本日発売、月刊「現代」に書評を寄稿した
月刊「現代」書評
新潮社刊 パトリック・スミス著 森山尚美訳
「日本人だけが知らない日本のカラクリ」
定価(本体 2200円+税)
外人に、それだけは言われたくないよ。イヤな書名だ。日本人なら、日本について一応のことを知っている。日本語で知りうることを、みんなで平等に分かち合っているつもりだ。
そこへ、ガツンと一発見舞うのが本書だ。日本人よ、そういうぬるま湯の悪平等、大勢順応(コンフォーミティ)から早く目を覚ませ!
実は、原題は「日本・再解釈」(ジャパン・リインタプリテーション)。著者は「自前で」、そして必死に、日本を理解しようとしている。それが、ひしひしと伝わってくる本だ。
彼は特派員として日本にやってきた。ライシャワーら、先輩ジャパノロジストたちの日本理解を、一旦全部「白紙」に戻して、原資料に当たり、現地に出かけ、当事者にインタビューしている。「自前」とは、そういうことで、ジャーナリストなら当然のことだ。それを私が驚いてしまうところが問題だ。つまり、こういうジャーナリストを日本で見かけなくなってしまった。
フットノート、「注釈」が22頁、一九二項目におよぶ。これは壮観だ。著者の取材と思索のプロセスを知る上でも必要だ。おまけに参考文献の列挙が30ページに及ぶ。悔しいが、その量にではなく質に脱帽した。その上での論陣だから、オイそれ本当かよ、ヒエー、知らなかった、あーそれ忘れてた、という事項の連続なのだ。
例えば、長崎に原爆を落とした直後のトルーマン米大統領の手紙が注にあった。「けだものを相手にしなきゃならない時には、けだもの扱いするしかない」。これは、日本側の「鬼畜米英」と好一対だが、大統領の本音が見えて、改めてショックだ。
取り上げられた主要テーマは、徳川や明治維新の歴史的考察、天皇、差別、現代文学、地方自治、ナショナリズムなど、その筆は執拗かつ強靭。日本を時間と空間の両面で、縦横無尽に駆け回る。決して体系的ではない。学者じゃないから公平さや目配りに頓着しない。我流だからこそ切り込みが鋭い。
彼は歴史を見逃さない。そのチェックは聖徳太子や万葉集の昔まで遡る。ここでは私の印象に残った一つを挙げる。一五七六年、日本に暮らした最初の西洋人、イエズス会修道士ジョアン・ロドリゲスは日本人についてこう記している。
「日本人には心が三つある。世間に向けて口にする偽りの心。友達だけに打ち明ける胸のうちの心。そして、ほかのだれにも見せず、心の奥にしまっておく自分だけの心」。
シンプルだが、真実ではないか。これを受けて著者スミスは喝破する。だから日本人は集団の中で「仮面」をつける。「みんな同じ」という仮面だ。こういう民を三百年間統治した徳川の治世を、スミスは徹底調査した末の結論はこうだ。
「徳川の将軍たちは儒教の原理主義者だった。徳川幕府は、掟書、条目、法度、陰惨な刑罰など、なんであろうと恐怖状況維持に必要な手段獲得に取り憑かれていた・・・江戸の日本は後のソ連邦またはクメール・ルージュのカンボジアと比較することすらできる」
これは「治安維持」というアングルから徳川時代を照らしたものだ。極論として笑うことは出来る。しかし私たちの大勢順応、画一主義、自分の意見をキチンと言わない態度、といった今日の問題は、実は、彼の指摘する歴史的現実から影響を受けているはずだ。
これに並べて、ライシャワーの次の文章を見てみよう。「徳川時代の長きにわたった完全なる平和は、日本に未曾有の繁栄をもたらし、工業生産と商業は急速に発展した」(『日本・過去と現在』)
この教科書そのままの叙述は、「泰平」のイメージをふりまくだけで、何も語っていない。実は本書の価値はここにある。日本の歴史と社会にはびこる正統や通念への挑戦だ。
進歩と近代化のイベントだったはずの明治維新も、著者は一刀両断で「あらゆる進歩の中核に復古があった」と言う。この時に省かれ、粉砕されたのはオートノミー(自治、主体性)だった。つまり現代の中央・地方の問題は、維新のあり方に根っこがあった。
そして「お役ご免になったサムライは、近代化を急いでいた国家にとって、うってつけの従業員だった。・・・会社が彼らのイエになり、大名の軍隊にいた当時に植えつけられた帰属意識が近代社会へ移された」
何だか徳川、明治を貫通して、平成のサラリーマンが見えてくるような叙述ではないか。経済破綻とリストラで、この秩序が崩れようとしている今、歴史を見直す彼の態度は学びたい。一方、日本のジャーナリズムのクセは何かと言うと、専門家にコメントを求めて理解した気になる。彼我の違いは大きい。
違いが端的に現れるのは「天皇」への切り込みだ。昭和天皇の分裂した実態に彼は言及する。白馬に跨った軍装の大元帥、モーニング姿で直立した戦犯予定者、顕微鏡を覗く生物学者。この「学者」が、陸軍のトップとして七三一部隊の生物化学兵器使用を許可した事実を彼は指摘する。ロドリゲスは日本人の三つの心を語った。著者スミスは、「三つに分裂した天皇」を日本人はどう認識しているのかを問い掛ける。天皇の真実を直視せずに、日本人は自分の近代史を理解できないはずだ。
「日本人はいま、自分が誰であるか説明することを迫られている」。それは各人が考えることだ。古びた大和魂で説明できるわけがない。夏目漱石の「私の個人主義」という大正三年の講義が、実に効果的に引用されている。彼の苦悩、彼の見出した光明は、今ますます重要だ。
オモテとウラ、内と外、タテマエとホンネを使い分けながら、日本人は、どれが仮面で、どれが素顔で、何が本音か、錯乱している。そして、近代国家のアイデンティティをもてないまま、滑稽にも言い出しかねない「我々を信用するな、自分でも信用してないのだから」。
その状況から逃げて、スッキリしたく、人々はあの懐かしくもイージーなナショナリズムの故郷へ帰ろうとしている。その帰還列車の窓辺で、駅弁食いながらでも読むべき本である。