「日本経済新聞」に定期寄稿しているコラムが、編集部の意向で掲載されなかった。
理由は次の二点である。 1、日曜日に「下の話」は不適当 2、介護保険に批判的なのは困る。
最終的に私は文章の変更に応じず、この原稿は掲載されないままになった。



日本経済新聞『描かれたエルダー』
 
石井信平


川端康成著 「十六歳の日記」(岩波文庫「伊豆の踊り子」収録)



老いて寝たきりになる。その時、最大の問題は下の世話であろう。追想や叙情、詩歌や句作にふけるのが晩年ではない。

川端康成「十六歳の日記」で描かれたのは、老人の切実な「排泄」のリアリズムである。盲目で耳の遠い祖父と二人暮らしの中学生。学校から帰った彼に、七五歳の寝たきり老人がせがむ。

「ししやってんか。ししやってんか、ええ」要するにシッコをさせてくれ。「これくらい私にいやな仕事はない、私は自分が恥ずかしくなる」

老人はせがむ「しびん持って来て、ちんちんを入れてくれんのや」。前をまくり、いやいやながら注文どおりにしてやる。「はいったか、ええか、するで、大丈夫やな」。排尿時の痛みの声をエンエンとあげる老人。そして、しびんの底に響くのは「谷川の清水の音」とある。

川端康成は生後まもなく両親と死別し、この祖父と暮らす。「介護」の重荷はずっしりと彼の肩にかかった。数え年十六は満年齢で十四である。昔はこうした介護が普通だったのだ。老衰も死も、手が触れるところにあった。「看取りの習慣」が、暮らしの真っ只中にあった。今はそれが介護保険と業者に「有料化」された。老人の「ししやってんか」を子供がしなくてもいい。これは一体進歩なのだろうか?

肉親の老衰と、死の実態を、キチンと見て、触れて、体験することは、子供にとっては文部省が生徒に押し付ける「奉仕活動」より価値あることかもしれない。

死にゆく祖父を、原稿用紙百枚にわたって写生してゆこう。作家を志していた中学生の描写は、主観を排し、リアルだ。寝返りを打たせるところ、茶を飲ませるところ、「わなわなとふるう骨と皮との手」「足も頭も・・・皮をつまみあげると、そのまま元へもどらない」。

この描写力が後にノーベル賞作家・川端康成をつくった。しかし彼は、あらゆる栄達を捨て、七二歳の時、海の見える逗子マリーナの一室でガス自殺した。彼は誰かに「ちんちんをつままれて、しびんに入れてもらう」のを、どうしても拒否したかったのだろうか。(信)