日本経済新聞 『描かれたエルダー』 
石井信平 


幸田文著 「父・その死」


描かれたのは「精神」だった。父、露伴の崩壊する肉体をみとりながら、幸田文の悲しみは、その精神との別離だった。
 空襲で小石川の自宅を焼け出され、一家はバラックの借家に身を寄せる。80歳の、失明同然の、寝たきりの父の歯茎から大量の鮮血がほとばしる。異変は次々に襲い、かつぎこむ病院はなく、焼け跡に氷を見つけるのは至難のワザだった。
 「花がしぼむのも鳥が落ちるのも、ひっそりしたもんなんだよ」かつて父はそう言った。医者が来ても威力をひそめて横たわり、どっちが医者だかわからない。

 ビールを飲みたいと父が言う。手分けして見つけたビールは吸い飲みで口に運ばれた。父は言った「くそ面白くもない、まるで牛の小便みたいにとろとろと出てきやがらあ」。
 停電の夜、うろたえる文に父が声をかけた「夜なんだろう」。あくせくするな、
それは、かつて家事全般について父が娘にしつけたことだった。こうした「ほんとうの父」を垣間見る時は、また怒濤のような悲しさとなつかしさが押し寄せる瞬間でもあった。この精神との別離が近い。

 やがて父の精神に決定的な終焉が訪れる。「御飯あがる?」「ああ」「おかゆの方がいいでしょう?」「かゆがいい」…。オウム返しの父は、断然父でなかった。ああ、平生父として仰いでいた人はどこへ行ってしまったのか。「こんなものなら、もういらないと思った」。これは、精神において父と対峙してきた人の言葉だ。
 この記録小説には、ほんの一、二度「みとる」という言葉が出てくる。しかし、ただ一度も「介護」という言葉は使われていない。弱き者をみてやる、の意識がないからだ。

 介護問題は、老人を肉体のありようでランク付け、カネをどう振り分けるかで論じられている。ここに描かれた露伴を見ていると、「介護ならいらぬ!」の一喝が聞こえてきそうだ。
 その言葉は非現実的だろうか? 老人が「いい子」になってオウム返しを繰り返し、とっくに精神を喪失している現実こそ、恐ろしいことではないか?