今週発売の「週刊朝日」に書評を寄稿

龍多美子著・KKベストセラー

「すべてはガーターベルトから始まった」



 神様の不公平を恨みたくなる一冊である。本書は「女性にとって、ランジェリーが、いかにキモチがいいか」を熱く語る。一体、男がサルマタを語って一冊の本を書けるだろうか?

 本書は五章に分かれる。「下着の悦楽」「女性の身体の愛しいところ」「経験こそ技のこやし」「女がスケベで何が悪い」「なりたい女になってごらん」。本の装いも章立ても、挑発的だ。しかし、絹のレースの下に汗ばんだ肌が息づくように、本書の底流には自分の肉体との対話、葛藤があり、ユニークなボディー・ヒストリー、「自伝的身体論」がここにある。

 まず最初に胸を打つのは、十六歳の著者が初めてガーターベルトでストッキングをはく場面だ。透き通ったセミの羽根のように繊細な黒い編地に、少女の脚が次第に包まれてゆく。その初体験は「たちまち私を虜にしてしまった」。意外なのは彼女を見舞った、強く、逞しく、甘美な「拘束感」だった。

 「ストッキングの拘束感は、なぜ快感なのだろうか」という問いかけで始まる身体論は、男にとって永遠にナゾとしての女心の深層を語る。

「足首からふくらはぎにかけての強い拘束感、これと対照的な太腿からお尻にかけての無防備なほどの開放感。このコントラストは、はき続けてゆくうちに、いつしかたまらない快感となった」

 湿潤な、腰巻の風土に育った少女が、乾いた地中海の「オリーブの文化」に出会いおののく場面は、一篇のファンタジーである。この感覚を手放さず、著者は下着屋で働き始め、「リュー・ドゥ・リュー」という下着屋を開店して業界有数のショップに仕上げ、女性の身体について独自の視座を構築した。

 「ウェストの正体」という一文で著者は「そもそもウェストとはどこを指すのだろうか?」と問い掛ける。「ウェストは身体の中心に位置し、すべてのパーツとつながっているので,全身のバランスを調節するという使命がある・・・身体中の筋肉はお互いに協調し、調和しあい、連動している」

 この考え方で改めて女性の身体を見直すと、それぞれに、有機的で個性的な美しさを発見し、確かめられる。思い込みの数値で女性のプロポーションを値踏みする男の美意識と価値観。そして「痩せよ、細かれ」と女性たちを脅迫するエステ・ビジネス。そのいずれにも拮抗する美学が展開される。

 私がとりわけ「めまい」したのは「お尻は筋肉と意志でできている」というくだりだ。それはどんな意志だろう? これこそ、脳髄と体面だけでコトに対処しようとする男性への、鋭いカウンター・ストロークだ。本書には借り物の思想がなく、書物や文献からの引用は一切ない。体系を欠き、時に叙述の粗雑が気になるが、試着室で毎日お客のフルボディーと対峙しながらの、「戦場での走り書き」である。

 ランジェリーとは何と不思議な、矛盾にみちた衣装だろう。それを着ることは、脱ぐことの予感だ。また、隠すことの恥じらいであり、見せることのためらいである。拘束であり、開放である。「ためいき」のように小さな、この衣装が、私を惹きつけてやまないのは、その「アンビバレンツ」のゆえである。

 ここに、人類が走り続けた文明への大事な反措定がある。それは、プロセスを端折って結果を急ぐ文明に対するアンチテーゼである。旅や恋愛において、その「プロセス」を省略することに、何の意味もない。ランジェリーとは予感とプロセスを暗示し、男性の参加をもって成就する衣装である。

 本書の最終章は、男と女が対立するものとしての二元論を否定し、新しい和解の糸口を提起している。

今や、性の区別や先入観が崩壊を続ける時代に、下着という現場をもった女性の「天路歴程」がここにある。その脚は十六歳で官能に目覚め、男を幸せにする写真と言葉になった。神様の不公平をゆるせる本である。