「週刊朝日」2000/9/29号書評
飛鳥新社刊行
宮崎学著
定価・本体1600円(税別)
『神に祈らず』
副題・大杉栄はなぜ殺されたのか
見回すと、サムライがいない、革命家がいない、「主義者」がいない、詩人がいない、いい男がいない。寂しい世紀末だ。かつて、これらの要素を全部もったまま虐殺された男がいた。
無政府主義者・大杉栄は大正12年、関東大震災の直後、憲兵大尉・甘粕正彦に殺された。38歳だった。本書は彼についての、評伝や研究書ではない。追悼やオマージュでもない。著者にとって「気になってしょうがない」大杉栄という人物をサカナに、平成の「今」を語った一冊だ。
いや、サカナというより、「天つゆ」と言い直そう。こういう本の作り方もあるのだ。大杉の思想、人柄、履歴、風貌をブレンドし「天つゆ」にし、そこに思いつくまま旬の具を放り込み、盛りつけた天ぷらが本書である。
時代は決して同じ繰り返しをしない。しかし似ているね、あの頃と今。大逆事件で12人が処刑され、国に逆らえばこうなる、と見せしめにされた。その後の「閉塞感」が長く時代の気分を支配した。日露戦争、第一次大戦の戦勝気分のバブルがはじけ、やがて海軍軍縮による造船不況が、じわじわと社会を締めつけ始める。そこに大震災のパニックが直撃した。
一方、平成の今はどうだろう? 何しろ「震災があれば三国人が騒ぎを起こすぞ」と煽る男が「変革の旗手」と頼りにされる時世だ。世紀末の軽佻浮薄がテレビを占拠し、「君が代・日の丸」「盗聴法案」がロクな審議なく成立した。これに著者は座り込みで反対の意思表示をする。
大杉を殺したのは日の丸と君が代だった。法廷で「国家への貢献とは何か」と問われた甘粕は「もっとたくさん殺すことであります」と答え、判決は「国家を思うの余りやったことは考慮すべき」の温情だった。
日の丸、君が代、天皇制こそ日本人の精神の未成熟の表れ、と著者は断定する。大杉と宮崎、ともに言葉と意見がむき出しであること、組織と運動を信じないこと、群らがることの究極の形態である「国」への嫌悪…二人は天種と衣のような親和力で引き合う。
大杉は愛人・伊藤野枝と幼児とともに拉致された後、憲兵隊内で手ひどい拷問を受けたことが76年発見の「死因鑑定書」で明らかにされた。扼殺された死体は憲兵隊の井戸に放り込まれ、糞尿まみれのまま腐乱していった。
三人を殺した甘粕正彦は懲役10年の判決を受けるが2年半で釈放され、官費でパリに遊ぶ。一方、大杉は殺される3カ月前に演説して同じパリで投獄されている。何と不公平な二人の処遇! いつの時代も、官は官を守ることを覚えておこう。
惨めに死んだ大杉は、かつて葉山の日影茶屋で、三角関係のもつれから神近市子に刺されたほどの色男だった。その時の風貌と知性そのままに、彼は平成の今に本書でよみがえった。
莫大な債務、長期不況…大震災でも起これば、もはや今の政治と官僚体制ではもたない。その危機感が「日の丸・君が代」「盗聴法」だ。一方、大杉が殺された一年半後、治安維持法が成立した。思想、意見、意図にまで過酷な拷問と予防拘禁が待っていた。もう大杉のような人物は登場さえ許さず。時代は戦争の奈落へ滑り落ちていった。
むかし軍隊、今マスコミ。時流を牛耳るメデイアは大丈夫か? 治安維持法の立て役者、正力松太郎は「大杉栄は米、味噌、醤油、家賃まで踏み倒した」と事実無根を記者に語り、記事にさせている。官の発表をオウム返しする「マスコミの垂れ流し構造は、昔も今も、まるで変わっていない」。正力は当時、警視庁刑事課長、のちに読売新聞社主、日本テレビ創業社長。マスコミと官僚が同じ体質であることを象徴する人物だ。
平成の自称「アウトロー」の著者は、国へ国へと引き潮をつづける浜辺にとどまる一匹の蟹だ。死して、なお人の思想が生きるとはこういうことか。星になった大杉を見上げる蟹の思いが本書に漂う。