「週刊朝日」書評
河出書房新社刊 久保田二郎著 「アンド・ジ・エンジェルズ・シング」
定価 本体2000円(税別)
評者 石井信平(映像&出版プロデューサー)
何故、いま久保田二郎なのだ? 四年前に亡くなった彼のエッセー群が再編集され、「傑作選」と銘打たれて出た。その名前をすぐ思い当たる読者は、年輩のジャズ・ファンぐらいか。
もともとジャズ評論のジャンルを乗り越え、この世の森羅万象を愛し、堪能し、批評し、六九歳でこの世を去った。その生涯はまるでジャズのアドリブ演奏のようだった。
広い関心、歯に衣着せぬ物言い、それでは久保田の魅力を何も語ったことにならない。つまり「通り一遍」を嫌った人だった。それが本書にも横溢して飽かせず、「久保田よ、生き返って今を語ってくれ」という思いに読者を誘う。
「傍若無人なコラム、エッセーの数々! ぼくらはこの人に、世の中を教わった」。帯の背中の小さな文字が、亡き人をしのんで、ふと涙を誘う。書いた編集者の思いが伝わってくる。
しかし、久保田二郎は涙を嫌った。それこそ、この人を特徴づける最大のものかもしれない。泣くことが好きな日本の風土にあって、それを笑い飛ばして文章家として生きることの困難はどんなだったろう?
「巨人軍は不滅です」と言って、泣きながら引退挨拶した長嶋茂夫。そして、感激の涙、無念の涙は高校野球。泣いてエンドマークは「寅さんシリ−ズ」…いずれも本書では筆鋒鋭く「笑われて」いる。
寅さん映画を「笑い→ほのぼの→涙」の起承結で分析し、「乾笑劇」に対立する「湿笑劇」と断じた一文は、見事な日本文化論になっている。いや「分析」はこの人に似合わない。「そんな学者や評論家めいた所業はワシャごめんだ」と久保田本人は言いそうだ。
彼のやっていることは、むしろ「料理」に近い。実生活でも料理を愛したらしいが、対象を切って、いためて、塩コショーで仕上げる久保田流の手さばきが、一部をうならせ、「傍若無人」だったのだ。
料理のベクトルは、ひちすら「快楽」に向かう。言葉は何故、同じ方向に向かってはいけないのか? その試行錯誤が久保田の生涯だったと私は見る。この国の涙の前提はストイシズムと「真面目」だが、彼は自分の快楽追求にのみ真面目だった。「20世紀文化の愉しみ方を身をもって教えてくれた怪人」。森永博志氏は本書にそう寄せている。
「ああパーテイーの夜はふけて」「極楽島ただいま満員」「手のうちはいつもフルハウス」「最後の二十五セントまで」「二十世紀号ただいま出発」。彼のエッセー集の表題は、声に出すと詩の一節にもなり、何よりも彼のスタイルを伝えている。
アロハシャツが似合い、夜のバーでは、白いタキシードとコンビの靴で「水割りってやつが嫌い」でハイボールを愛した。しかし、二十世紀の快楽と、スタイルの維持には金がかかる。晩年の経済的困窮はひどかったらしい。私財を投げて彼を支えた編集者「涙の物語」も聞いている。
有名か、権威が幅をきかせ、こういう「スーパーアマチュア」が食えなくなる日本のメデイア風土とは何か? メデイアの現場はみんな若く、ベテランはすぐに管理職になり、志と経験が相寄って実を結ぶのを、システムがつぶしてないだろうか? 七十歳を越した筆者とでも対等につきあい、新しい刺激で相手を鼓舞して、未踏の領域にチャレンジさせる、そういう気風がない。「おもしろそうな人間をテレビで捜す」、これが出版界の実態ではないか?
それにしても、本書のタイトルの言いにくさは何だ。書店や図書館のカウンターで頼むとき困るぜ。電話注文はさらにやっかい。はじめっからベストセラーをあきらめてるな。
これは、ベニー・グッドマン楽団のダンス・ナンバーであり、久保田のコラム・タイトルだった。水割りのようなメデイア状況に、俺が、天国から楽しいハイボールの雨を降らせよう。その時、天使が歌い出すのさ。久保田のそんな笑いが聞こえてきそうだ。