ていると ゲタ箱を開けて 中の物を出したり 玄関の鍵を開けようとあちこちさわっている。 鍵の開け方がわからない。
夜だからもう寝ようと言っても 外に誰かがいるとか だれだれさんのところにいくとかいって 動こうとしない。
むりやり抱いていこうとするが なかなかうごかせない。 これがバカ力というものか。 根負けして 気のすむまでやらせておこうと 寝ることにした
そのあと 母が起きてきたようであるが 玄関に小便がしてあった。

八月十六日
 お盆送りで 川越の妹夫婦と娘が来る。
気分もいいようで みんなと一緒に食事をしたり 話しをする。 昔のおとぼけも出てきて ごきげんの様子。
その夜は 昼間の疲れもあってか 良く寝たようだったが やはり夜中にいなくなり 母がさがしたところ トイレにいて おむつをはずして それを一生懸命便器の中に押し込んでいたという。 もう何をやりだすかわからない。

八月十七日
 十四時半頃 妻の父が危篤との電話が入る。 とるものもとりあえず 車で妻と柏崎の病院に向かう。
アーアーと息をする度に タンがからんで まさに虫の息の状態が続いていた。
タンを取り除いてやったり 声をかけたり 子供達の必死の看護が続く。
病室に入りきれず廊下で見守る。 廊下まで中の様子が伝わってくる。
それでも すぐという状態ではなさそうなので 妻を残していったん帰る。
それにしても なんとも痛ましい。

八月十八日
 十四時三十分 息を引き取る。 きのう危篤の連絡が入って丁度一昼夜
本人も必死に頑張ったのだろう。 最後は 一瞬あの苦しそうな状態が消え 目を開いて天井を見ながら 何かを言い残すようにして 静かに逝ったという。 
 兄弟五人 子供五人 孫十三人という大きな集団の筆頭にたって 実家を支えてきたドンの再期であった。

本人特有の我慢強さが災いし 発覚した時はすでに手遅れだったという。
痛いはずなのに 表面には出さず 看護婦さんにいつも「いたくないの」と聞かれ それが治療を鈍らせたのかも知れない。
 まだ七十才 これから大勢の孫たちの成長も見守ってほしかった。
これらの無念の気持ちを ありのままに表現した 出棺時の次男のあいさつは 参列者の深い涙をさそった。

 それにしても 子供達の献身的看護はすごかった。 本人もさぞ満足であったと思う。
それが 妻のこちらのおやじに対する看護にも通じているようだ。

八月二十日
 妻が不在の間も おやじは相変わらず元気に動きまわっている。
今日も 寝ていたので母が風呂に入り 髪を洗っている間に 飛び出し 前の家に飛び込んだらしい。  前の道は 車の通りがはげしいので ぞっとする。
 こちらはまさに「おやじ天国」である。
どこが痛いわけでなく まわりの心労も全く本人の気にするところではない。

八月二十四日
 朝方四時頃 階下で「もしもし」と大きな声と物音がしている。
あわてて飛び起きてかけつけると 戸を開けて隣家に向かってさかんに声をかけ 外にでようとしている。 それを母が必死でとめようともみ合っていた。
 このごろ一時より少しは落ち着いてきたと思ったら カギの開け方がわかってきて カギを開けて外に出ようとしたらしい。
妻が近所をひとまわり連れて歩き 発作をおさめる。 
母は もみ合った際 手にあざができたと ハラをたてている。
アザといえば おやじの身体はあざだらけである。
なにしろ良くころぶ。 もろに骨にあたって大きなおとを出してころぶ。  痛いはずであるが そんなに痛そうでもない。

八月三十日
 町内の民生委員の方が 心配してくれて おむつの貸出しと 車椅子の申し込み手続きをしてくれた。
車椅子は 現在全部貸出し中で 返却待ちの人がまだ前に四人ぼどいるとのこと。
同じような人が たくさんいるのだ。
 幸い お灸や母と妻の看護のおかげで 身体もだいぶしっかりしてきて おむつもとれるようになってきたので 貸おむつや車椅子もいますぐには必要ないようだ。  
 ただ 身体がしっかりしてきた分 外に出たがってしょうがない。
夏休み中は ずっと子供にたのんで見てもらって助かったが 夏休みが終わると また目が離せなくなる。

長い夏が終わった。

記録的な冷夏 台風 地震 津波 豪雨災害 等々。
バブル後の不景気に 円高 異常気象が追い撃ちをかける。
このような環境の中 平成五年の夏は おやじの症状進行、 妻の父の死、 逸見アナのガン告知、 ハナ肇のガン死 等 いやな出来事がつづいた。

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上野警察署

平成六年八月。

この夏は 前年の冷夏とは反対に 記録的な猛暑となり うだるような暑さが連日続いていた。
エアコンが飛ぶように売れ 久しぶりに電機業界も一息ついていた。
 そんな暑い夏の日 丁度会社の夏休みで家にいた時の出来事である。

 徘徊はますます頻度を増し その距離もだんだん長くなっていった。  
幸い おふくろの顔が広いため あちこに知人がいて その都度見掛けると電話で連絡をしてくれた。 そのおかげで まだ警察のお世話にはなっていなかった
 ところが その日は 朝早く母が目を覚ましたら もういない。
三人で 別々に近くを捜しまわったが 見つからない。 車二台で 少し遠くまで捜して見たが いない。
しかたなく いつものように誰かが電話してくれるのを待っていた。
しかし 昼近くなっても連絡がない。 外は三十五度近い猛暑である。 この暑い中 あの身体で歩き廻ったら 日射病で倒れてしまうだろう。 もう倒れているかもしれない。 それにしては 何処からも連絡がない。

 居ても立ってもいられず もう一度捜しながら 駅前の交番に届け出る。
交番からもどって 昼食を食べていると 電話が鳴った。 それ居たかと電話をとったら 上野警察署だが 保護しているので 引取りにきてくれ という。  
びっくりすると同時に 一瞬耳を疑ったが 上野と聞いて 合点がいった。
上野は 昔おやじが長年通勤していたところであり また おやじの姉が住んでいたところでもある。 地理はくわしいはずである。

それにしても どうやって電車に乗ったのか。 お金は持っていたのか。 切符はちゃんと買えたのか。  どうして家に連絡がついたのか・・・。
そんな事を考えながら 昼食もそこそこに 上野警察署に向かった。

四階の何という部署か忘れたが そこの部屋の隅の会議室みたいな部屋の中に ちょこんと椅子に座って待っていた。
着くと にこにこして 「おそかったねー」とひとこと。 これにはあきれた。
 形通り書類に必要事項を記入し 判をおして引き取った。
書類の記載によると 午前十一時半ごろ 上野アメヨコ通りの入口付近でうずくまっているのを保護されたらしい。

その時 頭のてっぺんが 赤くキズのようになっていたので 誰かに暴力をふるわれたかと心配したらしい。
お灸のわけを話すと 警察の人が 感心していた。 ここでも 胸の迷子札が役にたったが 最近このようなケースが増えているが 連絡先のわからないことが多く警察でもこまっているとのことであった。

 警察署を出て 上野駅に向かう途中 すぐ前なのだが 何回も休まないと歩けない。
どうも 朝もお昼も食べていないようである。 それにこの暑さ。
どこかで飯を食おうといっても いらないといって 口だけは達者である。
やっと 駅前の歩道橋を登り 橋の上を歩いていると こんどは くる人くる人に 手を差し出して愛敬をふりまいている。 相手の人もそれに合わせて握手なんかしている。 世の中 いろいろな人がいるものだ。
 とにかく 駅の売店で オロナミンを買ってやった。 売店の横にしゃがみこんで うまそうに飲み干した。 
 電車の中では アイスモナカをおいしそうに食べながら 半分口を開けて寝てしまった。

 ポケットの中を見たら 小銭が少しと 深谷の隣駅の「籠原」までの切符が入っていた。 これでどうやってたどりついたのか。 駅の自動改札をどうやって通ったのか。 明らかに無賃乗車であるが ・・・ この謎は いまだわかっていない。

長い長い 暑い暑い 一日であった。

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足利健康ランド

ある日 郵便受けに 足利健康ランドの無料招待券が入っていた。
このごろおやじがますます風呂に入りたがらなくなり 不潔になっていた時でもあり 気分転換も兼ねて 母と妻と四人でいくことにした。
 途中 車の中で まわりの景色を見ながら さかんにはしゃいでいる。
久しぶりの車の遠出で 気分が良かったのだろう。
 着いてから しぶしぶ風呂に入ったが ここでも会う人ごとに あいさつしている。  相手の人は キョトンとしている。 はずかしくてしかたない。 
 ヒゲが大分伸びていたので ヒゲを剃り 頭を洗ってやった。
とても気持ちよさそうであった。 もともとたいへんおしゃれなのである。
 風呂には あまり入らないので 大広間で食事をしたり みんなのあまりうまくないカラオケを聞いたりしてのんびりしていた。
 どうも この健康ランドは おやじより 母がいちばん来たかったようである。

日頃 母と妻に介護をまかせっぱなしにしている分 骨休めの家庭サービスをもっともっとしてやらなければ と痛感したしだいである。

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数々のエピソード

 ある朝 母がトイレに起きると トイレの戸の隙間から ちょろちょろ水が漏れ出てきた。  あわてて開けてみると 中でおやじが トイレットペーパーをくるくる全部引き出して 便器の中につっこみ 水を流したらしい。
本気なのか ふざけているのか 油断もすきもない。

 朝早くどこからか 「モシモシ」と大きな声がしている。  飛び起きてかけつけて見ると そこは トイレの中。
どうも カギをかけたものの 開け方がわからないらしい。
母が外から開け方を教えて やっと出てきたが 出てきての一言。 
「朝からたいへんおさわがせいたしました」  

 なぜか トイレにまつわるエピソードが多い。

  1. 会社から帰って食事をしていると おやじが 「ちょっとちょっと」と手招きしながら入ってきた。
    「まことにすいませんが お金を貸してくれませんか」という。
    何に使うのか聞くと お隣りからお金を借りたので 返さなくてはいけない という。  妻がそっと 二千円を渡すと それをすぐに 母にわたしたらしい。
    母が返しにきた。  しばらくしておやじが さっき借りたお金 といって 二千円持って返しに来た。
    倍になって返ってきたが いったいどうなっているのか。

 ある日 おやじが血相をかえて 二階の部屋に入ってきた。
サイフを持ってきて 母にお金を盗まれるので しばらく預かってくれ と妻にたのんでいる。 
 おやじは いつもお灸をしてくれたり 親切にしてくれるので 妻をいちばんの頼りにしている。
預けてもすぐ忘れるので 盗まれた なくなったといって騒ぐと 妻がそっと預かったお金を出してやっている。

 平成六年三月に老人会の旅行があった。 
もともとおやじは 老人会はあまり好きでなく めったに参加しないが しばらく風呂も入っていないし 気分転換にと 母が無理矢理連れていくこととなった。
 行く先は ここからバスで一時間ほどの 「羽生健康センター」
センターでは 大広間で おとなしくしていていたので 母が風呂に入ったところ そのスキに外に出て はだしで 近くの民家に飛び込んだらしい。
その民家では やさしくしてくれて おやじの迷子札を見て 家に電話をしてくれた  子供が留守番をしていて 健康センターに連絡があった。
母が迎えにいったところ お茶をごちそうになりながら にこにこしていた。

 ここでも 迷子札が役に立った。

家にいても いつ飛び出すかわからないので 目が離せない。
天気のよい日は 母が意識して外に連れ出すことにしている。 だんだん足も弱ってきて 百メートル程もいくと もう歩けなくなる。 それでも出たがるので 母が うば車に乗せて散歩することとし それが日課となった。
 おやじは それがすっかり気に入ったらしく 会う人ごとに挨拶して 手をさしのべて握手しようとする。
 市の車椅子貸出しの順番がやっとまわってきたが 乗り降りがたいへんで 結局一回も使わずに返してしまった。

 ある日 おやじが血相かえて駅の方に走って行ったと近所の人から連絡が入った。 車で駅の方向に追いかけていくと なんと 一生懸命走っているではないか。 足が弱くなって うば車の世話になっているとはとても思えない。
これが発作というものか。 それにしても ふだんとの落差があまりにも大きすぎる。
 駅前に車を止めて 走ってくるおやじを抱きかかえ 車に乗せようとしたが もがいて乗ろうとしない。 さかんに「オーイ オーイ」と大きい声を張り上げている。 そのうち駅前にいる高校生に向かって「助けてくれー」と叫ぶ。  
駅前の人が 何事かと いっせいにこちらの方を振り向く。
 力を振り絞って 無理矢理車に押し込んで 連れて帰ったが 車に乗ってしばらくすると 落ち着いてきたようで さかんに「あー疲れた」を連発していた。

 台風のような 出来事であった。

 ある晩のこと 玄関で ドンドンと大きな音がしたので かけつけると なんと 座椅子を持ち上げて 玄関の戸をたたいているではないか。
しんばり棒で 簡単には開かないようにしてあるため 戸をこわして出ようとしたらしい。
 これはたいへんと 座椅子を取り上げようとしたが ものすごい力を出して 抵抗してくる。 すごい力である。 その場で おやじと取っ組み合いになった。
さかんに「オー オー」とわねきながら 必死の力を出している。
こちらも負けじと おやじを倒し 下に押さえつけてしばらく相手の疲れるのを待った。 そのうち「あー つかれた」といって 力を弱めてきた。
 それで気が済んだのか あるいは 発作がおさまったのか あとはケロっとして 何もなかったかのように 自分の部屋に入っていった。
 発作というのは 信じられない力を出すものである。

 平成七年のお正月のこと。  
子供が 風呂場のタイルの上に なにやらおかしな物があるといってきた。
行ってみると どす黒い丸いものがひとつ タイルの上にあった。  どうもウンチのようだ。  おむつをぬいで 風呂場でやってしまったらしい。
とうとうトイレも風呂場もわからなくなってしまったのか。
さらに目が離せなくなった。

 冬の寒い雨の降る夜  母が風呂に入っているスキに飛び出して 近所の家に飛び込んだ。 そこの主人が おやじを背負い 横で奥さんが傘をさして わざわざ送り届けてくれた。 
 我が家だけでなく 隣近所をまきこんでのたたかいの様相となってきた。
それにしても 隣近所の皆さんには たいへんお世話になった  
その都度 あとからタマゴなどを持って 母と妻がお礼にまわるのが常であった

このほかにも、この種のエピソードは いろいろあるが、このくらいにしておこう。

このようなつらい苦しいたたかいの中で、幸いだったのは、家庭の中が決して暗くならなかったことである。

これは やることなすことが、こっけいなおやじの性格や行動にもよるが、なによりも、母と妻の「二人の偉大なる看護婦」の存在が大きい。

いつも「母がきびしくケアーし、妻がそれをやさしくフォローする」。
このパターンがいつの間にかすっかり出来上がった。 おやじも それにすっかり甘えていたようだ。

きびしいばかりでもいけない。 やさしいばかりでもまずい。 これを一人の人間が演じようとしてもとても無理だろう。

この 母と妻の二人の絶妙な連携プレーが ずっとおやじを支え、家庭を支えてきたといっていい。

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ねたきりとなる

 おやじは ぼけが進行してから それ以外の部分は 不思議なくらい丈夫になった。 持病の神経痛も通風も高血圧も どこかにふっ飛んでしまったようだ・
食欲は旺盛で なんでもおいしいといってよく食べる。 徘徊が適度の運動になっているからかも知れない。
 平成六年の秋から暮れにかけては おやじを除く家中の者が 風邪をひいた。
とくに妻は 今まで本格的な風邪はひいた経験がないらしく 風邪くらいとバカにしていたが これほど苦しいとは思わなかったと言ったくらいである。  これまでの看護の疲れが出たようだ。
 ところが おやじだけがどういうわけか 風邪をひかない。  あの寒い中の徘徊にもかかわらずである。  
「バカは風邪をひかない」というのは このことをいったのだろうか。

しかし そのおやじも ついにダウンした。
平成七年の三月のおわり頃  季節の変わり目でもある。

風邪をひいたのか 急に元気がなくなってきた。 食も細くなった
そして おむつをしたままの本格的なねたきりの状態となってしまった。
それでも お見舞いの人達には 冗談を言うほど元気ではあった。
 定期的にかかりつけの医者に往診してもらい 徘徊の心配はなくなったが こんどは おむつとのたたかいとなる。 流動食中心のため おしっこを良くした。  母と妻の二人がかりのおむつの交換が日課となった。

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「大往生」 

 正気の頃から おやじは家によく来る女の人のことを 「花子さん」と呼んでは 笑わせていたが この日も お見舞いにきた近所の人に「ああ 花子さんかね」と言って 手を差しのべていたようである。
 しばらく元気に こんなやりとりをして その人が帰るので 母が玄関の横の部屋でお茶を入れ 送り出しておやじのところにもどると 様子が変だったという。
あわてて医者に連絡したが この「花子さん」が最後となった。
あっという間もなく、逝ってしまった。 何の苦しみもなく、眠るがごとくに。
先生は 母に「大往生ですよ よくがんばったね」といってくれた。

 平成七年六月二十二日 午後二時三十分。  享年八十八才。
 死亡診断書の病名欄には「急性呼吸不全」とあった。

 妻から会社に電話が入り 会議で別の場所から電話すると 妻が声をつまらせている。 最悪を予期していたものの ついにきたかと 一瞬いろいろなことが頭の中をよぎった。
 しかし その時は自分でも不思議なくらい冷静であった。 それは 最後まで皆で最善を尽くし やるべきことはやってきたこと、 本人が最後まで苦しまずねむるようだったこと 等の思いがあったからかも知れない。

 会社内部の連絡をひと通り終え 自宅に向かった。
帰りの電車の中では 段取りなどをいろいろ考えたが どうどうめぐりして なかなかまとまらなかった。

 家に帰ると すでにお寺のおしょうさんや 葬儀屋さん 近所の人達がきてくれていた。 
まず おやじの顔をみておどろいた。 おだやかなふだんと全くかわりのない顔である。 死んだとはとても思えない。 きれいな顔をしている。
聞くと 二・三日前に 顔を剃ってくれとたのまれて 母が剃ってやった。
その時「ありがとうございました」といって 母に手をさしのべて 握手を求めてきたとのこと。  
またいつもの冗談だと思っていたらしいが おやじはきっとその時 母に最後の感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。 

最後まで おしゃれと 頑固と 独特のおとぼけを貫いてきた おやじの 最期であった。

おやじが逝ってしばらくは、母は ひょうしぬけしたような様子であった。
あれだけ手がかかっていたのだから、急に大きな穴があいたような気がしたのも無理はない。

しかし、このまま母までボケられたりしたら、それこそたいへんである。
なにしろ、その言動範囲、行動範囲からして、おやじの何倍もの手がかかるだろう。

そうならないためにも、おやじの経験を生かし、早期発見につとめねばならない。

しかし、その心配はないようだ。 もう元気に 商売に、集金にと 出掛けている。

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まとめ(痴呆への対応)

一.痴呆の症状

症状は 人によって異なると思うが、おやじの場合の症状とその特長をまとめてみた。

(一)物忘れ

痴呆症の「物忘れ」は、最近の出来事は よく忘れてしまうが、過去の記憶は比較的保たれているのが特長のようである。

おやじの場合、上野まで 電車に乗って行ったのには驚いたが、それも 過去の記憶がよみがえった行動であろう。

我々でも よく「ど忘れ」をするが、「ど忘れ」は ちょっとしたはずみで思い出されるものであるが、これが 頻繁におこったり、なかなか思い出せなかったら 痴呆のはじまりと思って 注意する必要があるかもしれない。

単に「物忘れ」「ど忘れ」と、軽く見ないことが大切である。

(二)幻覚、妄想

痴呆が進行してくると、幻覚・妄想の症状が出てくる。

代表的なのは 「被害妄想」であり、「盗られ妄想」である。
誰もいないのに、ドロボーがいる といっておびえる。 また、自分が大切にしまっておいた財布やお金が見つからなくなる。 しまったところを忘れるうちはまだよいが、しまったこと自体を忘れてしまい、盗まれたと思うようになる、
たいていの場合、嫁が その対象となるらしいが、我が家の場合は 母であった。

そのうち、「昼夜逆転現象」もはじまり、夜中に起きては 動き回るようになる。
おやじだとわかっていても、夜中にごそごそ動き回られたら、気持ち悪いものである。

(三) 徘徊

さらに進むと、徘徊がはじまる。

多くは、「家に帰る」といっては、なにやら荷物を持って 外に出ようとする。
ふだんは何でもないように見えても、一種の発作のような症状がおきると まるで人が変わってしまう。

最初のうちは、近所をひとまわりする位でもどってくるが、そのうちだんだん範囲がひろがり、まったく知らない家に飛び込んだりする。

一時的に過去の記憶がよみがえって、それに向かってまっしぐらといった感じである。

(四) 失禁・弄便

痴呆も 末期になると、排便の感覚がなくなり 大便をまわりにこねくり回すようになる。

その物自体が何であるかが わからなくなってくる。
また、トイレや風呂場の区別もわからなくなり、どこででもしてしまうようになる。

こうなってくると もう介護はたいへんである。

二。痴呆への対応

おやじの経験から、その対応の仕方、ヒント等をまとめてみた。

  1. 早期発見

おやじの場合、ふだんの性格や年齢のこともあって、完全に発見が遅れた。
年齢のせい、性格のせいにしないで、おかしいと思ったら 早く医者に相談するなり、手を打つことが大切である。
その前に まず 自分自身がそうならないように 日頃から 心がけることも必要であろう。

  1. 否定しないで 受け止める

痴呆の行動を、理屈で訂正したり、否定、拒否すると かえって反発し、ムキになって 興奮し 手がつけられなくなる。

それだけでなく 本人の自信を失わせ、萎縮させて、痴呆の進行を早める結果になりかねない。

介護する者の気持ちは わかるが、たとえおかしな事を言ったり、おかしな行動をとったり、失敗したりしても、 危険が無い限り それをいったん受け止め、受容的態度でのぞむことが大切である。

たとえば、「家に帰る」といって 外に出ようとしたら、頭から否定しないで、いったんそれを受け止め、「その辺まで送ろう」といって一緒に近所をひとまわりして帰ってくる。 家に帰ったら 「お帰り」 と声をかけてやる。

夜中の場合は、今日はもう遅いからあした帰ろう となだめる。 荷物は重いから 宅配便で送るといって 預かる。 等々の工夫が必要である。

短気にならずに 気長につきあう心構えが必要である。

そうはいうものの、我家では、母が どうしてもそれが出来なかった。
いつも「何いってるの」とか「今からボケてどうするの」とかいって、いつもおやじとケンカとなる。 そばでみていると まるで兄弟げんかを見ているようであった。
母の気持ちもわかるし、へたに止めると 母までおかしくなりかねないので、そっとしていたが、あとから いつも妻が中に入って おさめてくれていた。

  1. 身の回りの安全に配慮を

足がもろくなって、家のなかでもよくころんで 手足がアザだらけになっていた。
そのため、廊下、台所、風呂場、トイレ に日曜大工で 「てすり」をつけた。
多少 見ばえはわるくなったが それにはかえられない。
てすりをつける壁が、石膏ボードやらタイルやらで、苦労したが、おかげで日曜大工の腕も大分上がったように思う。

痴呆症に限らず、老人に対しては、まず安全という点に特に配慮する必要があろう。

  1. 迷い子札

迷子札は たいへん役に立った。
できれば たくさん作り、とれないように服に縫い付けておいた方がよい。

おやじの場合、そんなに遠くにはいかないだろうと、自宅の電話番号に市外局番をいれなかったが、これは 入れるべきであった。
上野警察では なんとか連絡をつけてくれたが、参考になることは、すべて記入した方がよい。

  1. 温かい心のケアを

最近、痴呆性老人にまつわる社会問題が いろいろ取り沙汰されるようになってきた。
ある病院などでは、手のかかるこのような患者を「抑制」と称して ベッドに縛り付け、結果的に寝たきりにさせてしまうような例もよく聞く。

痴呆とは、人間がこの世に誕生して獲得してきた知的機能が、年と共にだんだん失われていく疾患であると言われている。
それは 誰でもが経験することであり、程度の差はあれ 避けられない事実である。

世の中のいやなことが忘れられる病気だから、本人はさぞ幸せだろう と思ったこともあるが、本人もそれなりに苦悩し、一生懸命なのである。

いつ自分がそのような立場に置かれるか わからない。
その時のためにも、丈夫な時に 温かい介護をすることが、まわりまわって自分に戻ってくるのではないだろうか。
そして、事情が許す限り 自宅介護をしてやってほしいと思う。


おわりに

痴呆とのたたかいの ひとつのドラマが終わった。

このドラマは、我々に多くの教訓を与えてくれたように思う。
あれだけ周囲の人の手を煩わし、また、いまだ有効な治療法がない病気だけに、まず我々ひとりひとりが、そうならないように もっともっと注意していく必要がある ということを 改めて痛感した次第である。

これらの教訓を、無駄にしないよう、生かしていかねばならない。
そのことを、おやじが身をもって教えてくれたのではないかと 思えてならない。

それにしても、近所や親戚、知人、そして全く知らない人まで、多くの皆さんに 大変お世話になりました。
この場をかりて、改めて 厚くお礼申し上げます。

今ごろ、天国で まわりの者に「花子さん」などと冗談を言って 笑わせていることだろう。

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