日本経済新聞 『描かれたエルダー』 
石井信平

枯れず、ひがまず生き抜きたい

河野多恵子著  「来迎の日」

 
老いて「往生際」がいいか悪いかは、当人も周囲もどうすることも出来ない難題である。一人の老人が、重病の末に臨終を迎えるとは、実はこんなにも人騒がせなことだったのか。

河野多恵子作「来迎の日」(新潮文庫「赤い唇、黒い髪」所収)で描かれたのは、危篤なのに一向に死ねない老人と、それを巡る家族たちの「あたふた」ぶりである。傍から見れば滑稽だが、当事者たちは実に大変だ。そして、人の晩年とは、こんなにも濃密なのだ。老いと、病いと、配偶者の死が同時にやってくる。

八九歳の徳三が肺炎で入院する。その間、八六歳の妻が尿毒症でぽっくり死んでしまった。その死と葬式のことを徳三に報告すべきかどうか、家族はモメる。「病気に触るから隠そう」と決まる。しかし、息子の身体にしみついた香の匂いで「ウソを言っちゃいけないよ」とたちまち徳三にバレてしまう。「そうだったか・・可哀そうになあ」徳三の、年輪を感じさせる哀切な一言だ。彼の病状はさらに悪化する。

「今日は何だか、皆ともお別れのような気がする」彼がこうつぶやく度に、親族一同が振り回される。何しろ、四回も臨終寸前になる。そのたびに息子たちは会社を休み、女たちは家事を投げ出し、孫たちは授業もそこそこに、徳三の枕もとにかけつけた。その際、一同そろって会うべきか、少しづつ交代で看取るべきかも問題だ。そして、何とか危機を脱したお祖父ちゃんに、別れ際、何と言葉をかけていいかも難問だ。「さよなら」とは、とても言えない。

時には、入院先から女と消える離れ業もやってのける徳三のしたたかな生命力は、三途の川を渡る前の準備運動の切なさがある。

「お祖父さんのは老人の自己顕示だ」、「よくお迎えの来る人だよ、これで五度目」などと陰口を叩かれる。そして終焉は突然やってくる。自宅の明るい庭に顔を向けて、枕辺に誰も居ないとき徳三は息を引き取る。

陰口にもめげず、枯れず、ひがまず生き抜いた徳三こそ人間の原型である。人を騒がせてでも生き抜く果てに「大往生」がある。