日本経済新聞 『描かれたエルダー 
石井信平


林芙美子著「晩菊」


別れていた男との再会に、心はときめく。しかし、五十六歳の女は「容色の衰え」に向き合わねばならない。

林芙美子の「晩菊」は、芸者だった女「きん」が、かつて恋した「田部」という年下の男から電話を受け、身支度を整える場面から始まる。「けっして自分の老いを感じさせては敗北だ」


風呂に入り、太股がぴっちりと合い、その窪みで湯が溜まっていることも確かめる。氷で顔をマッサージし、舶来のクリームを惜しみなく塗った。キリリと着物を着るのに、腰は細く、地腹は伊達巻で締めるだけ締め、お尻にはうっすりと真綿をしのばせた。

鏡の前で冷酒を五酌キュッとあおる。酔いが目元を赤く染め、眼をうるませ、顔の艶を増すことを、きんは知っていた。まるで、戦陣に赴く武士の心意気だ。

「きんは女であることを忘れたくなかった」。生涯、恋愛と容色に悩んだ林芙美子の筆により、初老の女の心理と立ち居振舞いが実に克明に描かれる。

しかし、再会は惨めなものだった。かつて陸軍少尉だった田部を、遠く広島の部隊に訪ね、官能の二晩を旅館で過ごした。目の前の男は、あれと同一人物なのか。ビルマ戦線から復員し、兄の世話で会社を起こして失敗した男は、まだ三十代なのに老け込んでいた。

持参したウイスキーを飲みながら、彼は切り出した「四十万円ほど都合つけられないだろうか」。きんは目の前にだらしなく酔っている男の申し出を拒絶した。

男のあの初々しさ、荒々しさはどこへ行ってしまったのか。「長い戦争もあったしね」男は言い訳を言った。ここには、自尊心をなくした男が、三十代にして早くも「老境」をさまよう無残がある。同時に、どんな逆境にも、どんな年齢でも女のプライドを忘れない女性が描かれている。

男の不幸はもちろん、恋するに足る男がいないなら、女にとっても不幸な時代ではないか。敗戦直後、昭和二十三年に書かれた小説だが、今も日本列島で、艶も恋も喪失した男たちが、田部と同じような言い訳をしていないか。「長い不況も続いてるし・・・」