「週刊朝日」12月 22日号、書評

兵藤裕己著・NHKブックス
定価・本体970円(税別)
『「声」の国民国家・日本』

 
あの時、もし、加藤紘一が子分たちと「赤穂浪士討ち入り」の衣装で国会に登場し、森内閣不信任決議に賛成を投じていたら、事態は一変していただろう。反自民の国民的鬱屈が点火されて、もはや野中、亀井じゃどうにも手のつけられない「平成の浪花節」パニックになっていたのではないか。

本書を読んで、ふと、そんな妄想をもった。この本は私の近代史の見方を変えた。浪花節をバカにしてきた自分の間違いを気づかせてくれた。教育勅語とか、治安維持法とか、国家総動員法とかの上からの施策が国作りの主役だった、というのは錯覚だった。その下に、実に広範かつ堅固な「浪花節の心性共同体」があった。

「国土、民族といった母なるものへの回帰幻想へ人々を駆り立てるのは、文字言語のロジックよりも声の力である」。誠実に丹念に、学問の表舞台に決して登場しない浪花節ワールドを探索し、それが、熱い、深い陶酔を人びとに与えたことを本書は教える。   

浪曲は東京の貧民窟の生業として最下等の芸能だった。それが鉄道の発達とともに全国に流浪し、いつしか「日本人なら誰でもわかる物語」を伝える口頭芸の地位を確立する。明治39年、日露戦争の翌年、東京の浪花節寄席は80軒、浪曲師は四〇〇人で、講談、落語を足した数を越えていた。

その演目は仇討、武勇伝、侠客、お裁き、出世、心中、世話物などに及び、芸人はそれぞれに工夫をこらし、メロディアスな節回しに乗せて人々を陶酔させた。声が作りあげた国民の「心情の岩盤」こそ、日本ナショナリズムの機関車役を果たした。社会主義運動は治安維持法に屈したのではない。この岩盤に歯が立たなかったのだ。

こうして、アウトローな芸人たちの「声」が果たした国民国家形成の実態を見せつけられると、福沢諭吉や伊藤博文の存在さえ歴史の添え物に見える。数ある浪曲師の中で、プレスリーのような大スターが桃中軒雲右衛門だった。彼のうなる「赤穂義士伝」に国民は酔い、政・官・財界の要人も劇場につめかけた。伊藤博文も、ついには有栖川宮妃までもが彼を座敷に呼んだ。

浪曲は日露戦争の戦勝気分を煽り、昭和に入り、右翼や急進派軍人による要人テロに同情的な気分を作った。折しも、レコードとラジオという新時代のメデイアに乗り、そのパワーは、昭和15年、 内閣情報局を動かして浪曲向上会を作った。同会は文壇人を総動員して愛国・軍事浪曲の量産に向かい、やがて浪花節は国策と一緒に殉じた。  

浪花節に代わる国民国家共同体のシンボルはテレビであろう。しかしテレビには、かつての浪花節のパワーはない。最下層から這い上がった浪曲師たちの仕事への情熱も企画力もない。テレビは「だらけた共同体のシンボル」として機能しているだけだ。

しかし、浪花節的心情は日本人の深層にオリのように固まって、今も出口を求めているはずだ。「花田憲子、親方との確執を超えて」、「高橋・小出、涙のウィニングラン」など、常に新たなネタを求めて国民はワイドショーを見る。香取慎吾の「オッハー」の全国制覇は、まさに声による共同幻想がなし得たことである。しかし、浪曲にみる「国民の情念」と恍惚は、そこにはない。

かつて、ドイツ国民を陶酔させたのはヒットラーの「声」だった。今や左翼は声を失っている。かたや石原慎太郎、小林よしのり、福田和也、西部邁、西尾幹二氏・・・いずれも浪曲的大衆を嫌い、まったくもって声に魅力がない。そこに彼らのナショナリズムの限界がある。美空ひばり亡き後、声の空白を埋めるのは誰だろうか。そんなことを考えながら、私は「湘南ビーチFM」のDJとして毎週マイクに向かって声の仕事を続けている。

貴重な本だが、惜しむらくは、時々、学者の物言いに立ち止まってしまう。「法治国家としてのアポリアをかかえこむ」などの表現は何とかならないか。もう少し浪花節を勉強しなさい。当分私は浪花節にうなされそうだ。