物理教育研究会「物理教育通信2006No.l26」原稿 図書紹介「アドバンシング物理A2」
J.オグボーン/M.ホワイトハウス編 笠耐/西川恭治/覧具博義 監訳 シュプリンガー・フェアクラーク東京 A4変 上製 261頁 4,000円
待望の「アドバンシング物理A2」の日本語訳が出た。いうまでもなく既刊「アドバンシング物理AS」の続編である。どのページを開いても,カラーの写真や図表がふんだんに使われ,かつそれらのすべてがたいへん美しい。
章立ては次のようになっている。参考までに「AS」の目次から一通り並べてみる。
【AS】
<コミュニケーション>
1 イメージング
2 センサー
3 信号を送る
<デザイナー・マテリアル>
4 材料をテストする
5 物質の内部を探る
<波と量子の振る舞い>
6 波の振る舞い
7 量子的振る舞い
<空間と時間>
8 空間と時間の地図を作る
9 次の運動を計算する
【A2】
<モデルと規則>
10.モデルをつくる
11.宇宙空間に出る
12.宇宙の中のわれわれの位置
<物質の究極>
13.物質:非常にシンプル
14.物質:非常に熱い,非常に冷たい
<場と粒子像>
15.電磁的な機械
16.電荷と電場
<物質の基本粒子>
17.物質の究極を探る
18.電離放射線とリスク
<物理学の進歩>
ケーススタディ:物理学の進歩
物理の学習事項がそのまま章の題になることが多い日本の教科書と比べてなんとも様子が違うことがおわかりだろう。教材の配列の視点がそれまでの伝統的な物理の教科書とかなり違うのである。
さて,内容について感じたことを述べる。
はじめにその「実用主義」である。
まず,科学・技術が,現実のどんな場面で使われているかを紹介し,その原理やメカニズムを解き明かす過程でそこに存在する物理法則に気がつかせるという展開で書かれているところが多い。
たとえば電磁気の単元である「15.電磁的な機械」を見てみる。現代社会は「電磁的な世界」であり,それには19世紀に登場した「電磁石」が決定的な役割を果たしたこと,また電磁石をはたらかせるための電流はファラデーが発見した電磁誘導の法則,すなわち磁気から電気をつくる方法の発見に全面的に負っていることが最初に説明される。電場も電磁力も習わないうちにいきなり電磁誘導を学習するのである。次に変圧器である。変圧器で磁束が一周する鉄芯部分を,電気回路に模して「磁気回路」と呼ぶ(この言葉を私は本書で初めて知った)。電気回路の場合のコンダクタンス(=抵抗の逆数,コンダクタンスについては「AS」の「2.センサー」で出てくる。)に対比される量として,磁気回路でのパーミアンスが定義される。コンダクタンスを単位断面積,単位長さあたりに直した量が導電率であるのに対して,パーミアンスを単位断面積,単位長さ当たりに直した量が透磁率である。変圧器の鉄芯はこれが非常に大きく作られている。また,変圧器の鉄芯が積層板鉄芯である理由が,鉄芯に生じる渦電流を防ぐためであることが説明されている。
変圧器の次は発電機である。かなり突っ込んだ技術的な説明が続く。例えば「ここに注目すべき技術的な問題がある。それは,磁気回路に切れ目を入れなければならないということである。切れ目を入れて,その部分の磁気回路が回転できるようにしなければならない。これにより,磁気回路の中にパーミアンスの低い空気ギャップができる。その結果,鉄芯の中の磁束が小さくなる。そこで,技術的問題は,回転子と固定子をうまく配置し,空気ギャップをできるだけ短くし,磁束をできるだけ大きくすることである。」という具合である。さらに話は,3相交流,回転磁場モーター,誘導モーターと続いていく。ずっと後のページまで行って,ようやく日本の教科書でもおなじみの,磁場の向きに垂直に置かれたレールの上に導体棒を渡し,この導体棒を速度vで動かすときの回路に生じる起電力や,一様な磁場中でロの字の導線を回転させる簡単な構造の発電機の原理が説明される。最後に,仮に摩擦や損失がなければ,発電機から取り出される電力は,注入された力学的な仕事に等しいはずであるという理由から,ようやくF=ILBが導出される。
次の章が「16.電荷と電場」である。この章では線形加速器が扱われる。途中,相対論のE=mc2とE≒pcが示されて,電場で加速される荷電粒子は,エネルギーや運動量には限界はないが速さには限界があり,実際,スタンフォード線形加速器(SLAC)のトンネルの中で加速される電子は,エネルギーがどんどん増加しながらも,速度はほとんど変化しないことが説明される。
次に話は円形加速器に移る。荷電粒子の磁気偏向としてのローレンツ力が説明される。CERNの大型電子−陽電子衝突器(LEP)が紹介されている。次は粒子検出器である。ガイガー・カウンターの原理が説明される。この考えをさらに進めて,現在多くの素粒子物理学の実験で用いられている大型のマルチワイヤ検出器が発明されたことが知らされる。ちなみにこのページのマルチワイヤ検出器の写真がたいへん美しい。ガイガー・カウンターのような円筒対称な電場を扱った後で,次に球対称な電場の場合に話が進み,電場の逆2乗則が導出され,電磁気の章の最後を締めくくるのが,なんと「クーロンの法則」である。普通の教科書とはまるで逆の配列になっている。驚きである。
次に感じたことは「物質科学の重視」である。
目次から関係する章をひろうと,「4.材料をテストする」「5.物質の内部を探る」(←以上「AS」),「13.物質:非常にシンプル」「14.物質:非常に熱い,非常に冷たい」(←以上「A2」)と4つある。
「4.材料をテストする」では,材料の力学的性質や光学的性質,電気的性質だけに止まらず,建築物の構造強度なども扱う。
「5.物質の内部を探る」では,走査型電子顕微鏡(SEM)や走査トンネル顕微鏡(STM),原子間力顕微鏡(AFM)といった先端技術で何が見えるかが最初に紹介される。もちろん結晶は扱われるが,金属の延性の説明(成形と滑り:転位)や,ガラス,セラミック,繊維,ポリマー,プラスチック,ゴムなどの物性も簡単にではあるが扱われる。そして半導体である。金属と半導体では伝導率の温度依存性が逆になることが示された上で,「チップは,絶縁領域と伝導領域と半導体領域とをもつ,小型化した電気回路である。チップを作るには,シリコンの伝導性が制御可能であることが必要である。絶縁部分を作るには,シリコンを酸素か窒素にさらして,酸化シリコンか窒化シリコンをつくればよい。伝導領域を作るには,金でコーティングすればよい。しかし,トランジスタの半導体部分を作る重要な段階は,ドーピングと呼ばれる過程である。イオンをシリコン表面に向けて噴霧して,その結晶構造にイオンが吸収されるようにする。」なんとも製造工程のすぐそばで見ているかのようなリアリティが感じられる文章である。
「13.物質:非常にシンプル」。日本の教科書では,気体の法則として,ボイルの法則とシャルルの法則を天下り的に教えてすませてしまうところを,本書ではベルヌーイが当時にあって早くも粒子論的な気体概念を持っていたことに触れ,その考えを19世紀にマクスウェルやボルツマンが分子運動論に発展させたことが述べられている。そして,最後に「温度Tの物体中での粒子はそれぞれkT程度のエネルギーを持つ」ことが強調されて,次の章に続く。
「14.物質:非常に熱い,非常に冷たい」では,「皆さんには,細部よりも全体像を見ることを勧めたい。大きな一般原理は,粒子がおおよそkT程度のエネルギーを分かち持つということである」と再び語った後で,T=300K程度の地球から,T=6,000K程度の太陽表面,T=6000,000K程度の太陽内部というような高温の世界,また逆に,液体空気や液体ヘリウムのような低温の世界について考察する。次いで,ボルツマン因子exp(−ε/kT)が,分子が余分のエネルギーを獲得する確率として紹介され,ある自然現象が起こり始める温度Tは,kTが活性化エネルギーεの1/30〜2/30くらいになるところからであると説明される。すでに立派な統計力学の領域である。
これら以外にも,例えば量子物理学や素粒子物理学のような現代物理学がかなりの分量で扱われていて,かつその配置が伝統的な物理教育観からすると全く驚愕的であることも本書の特徴である。たとえば,量子物理学がニュートン力学の前に置かれていたりする。(「AS」)
外国の高校物理の教科書といって,すぐ思い出されるのは,60年代の「PSSC物理」であったり,70年代の「プロジェクト物理」であったりするが,この「アドバンシング物理」は,それらにひけを取らない歴史的インパクトを持っていると思う。
実は「アドバンシング物理」は,生徒用テキストとCD−ROMが対になっている。私はまだ見ていないが,これもかなり面白そうである。
このように,私は,本書の斬新さや美しさに最初から最後まで圧倒されっぱなしだったのだが,しかし,同時にいくつか疑問も浮かんできた。例えば以下の3点などはどうなっているのだろうか。
1点目は,指導時間についてである。
英国の高校生は,「AS」も「A2」も1年間で学習すると聞いた。本テキストの分量・内容から考えると,驚異的である。日本の高校で,日本人の先生が,日本人の生徒達にこの「A2」を指導するとしたら,5〜6単位でも足りないくらいだろう。「AS」にしても,やはり同程度は必要と思われる。(内容的に「A2」より易しいのだから指導時間が少なくてよい,ということにはならない。理系以外の進路希望の生徒も想定していることを考えれば,むしろ「A2」よりも多くの指導時間が必要かも知れない。)英国では,どのくらいの指導時間をかけているのだろうか。
2点目は,コンピュータ環境についてである。
上にも書いたCD−ROM教材が,「アドバンシング物理」の指導には不可欠である(らしい)。英国の高校生は,学校にいる時間はもちろん,家庭にいるときも,自由にコンピュータを使って学習できる環境が整っているのだろうか。
3点目は,教師教育についてである。
「A2」はもちろん「AS」の一部にも,日本の大学初年級で学ぶ物理の内容が含まれている。英国の高校の物理教員の大多数は,これらの内容を十分指導できる能力を以前から持ち合わせていたということだろうか。確かに,英国は,長年のAレベル指導の経験と実績を持っている。しかし,「アドバンシング物理」の場合は,コンセプトそのものが全く新しいカリキュラムなので,いくら英国の教師でもそう簡単にすぐ授業ができるとは思えない。「アドバンシング物理」を始めるにあたって,大規模な教員研修などが行なわれたのだろうか。
最後に一言。この「アドバンシング物理」(日本語訳)は,「AS」が3,500円,「A2」は4,000円である。個人で買うのにはそうとう高価な本である。原書の価格が英国の感覚でどのくらいなのかはわからないが,このような豪華な教科書がそんなに安く作れるとも思えない。外国の教科書は,日本のように生徒個人が所有するのではなく,学校の教室に備え付けるものだから価格は問題にならないのだろうか。ならば日本でも,学校図書館で(または教科予算で),「アドバンシング物理AS・A2」を“40(+アルファ)セット”購入して授業で使うというのはどうだろう。30万円強の予算でできる。SSH校あたりで試してみてはいかがだろうか。
石川 昌司(北海道札幌啓成高等学校)