「週刊朝日」2000/8/4書評
「現代広告の読み方」
佐野山寛太著 文春新書
新書の刊行が盛んなのは、マスコミが時代を追いきれないからだ。複雑、スピーデイーな現象をテレビや新聞が稚拙な後追い解説すると、よけい混乱する。よく書けた新書は頭の整理にいい。加えて、マスコミは図体はデカいがタブーがある。広告問題だ。その広告を正面から論じて飽きさせない新書が出た。
今、日本列島で年間6兆円のカネが広告に投じられている。私たちは毎日が被爆者だ。広告は人の無意識に訴える点では「放射能」であり、教育問題だ。逃げられない、という点では環境問題だ。メディアという爆撃機から投下されるから、ジャーナリズムの問題であり、人の価値観や美意識に踏み込んでくるから、人生論でもある。
本書は去年の8月から今年1月にかけて執筆された書き下ろしだ。サントリーオールドを論じている真っ最中に佐治敬三会長が亡くなった。金融CMを垂れ流す報道番組に疑問を投げたとき、「日栄問題」が起こった。広告問題とはスリリングな「同時代ドキュメント」である。
立派な「報道番組」です、というタテマエで流通している画面に、日栄は繰り返し自社イメージを流した。朝日が昇るビル街、ラララ、ラララ、美しいスキャット「日本列島、北、南、日栄のある街の美しい朝です…応援します中小企業…」。
著者は、これは「おかしい」と思った。資金繰りに窮した友人が日栄から五百万円借り、その知人が連帯保証人になった。その保証が、実は一千万円の根保証だったという事例を身近に持っていたからだ。悪徳金融の手口が、美しく仕上げられたイメージに隠され、メディアを通してバラまかれている。
被害者が訴え、「腎臓売ってカネ返せ!」のテープが公開されてからテレビは一斉に豹変する。日栄のCMはピタリとやみ、今度は「日栄叩き」が始まった。さんざ儲けた自分たちについての釈明はない。
日栄はなぜ、報道番組とニュース番組にだけ狙いをつけてCMを打ち続けたのだろう?「ジャーナリズムなんぞ、オレ達が食わしてやったんだよ」日栄幹部のこんな笑いが聞こえないか? これが私たちを取り巻く「広告的現実」だ。同時に私たちのジャーナリズムの水準だ。そして日栄問題など、今や誰も話題にさえしない。
毎日毎日、広告は怒濤の波となって押し寄せる。「広告的情報」という紛らわしい波もある。本書はこのような時代に溺れないための、一枚のサーフボードである。ベネトン、ナイキ、ソニー、トヨタ、サントリーといった企業をケースに、現代広告の「読み方」が論じられている。とりわけ印象的なのが、戦争、死、同性愛といったタブーを素材にベネトンの広告を創り続けたオリビエロ・トスカーニの思想だ。
爛熟、浪費、退廃が極限にまで来ている日本で、彼のような「ラジカル」な反広告論がなぜ生まれないのか? 日本の広告人の怠慢がいらだたしいほど、彼の「バスタ・コジ! もうたくさんだ」の一言は鮮烈だ。
それは「広告的幸福で私たちは満足なのか?」という問いかけでもある。女性の最大の関心事である「ダイエット」の果てに幸福はあるのか? 新型車の広告を見て「スゲー」「欲しー」と思う欲望の向こうに満足はあるのか? 「欲しいものが、ほしいわ」(西武百貨店コピー)。この無限の輪廻を生きる私たちが立ち返る問いは、単純だ。「私って何だろう? 私の欲望って何?」そしてなぜ「今の自分でない自分になりたい」のだろう?
だから本書は人生論でもある。「棚上げされた満足」を獲物に六兆円マネーが投じられ、メデイアがそれを食う。何様のつもりなのかテレビ局の人間がデカイツラをしている。どこかに「バスタ・コジ」に見合う日本語はないか?