「日本人・対・朝鮮人」決裂か和解か(光文社) 永六輔・辛淑玉
かつて「お笑い北朝鮮」という本で、テリー伊藤は「お笑い」の切り口であの国を論じてみせた。目からウロコであった。ところで、あの本で笑った人はいたのだろうか?
こちらの日韓問題は、過去も現在も、笑えない。しかし永・辛の本書を、私は文字通り、腹をかかえて笑って読んでしまった。書名に「対決」などと仰々しいが、「お笑い対談・日韓漫才関係」がふさわしいタイトルである。
在日朝鮮人の歴史に胸を痛めながら、暗―く重―いココロで本書を開くと、そこに元気いっぱいで日本人の男の子を追いかけ回す悪ガキ少女、新山節子に出くわす。辛淑玉の日本人名である。この人を、私は辛(つら)い辛(から)い人と完全に誤解していた。とんでもない、この人は間違いなくお笑い系の人だ。
転校ばかり続いた彼女は、教室のみんなに紹介されると、まず、一番強そうな男の子を、カバンでバシーッと殴って「よろしくなー」と言ってから、悠然と着席した。そうすると、いじめられなかった。給食当番の時は、天敵には「おい日本人の男って小食なんだって」と言ってスープを数滴だけ垂らしてにらみつける。永六輔がため息ついて言う「たたき上げの明るい在日なんだ!」
日韓の違いのおかしさは、たとえば夫婦ゲンカ。日本では夫婦喧嘩は外に見せない。ところが在日の夫婦がケンカを始めると、派手な大立ち回り。日本の会議はテーブルの下で物事が決まり、韓国ではテーブルを叩いて大声で議論する。食べ物では、ちらし寿司はそっと食べ、ビビンバはかき回して食べる。
この違いが楽しいし、笑える。この次元から日韓関係を点検し、二人で東京の日韓ゆかりの場所、浅草や御徒町や新宿や、はては青山墓地まで出向いておしゃべりしたのが本書だ。そして最大のおかしな点は、あの日本語の天才のはずの永六輔が、在日朝鮮人の辛淑玉の圧倒的な話術、話芸、話量の前に、時々ことばを失ってしまう点だ。
日本語危篤が言われて久しい。戦争に負けたのは、政治の貧しさであり、それは、実は日本語の貧しさではないか? 指導者が戦争を説明する言葉をもっていなかった。金融危機とは、実は経済人の言葉の貧しさを反映したものではないか? 韓国人は日本人に謝罪など求めてはいない。ただ日本人の「言い訳」の貧しさ、下手さに苛立っている。
ことは、言葉に発している。これが本書を読んだ一番の感想だ。辛のあふれるような日本語を目の当たりにすると、「よろしくなー」の頃から彼女が磨いてきた言葉が、メデイアの中で作ってきた永の日本語よりも遙かに強靱であることが分かる。
日韓併合、強制連行、従軍慰安婦…笑えない案件だらけの日韓関係。言葉をつくして言い合うことしかない。これからの日韓関係は「ムリして仲良くする必要ない。悪友みたいな関係が国際社会では一番安定性がある」と彼女は言う。悪友とは言い得て妙だ。仲良し漫才なんかつまらない。ボケとツッコミ、悪友関係こそ漫才も面白い。
唐辛子は日本から、桜の花は韓国から。祖先たちは心を開いて、陶芸、染織、仏典などを教え学び、暮らしのあれこれを楽しみあったはずだ。半島に帰る悪友との別れに、九州の浜辺で熱い抱擁もあっただろう。しかし、やがて秀吉は朝鮮を「征伐」し、明治は「征韓論」が幅を利かせ、日韓関係は二十世紀の現代史において最悪の関係となった。
山なす諸問題をどうするのか、南北分断はどうなるのか? これを解決するのは、ひょっとすると、笑いのセンスをもった、新しい世代の在日朝鮮人と、その「日本語」かも知れない。日本人の出番はなさそうだ。日本語下手なんだもん。永六輔を乗り越える日本語の達人、そういないよ。