日本経済新聞 『描かれたエルダー』 
石井信平


稲妻のような老婆の妄想


円地文子作 「妖」


「目・歯・魔羅」は男の老化ポイントとして、名高い。では、女はどうなのか。
円地文子は男性にとっての「秘境」をリアルに、冷たく描いて飽かせない。

「妖」(講談社文庫)は、「陰気に、平穏に」過ぎてゆく初老夫婦の物語だ。
妻の千賀子が義歯を入れ、遠視の眼鏡をかけても、夫は一向に気づかない。

妻の容姿に関心がない。こうして放置された女の、ゆき場ない不安と、老い
ることの呪わしさが、細部にわたって書き込まれる。
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「とも白髪じゃなくて、とも入れ歯」の夫婦の食卓は、カチカチと麻雀パイの触
れあうような音をたてて食べられる気安さ。歯に合うよう好物も互いに接近し、

別々の老人が一つ家の中で自我を摩滅させて、このまま人生は暮れて行くの
であろうか。

目と歯と、やがては他人の髪でつくったカモジで装う日も近い。自然の凋落を
何とか阻止しよう、若く、美しくとあがいても、まるで朽ちる肉体を鎧かぶとで
武装するようなもの。入れ歯を抜き取れば、口の中はがらん洞。この虚しさを
埋めるものは何だろう。

驚きは、この老境の女性がもつ、女だからこその想像力の豊かさ、みだらさで
ある。「自分の身体は年とった猫みたいにぐなりとしているのに、心の働きが
自由すぎて気味が悪いの」

妄想、助平が男のものとして公認され、そのための「風俗」や映像は街にあふ
れかえっている。その凡庸さを笑うように、女が閉じられた心の密室で想うこと
は、灰色から闇に暮れようとする空に、「稲妻」が走るような凄みがある。

家の前を通る、音楽学校生徒のテノールの声に、「たくましいノドの盛り上がる
筋肉、とび色に光る胸の隆起」を想像する。「自分の口腔に挿入されたままの
合成樹脂の入れ歯」だが、今、若い男性を身近にしたとき、彼女はふと「自分
以外の舌がそこに触れた時の、固い感触」を想像する。

この淫らな思いに「気づかず、無関心」である男は退場すべきだろう。三点セッ
トの老化を嘆くより、このような豊かな想像の世界に、ともに戯れて遊ぶのが、
老いの豊かさである。