過去の記事
「からす窯日誌」「山の暮らし」に書いた記事をストックしています。下の目次タイトルをクリックすると、目的の記事にジャンプします。(06.08.17)
<からす窯日誌> 窯小屋の拡張工事(06.03.31)/志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」を見る(05.12.07)/釉薬テスト、土のテスト(05.10.13)/やってしまった。ぎっくり腰!(05.08.11)/ギャラリーを作る(05.06.29)
<山の暮らし> 今年も畑にイノシシが(06.05.30)/
冬じたく(06.01.16)/ここはインターネット過疎地?(05.10.13)/倉渕ダムのこと(05.09.03)/まだつづくイノシシ騒動(05.08.11)/角落ち山登山(05.06.16)/山暮らし(05.05.15)/森を歩く・カモシカ尾根(05.05.15)
2月/窯小屋の拡張工事(06.03.31)
単管を打ち込んで柱にする
2月9日 木
朝7時でも−9度。 冷え込む。水道が凍結。蛇口の氷を溶かしても水がでない。外で凍ったようだ。不便。
昨年暮れ、水道配管の付け替え工事がおこなわれた。これまで窯の前にあった水道メーターが移動した。このメーターのために窯小屋は狭くて不便だった。これで小屋の拡張ができる。窯小屋拡張のレイアウトを検討する。必要な資材をリストアップする。
2月10日 金
軽トラで榛名町のホームセンターへ。窯小屋拡張用の資材を買う。単管(鉄パイプ)とクランプ(接続器具)、単管打ち込み用のハンマーなど。以前に比べて3割くらい値上がりしている。売場担当者にたずねると、「石油の値上がりの影響で鉄が値上がりしたから」。
家に戻るとさっそく単管を打ち込む。これが柱になる。小屋を拡張する部分の整地をする。
サルが来る。わが家には柿ノ木が3本あって、ほとんど収穫したのだが、一部残っていて、それをねらってサルが来た。撃退用のパチンコを探すが、ゴムが切れていて使えず。
2月11日 土
朝からサルが来る。落ちている柿などを拾い集めて片づけておく。
今日は契約の日。契約とは班ごとの自治会総会のようなもの。歴史はこちらのほうが古いらしい。集落総会といったほうが適切か。会計報告、役員改選などがある。決め事が一段落すると、食事と酒になる。地区によっては全戸で温泉に出かけ、泊まりがけで契約をおこなうところもあると聞くから驚く。倉渕各地区各班の一大イベント。
呑んで帰るので、この日は仕事をあきらめている。
2月13日 月
窯小屋拡張工事。昨夜、検討し直し、柱になる単管を打ち直す。位置を変える。垂直に単管を組んでいく。屋根を支える梁を作る。単管で大枠を組み立てる。
2月14日 火
単管に垂木(たるき)クランプを取り付けていく。 軽トラでホームセンターへ。ベニヤ、コンパネ、垂木などの資材を買ってくる。
屋根の単管に垂木を取り付けていく。その上にコンパネを貼っていく。作業はすべて一人でおこなっているので効率が悪い。手渡しでものを受け取ることができないので、いちいち足場を上がったり降りたり。コンパネを屋根まであげるのが大変だった。腰に来る。用心、用心。
2月15日 水
突然、春の陽気。作業をするにはありがたいが。昨日、貼り残したひさし部分のコンパネを打ち付ける。
つづいて屋根貼り。コンパネの上に、屋根材を貼っていく。屋根材は廃品をリサイクル。説明書もないので、どう使うのかしばらくあれこれ考えるうちに、おおよそわかってきた。裏に接着剤を塗って移動を抑え、釘を打ち込んで固定する。この家に越してきたとき、これと同じもので屋根をふいた犬小屋があり、それを解体したときの手順を思い出した。あの逆をやればいい。
新潟から日本酒が届く。送り主は1月の個展に足を運んでいただいた人。ありがたい。今日はちょうど棟上げか。なんというタイミング。このあと仕事のあとの一杯を楽しみに、屋根貼りに邁進する。手元が暗くなり、雨が降り始めるころ、最後の一枚を貼り終えた。
2月16日 木
雨で窯小屋拡張作業は中断。今日はホームページの引っ越し作業を行う。昨年暮れに、インターネットのプロバイダーを変えた。メールはすでに新しいアドレスを使っているが、ホームページの移動はまだだった。
新しいプロバイダーにアップする。ホームページ原稿の修正をおこなう。
ホームページの管理はマックでおこなっている。OSは9。6年前のもの。今はOSXが当たり前になっている。昨年わが家はカラープリンタを買った。でも、最新のプリンタはマックはOSXでしか使えなかった。だからわが家のマックはカラープリンタに接続できないでいる。
それでは不便だからマックのOSをXにバージョンアップしようと思ったら、OS9で使っていたソフトはOSXでは使えないとのこと。ということは、ソフトをぜんぶ買い直すことになる。これは大変。なにしろマックに入っているソフトはアドビ社やマクロメディア社などの高価なソフトが多い(無料のゲームソフトも入っているけど)。これらの最新版を買い直すとなると、今回の窯小屋拡張工事の費用よりもはるかに高くつく。そんな余裕はない。
で、マックはバージョンアップを断念。使えなくなるまで、今のマックでホームページを更新しつづけることになるけど、まだあと5年くらいは使いたいなあ。
2月17日 金
窓と扉をとりつける
窯小屋拡張工事。きょうは窓を設置する。この窓も廃材の再利用。 使えるようにするまでに少し手間がかかった。
板で窓枠を作る。この枠に窓を固定する。こんどはこの枠にあうように垂木の位置を決め、垂木を支える単管の位置を調整する。窓をうまく固定できるかどうか、あまり自信がなかったが、思ったよりもしっかりと固定することができた。ほっとする。
作業のあと、新潟から届いた酒「菊水一番絞り生原酒」を呑む。うまい。
2月18日 土
扉を設置する。これも廃材。扉の設置は窓と少し異なる。コンクリートブロックを平らに設置した上に扉枠をセットする。
扉の下にブロックを並べる。また壁になる部分の下にブロックとレンガをセットしていく。サイズが合わないものはダイヤモンドカッターで切断する。
扉枠を固定して、最後に扉を2枚入れたらずいぶん隙間ができてしまった。取り外してやり直し。がっかりだ。ゆがんだ原因は枠で使っていた木材がねじれていたこと。枠を作り直したところで暗くなり、今日の作業は終了。
2月19日 日
今日は細々した作業。扉を取り付ける。屋根材のはみ出し部分をカットする。基礎部分にセメントを打つなど。昨日や一昨日のような達成感はない。地道な作業。
2月20日 月
窯小屋とプレハブのあいだの雨漏り対策。厚手のトタンを渡して大きな樋を作る。このトタンも廃材だ。天候が悪くなってきた。みぞれ。なんとか本降りになる前にトタンを設置した。
疲れがたまっている。腰に来ている。午後は資材購入に出かける。夜はこたつに入るといつの間にか寝入ってしまう。外はみぞれから雪になる。
2月22日 水
今日は下地貼り作業。壁になる部分にベニヤ板を貼っていく。この上にあとから外壁用のパネルを貼っていく予定だ。
つづいて小屋内の整地作業。地面の大きな石をどける。裏にある廃ブロックを埋めていく。廃ブロックは割れていたりセメントがついていたりするから、いちいちトンカチで叩いて形を整えてやらなくてはならない。そろえて並べるのに手間がかかる。
トンカチを叩いていて、ふとネパールを思い出した。ヒマラヤの村で村人たちと石を積む作業をしていたときのこと。トンカチで石を割り形を整えていく石工の熟練の技に魅せられたことがあった。
あれはいつのことだったか。・・・なんと20年も前だ。そんなに歳月がたったのかと思ったら、急にくたびれてきた。今日はもうやめよう。
2月24日 金
午前、軽トラでホームセンターへ。外壁用のパネルを買ってくる。
午後、パネルの加工。電動ノコギリで強引にカットしていく。パネル数枚を壁に打ち付けて気づいた。どうやら打ち付けていく方向が逆らしい。壁の左からはじめなくてはいけないのに、右端から打ち付けてしまった。やり直しだ。
2月25日 土
外壁パネルをはると「らしく」なってきた
一日、パネルを加工して張り付ける作業。買ってきたパネルが足りない。不足する部分は集めておいた廃材のパネルを使うことにする。なんとか間に合いそうだ。廃材の利用は、まず洗って磨いて不要のねじをはずしてという作業から始まる。
窓枠にあわせてパネルをカットするのが大変だった。トタンくずや断熱材の細かいのが飛ぶ。タオルをかぶり、マスクをしての作業だが、まるで石綿の除去作業のよう。
暗くなるまでにほぼ貼り終えた。夜になっても気温は6度(午後7時)と暖かい。こういう日は作業もはかどるから助かる。
2月27日 月
昨日は雪で作業を一日休んだ。天候回復。小屋の床作り。まわりに廃ブロックを並べたあと、ブロックの内側に廃棄処分にしたやきものをトンカチで割って敷き詰めていく。その上に土を入れ叩いてしめる。
つぎにセメントを作って床にはっていく。この作業は苦手だ。セメントは、粉のセメントと砂を混ぜて作るのだ、水を加えるとかなり重くなる。かき混ぜる作業は腰に来る。このあたりで早くも苦手意識が湧いてくる。つぎにセメントをはる作業。いちおう四隅に糸を張って水平の目安を作ってから作業に取りかかるのだけど、なぜか平らにはれたためしがない。原因は、セメントに混ぜる砂が粗すぎるからだ(これも廃材?)と砂のせいにしているのだが。
セメントをはり終えることができた。最後は手元も暗い中での作業だった。明日から数日、東北に行く予定。その間にセメントも乾くだろう。ぎりぎり、なんとか間にあった。(このあと妻の実家から電話があり、翌朝、予定を変更して東京へ向かうことになった)
こんど、もし小屋を作るときは、単管を使わないで、基礎を作りその上に木の柱を組んで建ててみたい。というのも今回、窓と扉を取り付けて痛感したことがあるからだ。
単管の長さはメートル単位、だが日本の家屋で使われる窓や扉はすべて尺単位が基本になっている。1間は6尺で約180センチ。畳だって尺単位だ。このため今回のように単管を使って小屋を建てていくと、窓や扉とのサイズ合わせで苦労する。
今回は予算が数万円だったので単管を使うしかなかったが、つぎに小屋を造るときは、住まいにもなるような本格的な木の家を建ててみたいと思っている。
完成した小屋の内部
志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」を見る(05.12.07)
先日、ひさしぶりに東京へ。
行き先は10月にオープンした三井記念美術館(東京・日本橋)。10月から12月までの3ヶ月間、開館記念の特別展が開かれていて、三井が所蔵する国宝や重要文化財に指定されている茶碗が展示されている。
私は、いわゆる「茶碗」は作っていない。私が作るのは、ご飯を盛るめしわんと湯のみで、お茶の世界で使われる茶碗ではない。だから、誤解を避けるために「ちゃわん」ということばを使わないで、「めしわん(飯わん)」と呼ぶことにしている。
それでもやきものを作っている身としては、今回の特別展、やはり気になる。
国宝の志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」、光悦の楽焼茶碗「雨雲」、長次郎の黒茶碗(銘を忘れた)、粉引茶碗の「三好」など、日本のやきものを代表する茶碗が一堂に並ぶとなれば、一度は見ておきたいもの。そこで午前中に仕事を終えて、午後、高崎線に乗って出かけた。
今回の特別展は、いってみれば茶碗のオールスター。ただ一つ、私好みの井戸茶碗がないのは残念だが、それでもこのボリュームだ。これだけの展示はもう二度とないかもしれない。
なかでもぜひ見たいと思っていたのが「卯花墻(うのはながき)」。その理由は、国宝だから、・・・ではない。
「卯花墻」は、日本のやきものの歴史を扱う本では、必ずといっていいくらい紹介されている日本を代表する茶碗。今、私の手元にある本や雑誌だけでも少なくとも数冊にこの「卯花墻」が載っている。
卯花墻について書かれた文章を読むと、だれもがこの茶わんを絶賛している。
でも、なぜこの茶わんがそんなにいいのか?
私にはそこのところがわからない。 写真で見る限り、この茶碗がそこまで特別なものにはどうしても思えないからだ。
なぜこの茶碗が絶賛されるのだろう。私が卯花墻を見たいと思った一番の理由は、これだった。写真だけではわからない。
志野茶碗「卯花墻」は、暖かみのある志野釉の発色とその下の緋色がとてもきれいだ。桃山時代の技術力を考慮すれば、当時としては、たぶん絶賛に値する焼き上がり(発色)だっただろう。この点は納得する。でも造形はどうか。私はその点で、大いに疑問を持っていた。
卯花墻は、ロクロで成形したあとにへら目を入れてわざと形をゆがめている。口にも変化があって味わいがある。いかにも「茶わん」らしい造作だ。
でも本に載っている写真は正面から撮ったものがほとんどで、それらの写真を見る限り、全体としての形はずんどうで平凡の域を出ていない。
芯に宿る力強さが表にあらわれていない。これがどうして特別なのか。
写真の印象では、卯花墻はよくまとまっているが、形に勢いがない。たとえて言えば、角のない牛、樹木ならさしずめ姥桜(うばざくら)だ。
桃山時代に作られた志野茶碗という歴史的な価値を差し引いて、現在ある1個の作品として純粋に見てみたら、卯花墻はいったいどれほどのものなのか。
そのことが知りたくて、東京に向かった。
「茶わんというより、小さなどんぶり鉢だったりして」
そんな意地悪な思いも、ひそかに持っていた。
ところが。
実際に見た卯花墻は、写真とはまるで別物だった。その違いにまず驚いた。
写真ではずんどうにしか見えなかったが、実物はちがう。これでもかというほど形は大きくゆがめられている。まるで茶碗のなかに目に見えない生き物がいて、器のあちこちを内側から強く押して今にも飛び出そうとしているかのようだ。
おおざっぱな表現が許されるのなら、底部の腰が四角で上部の口縁が三角。これでは全体として形がゆがむのは当たり前で、どう作ったって、均整のとれるはずがない。
初めて土に触れた人が、丸い茶碗を作ろうとして作れず、「こんなの作るの、もういやだ」と言って、うち捨ててしまった土塊のようにも見える。一言でいえば、異形。
ただ不思議なのはこの茶碗、どの角度から見ても形がゆがんでいて、そのゆがみのありようがどれも異なっているのだが、ただ一方向、正面から見たときだけ、そのゆがみが消える。それまで惹きつけていたダイナミックな輪郭線がすーっと消えて、いかにも手のひらになじみそうな、ずんどうで暖かみのある器形が姿をあらわす。
この変化は、意外だった。不意をつかれた。
昔の人が茶会の席で初めてこの茶わんを見たとき、まず異様ともいえる動的な造形に目を奪われただろう。
つぎに茶の入った卯花墻を手に取り、掌にのせて目線近くまで持ち上げると、それまであばれ馬だった卯花墻がとつぜん、羽衣をまとう慎ましやかな女性に姿を変える。
この変化は劇的だ。ほの暗い茶室の中では、能を観るようだったかもしれない。
この変化に気づいたとき、この茶碗の秘密をかいま見たような気がした。
美術館をあとにして外に出る。目の前には初冬のオフィス街が広がっていた。襟を立ててビルの谷間を歩き、JRの駅へと向かう。今、見てきた茶碗の印象をそっと反芻してみた。
卯花墻は、遊び心いっぱいの茶碗だった。
9月/釉薬テスト、土のテスト(05.10.13)
8月31日 水
午後から窯を焚く。作品のあいだに釉薬テストの杯を入れる(以下、テストバイと記す)。焚き方は還元焼成。ただ、還元をあまり強くしない。
9月1日 木
窯焚き。昼前に終了。あーあ、眠い。午後、畑で使う管理機の分解修理。エンジンがかからなくなったのでキャブレターを分解清掃する。
9月3日 土
窯を開ける。弱還元で焚いた今回は、窯の中の手前のほうが酸化に近い状態で焼き上がった。窯を焚く前に4本のバーナーを取り外して分解清掃したため、これまでと炎の出方が微妙に違ったようだ。今回の窯の中の状態をよく覚えておいて、バーナーそれぞれの火の出方の癖を、また頭に入れ直しておく必要がある。
作品とは別に、テストバイを机に並べる。今回はひさしぶりに灰のテストと土のテストをおこなった。
12種類の灰をテストした
上の写真がそのときのテストバイ。ひとつの杯に3種類の灰を塗っている。テストバイは4種類の土のものを用意。灰は同じでも、土が異なると発色が違ってくる。今回は灰を見たかったので、長石などを混ぜずに、水簸した灰を水で溶いただけでそのまま杯に塗った。
溶ける灰、溶けない灰、白い灰、緑の濃い灰など、テストバイにはそれぞれの個性があらわれている。
山で採ってきた土のテスト
この写真は土をテストしたもの。左の3つは3種類の土で杯を挽き、焼いてみた。上2つは山で採取した粘土。左右にそれぞれ種類の異なる釉薬をかけている。下は川に堆積した黒土。火に弱そうだったので素焼きの皿の上にのせて焼いた。窯から出したらやっぱり溶けていた。
その横の3つは下から順に山の真っ赤な赤土(焼いていない)、浅間山の軽石(焼いていない)、そして浅間山の軽石を素焼きの皿にのせて焼いたもの。白っぽかった軽石も焼いたら溶けて黒くなった。
その右は、真っ赤な赤土と軽石をそれぞれすりつぶして、絵の具のように塗ってみたり、長石と混ぜて釉薬のようにしてみたもの。
とまあ、こんなことをくり返して、地場の原料をさがし求めているのであります。
9月16日 金
神社の祭りも終わり、ロクロを再開する。今月は忙しい。祭りがあり(世話人という役をやっている)、アルバイトがあり、高崎市民会議があり、来客があり・・・。
9月24日 土
午前中、高崎経済大学の学生二人が役場の担当者と共に来訪。倉淵村のあちこちを訪ね歩く野外学習の一環とか。学生と向かいあうのは5年ぶりだ。私は以前、専門学校で講師をしていたことがある。そのときの癖でアポが入ったときについ授業案を考えてしまう。
はじめに学生から、なぜやきものをはじめたのか、なぜ倉渕に移り住んだのか、という質問がでるだろうと予想した。それなら、ホームページで略歴を出していることだし、20年前のネパールでのNGO活動の話からはじめてみてはどうか。
そこで前半はネパール、インドから、倉渕にいたるまでの話をして、後半にやきもの作りの現場を案内することにした。学生はまじめな態度で話を聞いていた。
ただ、私の話はちょっと意外だったようだ。それもそのはず。やきもの作りを見学に来たつもりが、のっけからアジアの話がはじまって、それが延々と続いた(倉渕に来るまでには長い年月があるのだ)のだから。
でも、人の話を聞くというのはそういうことなんです。取材は、予想外の話(の聞けたとき)がおもしろい。
9月27日 火
東村の「わたらせ工芸まつり」に費用を添えて申し込む。 昨年も出店した。今年はどんな反応があるのか楽しみだ。そういえば昨年、この工芸まつりに参加しているときに新潟の地震があった。今年は災害がなければいいが。
9月28日 水
未明に目覚める。どうも気になっていることがある。それはやきものの土と釉薬の相性だ。これまでの焼成結果で納得のいかない部分がいくつかある。それで起きて検討し直してみる。結論として、作品の焼成を遅らせて、釉薬テストを先にやろうとなった。
作品を焼く大きな窯のほかにもう一つ、小さな灯油窯がある。岩手で独学でやきものをはじめたときに買い求めた窯だ。これで釉薬テストのテストバイを焼くことにした。
今日は一日釉薬作り。調合を変えて白釉を数種類、色釉を数種類作る。これまでと違う原料を元に乳濁釉やマット釉などの基礎釉も作り直してみる。
9月29日 木
午前中はテストバイ作り。釉薬の施釉。鉄釉も4種、テスト用に追加する。
午後、高崎市民会議に出席するため高崎市役所へ。これで今月は3回目。倉淵村は来年1月、高崎市と合併、併合される。高崎まで車で片道1時間。帰りはいつもスーパーやホームセンターによって食料品や資材のまとめ買いをしてくるのだが、忙しくなってくると高崎へ行く時間が惜しくなる。
9月30日 金
未明、さらにテスト灰釉2種類を追加して、小窯の焼成をスタート。日中、来客あり。夜も来客あり。夜は少し呑みながら、応接間に化けたギャラリーと窯のあいだをちょこちょこ行き来する。
10月1日 土
小窯で焼いたテストバイ
午後、窯だし。小窯は冷めるのが早い。テストバイをテーブルに並べる。バイにデータを記入する。調合データと焼成結果をパソコンに入力する。
釉薬を作るときはメモ書きすることが多い。でも、机のまわりがメモだらけになるといつのまにかゴミにまぎれてどこかへ行ってしまう。
それで最近は手間でもパソコンに記録を入力するようにしているのだが、このパソコンってやつ、私は腹の底から信用することができない。壊れたらおしまいだし、電気がなくなったらただの産業廃棄物だ。10年以上使っていて、何度かデータをなくしたことがある。致命傷は、パソコンが進化するのはいいが昔のソフトや周辺機器が使えなくなること。
マックとウインドウズを使っているが、ウインドウズは95が今も現役だ。(ちなみに、このホームページはマックで作っています。)
夜遅くまでかかって全データをパソコンに入力した。やれやれ。数えたら、今回は既存のものも含めて31種類の釉薬をテストしている。よくまあ、こんなにたくさん作ったもの。でも、この中で使ってみたいと思うものがいくつあるか。
今回テストバイを焼いた小窯といつも作品を焼く窯では、同じ釉薬、同じ土、同じ温度で焼いても焼き上がりが違ってくる。だからテストはテストと割り切ることが必要だ。割り切った上で、テストをする。
テストをしたからといって、確信が持てるわけではない。でもテストをしておくことで、うまくいかなかったときの迷いのぶれ幅が小さくなる。テストはそれだけのことなのだが、その小さな経験の積み重ねが重要なんです。
7月/やってしまった。ぎっくり腰!(05.08.11)
7月5日 火
夕方まで作業をして、午後10時、会津に向けて出発。経費節約から高速には乗らず、下の国道をひた走る。外は土砂降りの雨。高崎、前橋を抜けたあと国道50号を走り栃木県の小山へ。ここから4号線を北上して福島県に入ったところで、コンビニに車を止めて仮眠する。
7月6日 水
早朝の会津鶴が城を散策したあと、会津本郷町役場へ。ここで8月7日に開催される「せと市」の出店手続きをおこなう。会津本郷焼きで知られるこの町を訪れるのははじめてなので、昼まで、陶磁器資料館や陶磁器会館を見学する。ちなみに、岩手にいたころ、手伝いに通った陶芸家は40年前、ここで修業した人だった。
帰りも下を走る。4号線や50号などの幹線道路は日中は混んでいるので、山越えの道を選ぶ。
会津からまっすぐ南に下って県境の山を越え、鬼怒川から日光に出る。さらに銅山で知られる足尾を抜ける山越えの道を走り、桐生近郊で50号に合流する。夜、前橋、高崎を走って倉渕に戻る。
ロングドライブだったけど、一仕事終わってほっとする。来月の「会津せと市出店」が確定。さあ、がんばって作るぞー。売るぞー。
7月15日 金
夕方から、ようやく素焼きをはじめる。このところずーっと雨の日が続いて、作った器がなかなか乾燥しなかった。作業予定がどんどん遅れて焦っていた。
からす窯のあるところは倉淵村でも一番奥で、雨が多い。村役場のあるあたりが曇りのときでも、ここは雨が降っていたり、ガスに覆われていることが多い。
こんなとき、「下に住んでいたら(天候の面で)楽だろうなあ」と思うけど、山には山の良さがあるから、ここでよしだ。
素焼きの合い間に、蛍を見に行く。場所は、からす川対岸の田んぼだ。対岸は山が迫っていて人家はない。小さな河岸段丘に田んぼと畑がある。水がきれいなためか、ここの田んぼに毎年、蛍が出る。懐中電灯を持参して見に行く。
夜の田んぼのあちこちで、蛍がすーっと光の軌跡を描いている。でも、今日はまだピークにほど遠い。昨年は、田んぼの上で、蛍が乱舞していた。でもその1週間前に訪れた人の話では、蛍(の光)がとぐろを巻いていたという。一度でいいから、そんな光景に出合ってみたいものだ。
翌日、未明、素焼きが終わる。
7月18日 月
未明から窯を焚きはじめる。炭化焼成。 窯焚きの合間に、次の窯に入れる器の化粧掛けや仕上げ削りをする。
深夜、バーナーの火を止めたあと、窯に薪をくべる。これがからす窯の炭化焼成(冷却還元)。でも薪を入れる温度と、薪の量(入れる回数)で土の焼き上がりが異なってくる。
薪を投入して窯を閉じる。色味穴の隙間から黒煙が吹き出してくる。煙が薄くなってきたらまた薪を入れる。そのくり返しだ。
7月21日 木
窯だし。炭化焼成は薪の炭素を土に取り込んで土を黒くするのだが、オブジェで均一な黒にならなかったものがある。これはこれで趣があるが、もう一つ作ってみたいという気がする。
このオブジェは公募展の応募作品として作ってみたもの。最終締め切りは今月の31日。あと10日間ある。気象情報によると、このあとしばらく天候は安定するらしい。間に合うか。もう一つオブジェを作り、炭化で窯を焚こうと決める。
7月26日 火
台風が接近。ときどき強い雨。空が恨めしい。器の乾燥が遅れている。高台を削った器を電気こたつに入れて湿気をとる。明日、素焼きをしなければならないため。苦肉の策だ。
7月27日 水
台風一過の好天、晴れ。午前5時から窯詰め。7時、素焼きスタート。オブジェは釉薬を施さないので、素焼きの窯に入れなかった。まだ生乾き。大きいので乾燥に時間がかかる。庭に出して天日干しする。
夕方、素焼き終了。夜、ロクロを挽く。
7月28日 木
今日も天気がいい。朝から庭で器の天日干し。残量の少なくなった釉薬を作り足す。
午後、素焼きの窯だし。窯はまだ熱い。乾燥が不十分なオブジェを窯に入れて余熱で乾燥を促進させる。窯の温度は100度。
次の窯に入れるの器の高台削り。天気が回復して、器の乾燥が早くなった。
夕方から素焼き器の施釉。夜遅くに窯詰め。窯詰めの前に窯の中で乾燥させていたオブジェを取り出し、最後にまたオブジェを窯に詰める。明るいうちに窯詰めを終えたいと思いながら窯の扉を閉めるのは、いつも夜中になってしまう。
7月29日 金
深夜、窯焚きスタート。いつもこんな具合だ。日中は、窯焚きの合間に器の高台を削る。
日が暮れて、あたりが暗くなるころ、バーナーの火を止める。薪をくべる準備をしていて、腰に激痛が走った。ぎっくり腰だ。還元焼成ならここで終了だが、炭化焼成はこれから窯に薪を入れていぶさなければならないので、ここでやめるわけにはいかない。このあと1時間、薪で窯を焚いた。この間に数回、腰に激痛が走った。
以前、岩手にいたときにぎっくり腰をやったことがある。完治するまでにはかなりの日数を要したが、それでも1日寝て、腰を腰痛ベルトで固定して、上体をまっすぐ立てていれば、ゆっくり歩ける程度には快復した。
そのときの経験があったので、今回も腰痛ベルトを締めて1日寝れば、明後日には歩けるようになるだろうと「たか」をくくった。明日、一日寝て養生し、明後日の朝窯出しをして、オブジェを軽トラに積んで走る。明々後日の8月1日は次の窯の素焼きをして、また還元で窯を焚いて・・・。
スケジュールが詰まっていて、無理をしたのがいけなかった。
窯を焚き終え、椅子に座ってしばらく休んでいたら、腰が立たなくなった。まずいと思って立ち上がろうとしたら足に力が入らない。からだが崩れてしまう。慌てて椅子に腕をついて、からだの支えとした。あとは這うようにして移動、なんとか布団にもぐり込んだ。
予想に反して、翌日の30日、31日、8月1日、2日とずーっと布団の中だった。30日、31日は寝返りも打てないありさまで、床ずれまでできてしまった。
ぎっくり腰は医者にいくよりも患部を固定して寝ていたほうがいいとよく言われるが、医者にも行けない状態が数日つづいた。幸い、腰痛ベルトと湿布薬が少しあったのと、不足する湿布薬を差し入れてくれる人がいたので、家にいても手当をすることができた。
8月3日、ようやく布団を離れ、しばらく椅子に座ることができるようになった。でもまだ、外に出られる状態ではない。
4日、会津本郷町のせと市実行委員会に電話した。事情を話し、残念だが7日の「せと市」出店キャンセルを決める。
寝ているうちに、公募展の締め切りも過ぎ、せと市の出店も断念することになった。一番忙しいときに、ぎっくり腰になるとは。がっかり。
でも、もしあの過密日程の中でオブジェを積んで軽トラで走っていたら、どこかでいねむりをして交通事故を起こさなかっただろうか。
今少し長い目でみると、今回の「災い」が転じて「福」となることもあるかも知れない。寝込んでいるあいだに、放りっぱなしにしていた本を3冊読むことができた。
腰痛で、スケジュールは強制的にリセットさせられたが、心身のリセットが必要なときだったようだ。腰痛もまたよし、としておこう。
6月/ギャラリーを作る(05.06.29)
6月15日 水
午後、軽トラで高崎駅に向かう。東京からバスでやってくる友人Nの出迎えだ。Nの手を借りて、これから数日間で居間をリフォームしてギャラリーに改造する。
帰路、榛名町にあるホームセンターで資材を購入する。コンパネ、垂木、フロアー材、釘など。8畳間の古畳を全部あげて、フローリングにしようというのだからけっこう本格的だ。
軽トラに積み込む資材を見たNが、小さな声で言った。
「おれ、釘、あまり打ったことないから」。
今さらそんなことを言われても。・・・とにかくやるしかない。
夕方、家に帰り着く。 とりあえず今晩は、再会を祝してビールだ。
6月16日 木
朝一番で、昨日ロクロ挽きをした器の高台を削る。
Nが起きてきたころを見計らって、いよいよリフォームに取りかかる。まずは畳上げだ。
この8畳間の畳はニンゲンが歩くと、数カ所で不等沈降する。この家に越してきた当初は、いつか抜けるんじゃないかと少し不安になったが、慣れてしまうとそれほどでもない。その「いつか」はもう少し先のことだろうとたかをくくって日々を過ごすようになる。
でも慣れるまでは不安だった。
昨夜ここに布団を敷いて寝たNも、畳が原因かどうかは不明だが、眠りは浅かったようだ。
さあ、作業開始だ。バールを差し込んで畳を持ち上げる。1枚ずつ床からはがしていく。
越してきた日に一度全部の畳を上げて、床との間に新聞紙を敷いた。そのときの新聞紙が姿をあらわす。新聞紙を取り除くと板張りが出てきた。数カ所が大きくたわむ。でもこのまま、この上にコンパネ(合板)を貼っても良さそうに思えたそのときだ。
・・・Nが床板を踏み抜いた。
やっぱり、この板もはがさなくてはだめだと納得。バールとトンカチで釘を抜き、板をはがしていく地道な作業がはじまった。
昼が過ぎても、遅々として進まない。私の腹づもりとしては、この板を全部はがすまでは昼飯はおあずけだ。こちらの気迫に押されて、Nも昼飯抜きで協力してくれる。
全部の板をはがし終えたのが午後3時。ほとんどの釘が錆びていてうまく抜けなかったのが響いた。板をはがしたら、また次の課題が出てきた。板を支えている小引き(垂木)を取り替える必要が出てきたのだ。この分の資材は買ってない。
軽トラでホームセンターまで資材調達に行く。わが家からホームセンターまでの距離は25キロ。ひとっ走りする。ホームセンターで木材を仕入れ、スーパーとコンビニで食料品を調達する。
家に戻ってきたら5時を過ぎていた。コンビニの弁当を広げ、遅い昼食にありつく。ついでに缶ビールをあける。
ビールでのどを潤したら、まっ、いいか、今日はここまでで、となった。ほんとうはこのあとも作業をつづけて、布団を敷くスペースくらいのコンパネを貼るところまでやりたかったのだが。まっ、いいか。Nの寝場所くらい、なんとかなる。
6月17日 金
今日は一日、作業に専心。小引きの取り替え、打ち足し。さらにその上に1段、格子状に小引き打ち付けていく。これは高崎からの帰りに買ってきた木材。
床を支える格子状の骨組みができたところでコンパネを貼る。
夕方までに、なんとか全部のコンパネを貼り終えることができた。これで一応、床ができたことになる。以前の畳のように、歩くと沈むということもない。
コンパネの上で「これなら相撲が取れるなあ」と二人で自画自賛する。
完成の前祝いで、軽トラで近くの温泉に行く。倉淵村にはいくつかの温泉がある。有名ではないけれど、どこも300円くらいで入れるので重宝する。
汗を流し、露天風呂に身を沈める。東京に住むNも温泉に満足のようす。
6月18日 土
コンパネに布団を敷いて寝たNの感想は、「よく眠れたよ」。
さあ、今日は仕上げのフロアー材(化粧板)貼りだ。かんたんそうに見えるけど、最後まで気を抜くことはできない。ここで先を急いで雑な仕事をすると、せっかくの床が、板どうしの張り合わせ部分で隙間だらけになってしまう。木槌でたたいて板と板をぴったりと合わせ、化粧釘を打っていく。
この作業は、とくに後半が大変だ。部屋の半分はそのまま板を打っていけばいいが、残りの半分は板が床にぴったりと収まるように、1枚1枚サイズを測ってカットしながら慎重に打っていかなくてはならない。
また、この作業をしていて思いがけないことを発見した。それは、この家の8畳間が正方形ではなかったこと。全体としてはほぼ正方形なのだが、微妙にゆがんでいて狂いがある。
引っ越してきた日に畳を上げて新聞紙を敷いたと書いたが、あのとき、畳を全部上げてから新聞紙を敷き詰めたので、敷き直すときに畳の位置が狂ってしまった。畳のサイズは全部同じと思っていたので、最後の2枚が入らなくなったときは焦った。
そのときは 「この畳、大きさがまちまちだ」と思ったのだが、方形に収まっていなかったのは家の方だった。地震などの影響でゆがみが出たのかも知れない。
床を貼り終えたら、木目が体育館の床のように見えてきた。
「これなら、バスケットボールでもできそうだな」
作業が終わって、缶ビールをあけると、今日もまた二人の自画自賛がはじまる。
この夜、Nは新装なった床の上で寝た。自分の貼った床の寝心地は最高だっただろう。
6月19日 日
午前中、家の裏に棚を作る作業をした。午後は、はがした床板などの廃材を燃やした。
火でほてり、灰をかぶったあとは、今日も温泉だ。倉渕村の温泉巡りは、それぞれに湯の違いがあって楽しい。
Nは明日、帰る。彼が来てくれたおかげで、一気に作業が進み、古畳の部屋をフローリングに変えることができた。ありがたい。ここまでくれば、ギャラリー完成まであと一歩だ。
1週間後に完成したギャラリー
今年も畑にイノシシが・・・(06.05.30)
イノシシに荒らされたジャガイモ畑
昨年、畑がイノシシに荒らされたことは、以前このページに書いた。倉渕の畑はトタンで囲われている。それはイノシシよけだ。
トタンで囲われた中に入って耕作するのだから、慣れるまでは変な感じだった。まるで檻に入っているようで、動物園ならぬニンゲン園。外側から動物たちに見られているような気がした。
でも、そのトタン囲いの効力も薄れてきてる。サルは飛び越えてくるし、イノシシは強行突破をはかる強者があらわれてきた。
昨年、畑が荒らされたのは、トタン囲いの破れをついてイノシシが侵入してきたからだ。芋がつきはじめたばかりのジャガイモとまだ苗のサツマイモが全部掘られた。
被害のあと、地域の人がイノシシが侵入してきた川側(イノシシは川向こうの山からやってきた)を電気柵で囲ったので、今年はだいじょうぶだ、という話だった。
ところが、今年もイノシシはやってきた。田畑は川と道路にはさまれている。道路の向こう側には家が数軒並んでいて、その裏手の山から、つまり昨年とは反対の側からやってきたのだった。
田畑は道路沿いもトタン囲いがしてある。でも、今年のイノシシはトタンもなんのその、自慢の体重でどすんと当たってへこませ、侵入してきたのである。
またジャガイモが掘られた。今年植えたジャガイモはメークイン、だんしゃく、キタアカリの3種。このうち早生のだんしゃくには新しいイモがつきはじめていた。
イノシシは図体に似合わず鼻が利くらしい。小イモのついただんしゃくが集中的に掘られた。メークインも生育のいいものから掘られた。
今年は天候のせいか害虫のニジュウヤホシの出るのが早かった。苗の芽かきをするころにはたかりはじめていたので、週に1、2回、木酢を散布して防除につとめた。その甲斐あってか、苗は勢いを取り戻し、これなら今年はいいイモが穫れそうだ、と期待に胸を膨らませたころだった。
まったく。
隣の畑は、今年はほとんど作っていない。昨年の被害に懲りて「もう、作るのがいやになっちゃった」。ここで数十年、耕作してきた人のことばだ。
まだ5年もやっていない私たちが、ここで耕作を放棄するわけにはいかないが、それにしても、まったく、イノシシの奴め。
わが家の畑の作物を食べてまるまる太ったイノシシが秋にしとめられたら、足を一本もらいにいくからな。覚えておけ。でもな、もう来なければ見逃してやるから、さっさと奥山へ帰れ!
ニンゲンは、な。おまえを食べちまうから、こわいぞー。
冬じたく(06.01.16)
大豆の茎葉と豆殻を燃やして灰を作る
11月下旬、いや遅くても12月上旬に書くつもりだった原稿を今、1月中旬に書いている。けっこう忙しくて、ばたばたしているうちに年を越し、気がつけば一月中旬になってしまった。
すべては異常気象のせいだ(ということにしている)。1月の個展用に作った大ぶりの器が、1カ月早い寒さの影響でなかなか乾かず、作業がどんどん遅れていった。窯焚きの予定が狂い、12月の下旬になってようやく火を入れる。そのあとはスケジュールが詰まっているので、4日ごとに窯を焚いた。
暮れの30日も窯を焚いて、元旦も素焼きの窯を焼いて、3日も本焼きの窯を焚いた。元旦早々窯を焚くはめになったのは65センチの織部大皿の乾燥が遅れに遅れたからだ。
個展は6日から始まる。搬入は5日の午後から。寒さのおかげでいつもより窯が早く冷めて、織部大皿の窯出しは搬入に間にあった。でも、個展に出すのはやめた。色が悪い。明るい透明感のある発色を望んでいたが、窯から出した織部は暗い。どことなくよどんでいる。
この皿で、海を表現するつもりだったが、この色で海を感じてくれる人はまずいないだろう。ということでこの作品の出品は断念、あきらめることにした。
さいわい個展は、この作品を作る前に構想がきまっていたので、この皿がなくても作品の配置には困らなかった。
さて、冬じたく。いつものことだが、11月に白菜を収穫して、数日天日干しをして新聞紙に包み、室に保存する。大根はそのまま保存するほか、漬け物用に丸ごと干したり、いちょう切りにして切り干し大根を作ったりする。
やきもの関係では、稲わらを燃やしてわら灰を作り、釉薬の原料にする。黒いわら灰を釉薬に使うと白く発色するからおもしろい。大豆の豆殻や茎葉も燃やして灰を作る。これも釉薬の原料だ。
それにしても今年は12月上旬から寒くなり、プレハブの仕事場を雪囲いならぬ寒さ囲いをするはめになった。
今年の寒さはフツーじゃない。例年だと、1月、2月は寒さで土が凍るようになるため、あまりロクロも挽かないのだが、12月は問題なく挽ける。水の冷たさと仕事場の寒ささえ我慢すれば。
でも今年は、1月から始まる寒さが1カ月早い12月に来てしまった。だからといってロクロを挽かないわけにはいかない。1月に個展があるので大物をまとめて作らなければならなかったからだ。そこで仕事場の寒さ囲いが始まった。
いつもは窓の内側に発泡スチロールを貼ったりして防寒対策にするのだが、今年の寒さはそれではしのげない。考えた末、外側から窓枠全体をベニヤ板で覆ってしまうことにした。これだとすきま風も遮断することができる。
でも難点は、部屋の中が暗くなること。それで、一つの窓はベニヤ板で囲い、あと二つの窓はホームセンターで買ってきた半透明のボードで囲うことにした。これなら、日中の外の明るさも中に伝わってくる。
出入り口を除いて、三方の窓を囲った。これでようやく部屋が寒くなくなった。これまではストーブを焚いても、ストーブの前しか暖かくなかったのが、部屋全体が少し暖まるようになった。
なーんだ。この部屋でも寒さに耐えられるんだ。 どうしてもっとはやく気づかなかったのだろう。
でも、少しやっかいなことがあった。密封したことで部屋の保温性は高まったが、すきま風がなくなった分、換気が悪くなった。ストーブをつけてしばらくすると、とたんに空気が悪くなる。
・・・と、こんな愚痴をこぼすのは、ぜいたくなのかなあ。
追記:
冬じたくじゃないけど、12月にわが家もISDNを導入した。これでインターネットの常時接続が可能になった。前回書いた原稿では、ISDNが使えないと息巻いていたけど、あらためてNTTに問い合わせたら、今度はあっさり「できますよ」。
半年前にダメだと言われた話をすると、「そうですか?」と相手の女性はちょっとけげんそうな返答。
半年前はNTTにすむキツネにつままれていたのだろうか。でも、まあいいや。すんだことだから。・・・ということでISDNへの切り替え工事をおこなった。
インターネットの常時接続が可能になったので、前のように電話の通話時間を気にしながらインターネットをする必要がなくなった。ところが皮肉なことに、今はいそがしくてインターネットに接続している暇がない。
でも定額料金の常時接続になったら、こんどは使わないと損している気分になり、使わなきゃ「もったいない」と思うようになるから不思議だ。
ここはインターネット過疎地?(05.10.13)
5月にホームページを開設
5月にホームページを立ち上げた。
ここ数年、パソコンを使うのはメールと文章入力くらいだったので、ホームページを作るのはずいぶん骨のおれる作業だった。
はじめにHTMLの基本を復習した。それからマックに入っている(が、6年間使うことなく放置していた)ホームページ制作用ソフトの操作を(これも6年前の)本を見ながら覚えていく。ひととおりの流れをつかんだところで、ようやくHP「からす窯」作りに取りかかる。
ホームページ制作にとりくんだのは4月。毎日2−3時間、頭をパソコン化して学習に励み、連休前になんとか「からす窯」を完成させた。
こんどはみんなに見てもらえるようにアップロードしなければならない。この作業に手間がかかった。契約プロバイダー(インターネット事業者)とのあいだで行き違いもあり、手続きに2週間が必要になった。さらに今回はゴールデンウィークが入るので、利用開始日がさらに遅れ、5月中旬になった。
ホームページを立ち上げると、次は更新が必要になる。ホームページにちょこちょこと最新の情報を載せていく作業だ。いまこの原稿を書いているのも「更新」のひとつ。
だからホームページを持つと、インターネットを頻繁に利用するようになる。いちいち電話回線に接続してインターネットを利用していたんでは不便だし、お金もかかる。そこで、今はやりの常時接続に切り替えようと思った。
倉淵村は2年前から常時接続のADSLが利用できるようになった。これはいいと思ったが、利用できるのには条件がある。村の電話局施設から数キロ以内にあること。わが家は12キロ離れている。対象外だった。
ADSLがだめでも、ほかに常時接続を可能にする手段としてISDNがある。ISANはADSLが普及する前に使われていた接続方法だ。ちょっと古いけど。(このあたり、パソコンや電話回線のことがわからないという人にはちんぷんかんぷんだと思う。飛ばし読みしてください。私も最近まで、あまりよくわかっていなかった)。たしか引っ越してきたとき、電話工事に来たNTTの関係者は、ISDNは使えるよ、といっていたことを思い出した。
そこでさっそくNTTにISDNを申し込んだら、「まことにすみませんが、この電話番号はISDNがご利用になれません」という回答。
「えー、そんなばかな。前に使えるっていっていたよ」。
食い下がると、オペレーターの女性は「もう一度確認して、明日、あらためてご連絡します」。
翌日、NTTからかかってきた電話の回答は同じだった。
「私もおかしいなと思って、何度も確認してみたんですが。・・・まだご利用できないということでして・・・、ええ、何度も確認をして・・・」。
受話器の向こうで女性オペレーターが恐縮しまくる。彼女にも、ISDNの利用できない地域があるということが信じられなかったらしい。
うーん、困った。ISDNも使えないとなると常時接続は無理になる。でも、こればかりはどうしようもない。
私たちの住む過疎の集落は、「通信環境」も過疎のまま放置されていた。
最近の気になる言葉に「固定電話」というのがある。ラジオで聴いたとき、はじめ何をいっているのかわからなかった。ケータイじゃないフツーの電話のことをさすらしい。わが家にはケータイはないが固定電話ならある。ただこの
固定電話、ADSLもISDNも利用できない。
岩手で住んでいたところは、電話線が針金のように細かった。斜面を切り開いた畑の中に背の低い電柱がぽつんぽつんと立っていて、その上に電話線が一本通っているだけだった。シンプルすぎて、大きな糸電話のようにも見えた。心細かった。
引っ越し当初、「雷が鳴ったら電話機の線を抜くように」と注意された。雷で電話機の壊れる地域らしい。私たちもじゅうぶん注意していたが、ファックス兼用の電話機を1台ボツにした。
でも、まっ、あれよりましか。少々天候が悪くなっても、フツーに使えるし。
ところが、9月になってあらたな難題がふりかかってきた。わが家が利用しているプロバイダーのODNが、インターネット接続料金を値上げしたのだ。ダイヤルアップで5分8円だった料金が、9月からは3分8円に。一気に2倍近い値上げだ。
これって、弱者いじめじゃないのか?
世間では「勝ち組」というケーハクなことばがはやっているけど、世の中、たしかにおかしなほうに進んでいる。
倉渕ダムのこと(05.09.03)
産廃の不法投棄(旧県道水没予定地)
先日、私の住む集落を対象にした「倉渕ダム建設事業に伴う地元説明会」というのがあった。場所はわが家から車で2分くらいのところにある倉渕ダム現場事務所。私たちがここに移り住んで3年。この間、説明会は毎年行われている。
今年(平成17年度)の説明会では、1.倉渕ダムの建設事業、2.集落の水道工事、3.その他が議案となった。
倉渕ダムの建設事業は事実上、2003年12月でストップしている。このため、今年度の工事費関係の事業は、私たちの集落内にある仮置き残土の移動と建設事務所まで引いてある水道管を私たちの集落まで延長する水道工事だけとなった。これが議案の1と2。そのほかの事業としては水質調査や環境調査が行われることになっている。
そして3のその他で、ダム建設に伴う付け替え県道ができてから利用者の減った旧県道を車両通行止めにするという決定が倉淵村から伝えられた(旧県道は村道に移管された)。
旧県道を通行止めにする理由は、村の担当者の説明によれば道路の維持管理に手がまわらないことと産廃の不法投棄が目立つようになったからだ。
3年前に付け替え県道が完成してから、ダム建設予定地を走る旧県道の利用は減った。旧県道は烏川沿いを走る。このあたりは紅葉の名所で、以前は秋になると紅葉見物の車で渋滞したと聞く。烏川も渓谷となっていて風光明媚美なところだ。支流には、溶岩滝や袈裟丸滝などの滝の美しい滝もある。
これらの地域を訪れるのに、今までのように車で入れなくなるのは不便だが、環境保全の立場からすれば、車を通行止めにして、歩いて入るようにするのはいいことかも知れない。手が回らないから?封鎖するという村役場の安易な姿勢は問題だが。
上の写真は、旧県道に不法投棄されていた家電製品を撮ったもの。水没予定地では最近、このような光景が目立つようになっている。これは何を意味するのだろう。
リサイクル法が施行されて、処理に困った業者がダム水没予定地にテレビなどを不法投棄をした。いや、それだけではない。ほかにも多様なものが捨てられている。
問題は、ここがダム建設予定の水没地域であること。不法投棄者がそのことを知って捨てていることだ。ダム建設予定地には建設位置を示す看板が、上流には貯水したときの水位を表示する看板が立っている。
不法投棄はおもにこの間でおこなわれている。
ここで「ひょっとして」という思いが浮かんでくる。ひょっとして、全国のダム貯水池には膨大な量の産業廃棄物が不法投棄されているのではないかというおぞましい思い・・・。ダムもまた、土砂で埋まってしまえば(ダムは必ず土砂で埋まる運命にある)、巨大な産廃だ。
群馬県は2年前に倉渕ダム本体の建設休止を宣言したが、これは事実上の中止だ。県は事業の中止を明らかにしてほしい。そして、今すぐにでもダムが建設されるかのような誤解を与える看板をすべて撤去して欲しい。
県は「(倉渕ダム建設は)中止ではない」という一方で、倉渕ダム建設事業からの撤退を進めている。
地元説明会は、以前は倉渕ダム事務所の職員がおこなっていたが、今年は増田川ダム等建設事務所の職員が担当した(あたりまえだが増田川は倉渕ダム建設予定の烏川ではない)。倉渕ダム事務所は、建物だけを残して、職員はとっくに引き上げていた。それなら、ダム建設事業を誇らしげに歌う看板も撤去して、せめてこれ以上、不法投棄者がふえないようにして欲しい。
旧県道から見上げる付け替え県道(上の橋脚)。4キロの道路建設費は120億円。
追記:倉渕ダムの問題点について知りたい方は、次のホームページが参考になります。公開討論会の発言録など、資料も充実していて、おすすめです。
「倉渕ダム建設計画に関する問題点(群馬の自然を守るネットワーク)」
畑のイノシシ騒動は、まだ当分収まりそうにない。前回、地元の人がかけた罠に「効果を期待したい」と書いたが、その後、またやられた。ネットを張ったサツマイモ畝がごっそり掘られた。
この時期、まだ、芋はついていないんだけどなあ。
悔しいのは、その前日、半日かけて、サツマイモ畝まわりの草取りをしたこと。炎天下、半日はいつくばって草をむしって、これでしばらく、やきもの制作に集中できると思ったら、翌日、畑はイノシシに荒らされていた。イノシシが畑に来たのは、その日の夜だったかも知れない。
これではまるで、イノシシ御一行様を招待するために草むしりをしたようなものだ。
私の住むあたりでは、どこも畑をトタンで囲っている。山の動物たちが入ってこないようにという獣害対策だ。でもサルは、トタンをらくらく飛び越えていくし、イノシシも最近はこのトタン囲いにすっかり慣れて、弱いところ、破れたところを見つけて侵入してくる。サルと違ってイノシシは、夜中にやってくるからやっかいだ。
山頂からは、雪をかぶる谷川岳など国境稜線の山々が遠くにくっきりと見えた。足下には、私の住む川浦の谷が広がっている。いい気持ちで、山頂北側の伐開地に横たわり、少し昼寝?をしたら、いつのまにか太陽は西の端に消えていた。
日が陰ると気温が下がる。下りもまた、犬と先を争うように駆け下った。
家に戻っても、その日はいい気分がつづいた。からだのすみずみまで、山の新鮮な酸素が毛細血管に運ばれて行き渡っているようで、からだは暖かく動きもリズミカルだ。
でも翌日、反動が来た。
・・・やっぱり。足が重い。筋肉が固い。一言でいえば、くたびれている。
昨日、山でからだが若返ったような気分を味わったが、 若くなったわけではなかった。