『好きだから』

 照りつける太陽がじんじんと肌を刺す。

 足元からまとわりつくような熱気と喉をからからにさせる砂埃。胸の辺りがじめっと湿って肌にまとわりつく。

 どこか別世界にいるような気にさえさせる倒錯感が、そこかしこに漂っている。

 8回裏。西浦の攻撃。スコアは――

 ネクストバッターズサークルの沖は、チラッとそれを見やっただけですぐに目をそらした。跪く膝のザラッとした砂の感触が妙に痛い。スコアを直視したら、重い重い現実に押しつぶされるような気がした。阿部は気にするなって言ったけど、だけど――

 “……いや、そうじゃないだろ!”

 グッと奥歯をかみしめ、沖は心の中で大きくかぶりを振った。

 ギリッと歯ぎしりするくらいに力を込めてスコアボードを見る。3点差。7回表の2点。そして今阿部はいない。たとえ天地がひっくり返ってもそれは変わらない。それが現実だ。

 “――っ!”

 美丞大狭山、鹿島の初球を花井が鋭いスイングではじき返す。どっと歓声が上がり、綺麗なライナー性の打球がセンター前へと落ちた。ベンチから「ナイバッチー」の声。さらに盛り上がる観戦席。

 “花井、あいつホントに打った!”

 この回が始まる前、沖は花井に「オレ続くから打ってくれよ」と声をかけた。

 “オレ、気弱いから普段そんなこと言わないけど……”
 
 だけど、もうそんなことを言ってる場合じゃなかった。内なる昂ぶりが沖を突き動かした。阿部への複雑な想い。自分に対するふがいなさ。それらを昇華させて、沖は打席へと立つ。チームが勝つためにオレはここにいるんだ。

 “よし……続くぞ、花井!”

 花井にコミットメントしたことで、沖の集中力はさらに高まっていった。左打席に入り、足場をならし、鹿島の第1球を待つ。

 鹿島は5回から2番手としてマウンドに上がっているが、西浦にはいない、いい意味でのふてぶてしい容貌は今も健在、表情からは疲れも感じさせなかった。

 “打つぞ……!”

 球場をいたぶるように照らしつける太陽のように、沖はジリジリとした想いで投球を待つ。バットを握る手に自然と力が入った。微妙に手のひらが汗ばんで、無意識のうちに肩にも力が入る。
 セットポジションから、鹿島が得意げに胸をのけぞらせて第1球を投げ込んだ。

 ドンッ!!

「ボーッ!」

 キャッチャーミットに収まったボールは、まるで砲丸玉のような、重い重い鉛のような音を立てた。バットに当たったら、バットがへし折られてしまうんじゃないか、そんな気にもさせてしまう剛球だ。

 “げ……花井、こんな球よく打ったな”

 桐青の高瀬と同じくらいのスピードかもしれないが、球の重さという点ではこれまで対戦した中でこの鹿島が1番かもしれない。ただ、いかんせんノーコンだ。

 “ちょっと揺さぶってみようか”

 沖は、右手はグリップエンドに置いたまま左手でバットの中央付近を持ち、少し前屈みになってバントの体勢を取った。バッターがバントを行った場合、または行おうとする場合、必然的にピッチャーは捕球体勢を取らなければならないので、マウンドから駆け下りようとする。それが繊細な投球動作を狂わすこともままあるので、特に動揺しやすいピッチャーやコントロールの悪いピッチャーには有効だ。

 鹿島が第2球を投げる。もちろんバントをするわけではない。沖はボールがベースに届く直前でバットを引いた。

「ボーッ!」

 審判の野太い声が何だか心地よい。沖の狙いは当たり、ボールは外角高めに外れた。

 “やった、ノーツー!”

 バッティングカウントになった。
 ランナーは一塁。ノーアウト。点差は3点。
 ここで鹿島が一番やってはいけないことは、無造作にランナーを溜めてしまうことだ。フォアボールはもってのほか。ノーコンピッチャーがカウントをノースリーにすることは、イコールフォアボールが決定するようなものだ。当然次はストライクを入れてくる。

 “次を逃すな”

 スタンドから聞こえる沖への声援が次第に遠ざかっていく。

 あの場面――三塁ランナーを刺せるかどうかギリギリの場面で、沖はグラブトスをした。グラブトスなんて、練習でもほとんどしたことがない。けれども、あのタイミングでは、普通に左手で取っていたら間に合わなかっただろう。阿部の指示もあった。沖もそう思ったし判断は悪くなかった。だけど、結果は最悪の事態を招いた。技術が足りなかったら。実力が伴っていなかったから。
 何故ボールは右に逸れたんだろう? 何故そんなところに放ってしまったんだろう? ランナーとの交錯を考えたら最悪左方向へ放るべきだったんじゃないか? いや、やっぱりグラブトスなんてやるべきじゃなかったんじゃないか? 素手で取りに行った方が良かったんじゃないか? 途絶えることのない自責的な自問を繰り返す。
 阿部の苦悶に歪んだ形相を見て、沖は改めて自らが導いてしまった事の重大性に打ちのめされた。心臓がスーッと足元へ沈んでいくような、目眩がするくらいに血の気が失せていく感覚を沖は初めて知った。スコアボードに刻まれる1点。三橋の呆然とした表情。ナインの戸惑い。スタンドのどよめき。全てが沖の脳裏に焼き付いて離れない。その時、明らかに西浦というチームを築き上げていた決して欠けることのないピースが、ばらばらと音を立てて崩れ落ちてしまったのだ。
 いたたまれない現実に、気を抜いたら泣き出してしまいそうになる。本当は今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。

 “でも……でも、オレは逃げないぞ”

 マウンドの、やや強ばった表情の鹿島をグッと睨みつける。

 “絶対に打つんだ”

 セットポジションから鹿島の左足が大きく上がった。オーバースローから大きくしなる右腕が、沖に向かって鬼神のごとく振り下ろされる。

 “だって、オレだって……”

 これまでに比べて球速がない。スーッと真ん中に吸い込まれるように向かってくるその球を――

 “オレだって……!”

 沖は渾身の力を込めてバットを振った。

 ギィン!!

 両腕に残る衝撃。わずかばかり真芯からは外れた打球が、鹿島めがけて飛んでいった。必死の形相で鹿島がグラブを差し出す。

 “ピッチャー横! 抜けろ!!”

 コンマ何秒かの瀬戸際のプレー。沖の想いを込めた打球は鹿島のグラブをわずかに弾いてセンター前へと飛んでいった。しっかりと全身を使ってバットを振り抜いた分、沖の強さが鹿島のそれを上回ったのだ。

 “やった! 出れた!”

 一塁ベースに到達し、沖はホッと一息ついた。もちろんこれで終わりではない。だけど、チームのために沖が今できることを、沖は精一杯やってのけたのだ。

 “だって、オレだって……”

 西浦のベンチを見やる。三橋と田島と阿部。3人の講義は続いている。真剣な面持ちで、だけどどことなく不安げな三橋の横顔が映った。

 “三橋には負けるかもしれないけど……オレだって野球が好きなんだ”

 ヘルメットをかぶり直し、沖は試合に集中する。
 無死一、二塁。3点差を跳ね返すべく、西浦の攻撃は続いていく――

【Postscript】
沖は地味なキャラで、あまりにも普通すぎるところが逆に気になったりするわけですが、今回のケースはかわいそうというか何というか、普段目立ってないんだからここまでいじめなくてもと思ったり思わなかったり。でも、これを機にまた一つ成長するんだろうなあとしみじみとしたりもします(^^)