評  論   

泰緬鉄道建設についての評論を紹介します。

『俘虜の碑」 1953年の泰国日本人会の会報から転載。泰緬鉄道の全体を論じたものです。

「 俘 廬 の 碑 」       会誌「クルンテープ」転載 (1958年)

 

<序> 文明は時と共に進んで行くのに、入間の知恵は少しも進まない。第二次大戦から既に25年を経た今日もまだ世界の何処かでは戦いが行われ生命が無意味に失われてゆく。ここカンチヤブリで行われた泰緬鉄道建設に付随する幾つかの哀話も、第二次臣界大戦史の一断面である。映画「戦場にかける橋」や続いて英国放送協会(BBC)がロケを始めている「クワイ川に還る」が何れもフイクシヨンであり、連合国側に立った見方をしているのは当然であろう。
 其の他、日本の一部ジャーナリズムの記事等相当、事実とはかけ離れていると思われる
ので、正確な史実を一入でも多くの人に知っていただく為、会誌「クルンテープ」に昭和43年11月から翌年2月まで四回に亘って掲載されたものをここにまとめました。 出来るかぎり、収録し得た事実のみを記したつもりである。アユタヤ日本人遺跡と比眉される泰緬鉄道建設のおりのままの姿を、郷土史の一つとして、また日本人の一人として知って戴きたいと思います。 

一、バンコックから西北へ約1 3 0キロ、車で3時間でカンチチヤナブリという町に着く。この町を流れているクワイノイ川(クワイ川)は、遠くビルマ国境に源を発し、下流でワイヤイ川と合流してメクロン川となり、タイ湾に注ぐ。 この川にかけられた全長250m、鉄骨の楠が映画日収場にかける橋」で知られたメクロン橋である。これは昭和19年12月14日、英空軍に一一度爆撃破壊され、終戦後英占領軍の命令で日本鉄道隊が再建し現在に至っている。この橋を含むタイ〜ビルマ間の鉄道建設工事に多数の連合軍捕虜が使われたことを知っている人は多いだろう。だがこの橋のそばに日本鉄道隊の建てた石碑のある事、これは捕虜、労務者のための碑で日本将兵の墓は一つも無い事、又付近の八千冨にのぼる外人墓地は英占領軍の命令で武装解除された日本軍が整地、埋葬した等の史実は案外知られていないようである。橋の左手たもとに高さ4m、大理石の慰霊碑があり、次の言葉が刻まれている。

「泰緬鉄道建設中に不幸にも病にたおれた南方各国の労務者及び俘虜の為に、此の碑を建て恭しくその霊を慰む。
      昭和19年2月     日 本 鉄 道 隊」

 石碑を囲む四隅の壁には同文がタイ、マレーシヤ、中国、英の四ケ国語で刻まれ、碑面碑壁には英空軍の攻撃による弾痕をとどめている。この碑は戦後15年近くジャングルに埋もれていたが8年前から日本入会が敷地を買取り管理している。それ以来、今日迄春の彼岸には在留邦人がここへ狭まリ泰緬鉄道建設に従事し、そのなかば病を得て倒れた英、蘭、濠軍の捕虜と墓一つ無い労務者、日本軍将兵、軍属など数万にのぼる人々の会向をすることになっている。

 町のはずれに「カンチャナブリ共同墓地」があり、日本軍の捕虜となり、工事中に倒れれた八千名近い連合軍軍人が眠っている。英国兵の墓碑にはバラが、オランダ兵にはチューリップ、オーストラリア兵にはアカシアの花が刻まれている。日水軍将兵の墓標は英占領軍の命令で総て取除かれた儒、今は残っていない。

二、泰緬鉄道建設が決定され、工事に突入したのは昭和18年1月であった。当時ビルマでは連合軍の反攻が激しく、既にインド洋の制海権を失っていた日本はビルマに於ける十万の日本車の補給を陸路に頼る他なく、やむを得ず、タイ〜ビルマを結ぶ全長415kmの600以上の橋梁をもつ鉄道工事の建設に着手したのである。ここは世界最多雨地域と云われ、雨季に入って一度豪雨が来ると30mにも及ぶ水位の変化を見せ、渓谷は奔流となって道路、仮橋を押し流し、戦前の英国が測量を開始しながら、10年かかっても困難との結論から遂に放棄していた地形であった。工事はタイ側ノンプラドックとビルマ側タンビザヤの双方から同時に開始され、タイ側は鉄道第9聯隊(聯隊長今井周大佐(東帝大工学部卒理博)ビルマ側は鉄道第5聯隊(聯隊長鎌田詮一大佐(京帝大土木卒米国留学時、工兵聯隊長であったマッカーサーの隊附将校)が担当した。

 更に国鉄作業員合計三千名、ビルマ独立義勇軍、現地労務者(ジャワ、マレー、タイからの苦力)約十万が投入され、やがてシンガポールから移送された英、蘭、濠の白人捕虜が加わった。この総数は後の連合軍東南アジア司令部の公表によれば七万三千五百二名といわれている。捕虜は収容所に国籍単位に分住し健康管理には捕虜の軍医が直接あたっていた。鉄道作業隊は毎朝収容所から捕虜を受け取り、作業終了後また収容所に帰す制度となっていた。

 南方軍の捕虜管理責任者は浜口]平中将(泰方面車参謀長兼駐タイ大使館付武官)で、中将(泰方面軍参謀長兼駐タイ大使館付武官)で、中将は武士道精神から戦時国際法の厳守を主張して、ビンタなどの暴力行為を厳禁し、この旨は、配下各収容所に対してきびしく通達されてきた。このために中将は血気にはやる参謀達からは「国際将軍」などとヤユされるしまつであった。

 作業隊側は「ビルマ戦線を救うのは俺達だ」との使命感に燃えており捕虜の保護、管理にあたる収蓉所側とは立場の相違から争いが絶えなかったようである。一方、誇り高い英軍を大部分とする連合軍捕虜は利敵作業をいさぎよしとせず、国際条約をたてに不服従サボタージュ、仮病を使うなどの場面がたびたびあったようで、これに対し、禁をおかして日本兵のビンタがとんだ事は容易に想像できる。けれども全体としてはよく統制され、南方クーリーとは比較にならぬ能率をあげて大切にされたことも事実であった。日水兵とタバコ、食物をわけ合ったりの人間的な交歓も随所に見受けられた。衣食の面では日本将兵、捕虜は全く同一の取扱いがとられ、余裕のあるうちは、肉食習供のある白人に特別生牛(一千頭)を補給するなどの配慮もとられていた。けれども工事が奥地に進むにつれて食糧、衣料、医薬品など物資の補給は困難になっていった。当時の食料は百足やサソリのはい出して来るカビの生えた乾燥野菜をほぐしこれに乾燥味噌を溶かして作った味噌汁、飯に塩をかけるなどで日本将兵はこれを戦場食として耐えていたが、これに対して肉とパンを食事に久かすことの出来ない白人捕虜側から不平が出だのは、むろん当然すぎるほど当然のことであった。

 しかし物資の補給もなく、不平不満をかかえたまま工事は奥地へとのびて行った。戦時下に於ける物資困窮と日本人、西欧人間の大きな生活程度の差が捕虜虐待と云われる原因の一つになったのは間違いないことと思われる。日本将兵、捕虜、クーリーともに最悪の栄養状態のとき、コレラ第1号がアパロンというビルマ側地区のクーリーの中から発生してしまった。患者は施策な隔離、消毒の上、生水、水浴等が禁止されたが、クーリーは衛生観念が低く、危険地域の保菌クーリーが後方へ説走するという事態が起こったため、コレラは忽ちクーリーの間に蔓延した。 不運にも雨季が一ケ月早く4月にはじまり、ビルマ伺工事地域は一面の泥海となり、雨はコレラをタイ側へも運んだのである。

 4月はじめ、ニイケ地区のクーリーの宿舎から発生したコレラは疾風のようにケオヤイ川を下り、タイ側全工事地域に広がった。8月に入り、キンサイヨーク地区鉄道中隊本部へ瀕死の捕虜が運び込まれた。英人軍医はただちに真性コレラと診断をくだし、中隊長藤井中尉とはかり、もう助かる見込みのない患者を射殺処理することで続発を止めた。患者の希望のない苦しみから救い、他の犠牲者の発生を防いだ戦場に於ける非常措置であった。ロンドン.タイムスも後にこの事件に対して同情的論評を加えているが、俘虜収容所長中村鎮雄大佐はこの処置を非として軍法会議にかけ、藤井中尉を免官処分にした。日本将兵の捕虜取扱態度に対して猛省を促そうとしたのである。無論、この間、鉄道工事は中断されることなく続けられていた。
 こうして一見、不可能に近いとさえ見えた難工事も卓抜した鉄道技術と不屈の工兵たちによって昭和18年10月17日タイ領コンコイターで双方の鉄道が連結して一応全線開通の運びとなった。工事着手から完成まで僅か10ケ月、驚異的な短期間であった。

投下労働カは、日本車及び軍属15.000名

        捕虜73.502名(東南アジア連合軍司令部発表)

        クーリー100.000名(推定)

合計20万名の作業人員が415キロの全工区に配置され一人当たりの土工量2.5立方米で大変な人海戦術である。日本人犠牲者は書類焼却等のため正確には判らないが、推定1000名、白人捕虜は連合軍の発表によればコレラによる者560名、マラリヤ、熱帯かいよう、栄養失調等による者1万560名、その他を合わせて2万4千490名となっている。このような犠牲の上に敷かれた鉄道の上を、日本兵は風雲急を告げる戦場ビルマヘ、ビルマヘと送られていったのである。

三、昭和19年7月、インパール作戦に破れたビルマの日本車十万は、なだれをうって総退却となった。時は雨季で泥海に膝をくつする惨悛たる退却行であった。進軍のために建設された泰緬鉄道は敗残の日本将兵を後送する鉄道となった。前日本人会会長、大峡一男氏は当地で応召され英空軍の銃爆撃下を連日カンチャナブリで日本将兵の収容にあたられた。このような状態のもとで終戦を迎えたのである。

 敗戦と同時に連合軍による戦犯追及が始められた。泰方面軍司令部内で「国際将軍」と皮肉られていた浜田平中将は捕虜取扱いの一切の責は我ありとしてワイアレス路の公邸に於て自決された。「碁に負けてながむる狭庭、花もなく」は散戦の荒涼たる心境をたくした中将の辞世の句であった。英占領軍は雇用を解除されるクーリーに「お前を殴った日本人の名前を言ったら10バーツやる」などとの勧奨の手段さえとった。 当時10バーツで米が三俵買えたそうで、クーリーは勿論、善悪を間わず知る限りの日本将兵の名前をならべたてた。鉄道司令官安達少将以下、軍属高官、鉄退官捕、下士官兵など40名が第一次容疑者として連行され、バンコク郊外のバンガン刑務所に収容された。ここでの食事は朝はビスケット二枚、午後は一椀のお粥で]重労働が課せられ、罪名は旧捕虜が一方的に決めるものであった。「正義とはどんなものか知らせてやる」と起訴の決まった日本将兵に暴虐なリンチを行うものもあり、自殺者が続々と出るほどで、劣等人種と確信する黄色人種に労働を強制された彼等の憎しみは根深いものがあった。 

 シンガポールの南方60キロにあるレンバン島に収容された部隊は一枚のチョコレートで一日の露命をつながされ、餓死寸前のところを帰還船に救出された。この島は第一次大戦後、英軍がドイツ俘虜を収容し、全員餓死させたことで名高いところである。
 前述のように福井中尉を軍法会議にかけて免官処分にした俘虜収容所長、中村鎮雄大佐は的はずれの「病人俘虜射殺事件」で収監された。大佐は温情あふるる応召の老将校で俘虜だちから慕われて居リ、彼等の間に助命嘆願の声が起こって英軍司令部の釈放状がチヤンギー刑務所に届けられた時、既に遅く処刑は終わったあとであった。他にもこのような例数は多い。

 こうした軍事裁判の結果、泰緬鉄道関係だけで起訴された者百一名(死刑72名、終身刑16名、他は有期刑)で捕虜の保護のために作業隊と確執の絶えなかった収容所関係から多くの戦犯を出したことも皮肉な結果であった。これは泰緬鉄道開通後は帰還者、転訓令を含めて作業隊の人事が大巾に入替えられ、連合軍は戦犯追及に手がかりを失ったためである。結局、戦争によって失われたものに対する、やりの場のない怒りが敗戦国側の人間にぶっけられ、日本人なら誰でもいいという国民的な報復となって表れたのであろう。ストレート・タイムス(マレー英字祇)やロンドン・タスムスでさえ当時のゆきすぎを認めて「充分な調査もせずに、大量の日本人戦犯を絞首台に送ったのは正しくない」と冷評している。

 時事通信、今村バンコク支局長が「死の鉄道」の著者ジョン・コーストに先頃、当地でインタビューした折りも彼は公正な態度で上記の点を批判していた。終戦直後の狂気じみた混乱の中で、裁判らしい裁判もされず、一言の釈明も受付けられず無実の罪に処刑された人々も多かった事と思われる。英占領軍は日本軍将兵の墓標をすべて取除き、220ケ所に点々と散在していた捕虜の墓の改葬を武装解除された日本軍に命じた。現在の外人墓地は、このとき日本軍が整地し、一万二千体の遺骨を埋葬したもので、墓碑は八千七百三十二墓、差数は未確認である。日本将兵の墓標は取払われたまま、今はその跡すらとどめていない。

四、俘虜の碑にまつわる歴史は以上をもって終わらせて戴くが、現在この鉄道はタイの国有鉄道として、メクロン福東北130キロのナムトク迄、一日一本、日本軍の使用していた薪をたく機関車がカンチャナブリとの間を往復している。それより先は英軍によリマレーシヤ鉄道に転用され、路盤や橋脚は大森林の中に埋没している。この大自然に向かって、二十万人の入間が死闘を尽くしてから、すでに二十五年の月日が過ぎ去っている。 今、河畔の碑の前に立てば、ケオヤイ川のせせらぎが耳にこだまし、南国の空はあくまでまぶしく青い。その下を突こつたる山々が遥かビルマ国境へと連なっている。ここで困難な鉄道建設工事が行われ、多数の捕虜、クーリーが使役され、幾万もの人々が病に倒れ

ていったこと、終戦と同時に戦犯追及という形で徹底的に報復が行われたなどの血なまぐさい出来事は、何んの面影もとどめていない。

ただ、ここで一部ジヤーナリズムの掲載した捕虜虐待記事や「日本軍の恥部であった」と迎合する少数の関係者に対して、次の事をつけ加えたいと思う。 捕虜に労働を課する立場にあったのは鉄道第9聯隊と鉄道第5聯隊であり、捕虜の管理にあたる収容所側とは軍隊特有の割拠主義もあって、いざこざがあったのは事実である。作業隊が収容所の意見通り捕虜をあまやかしていれば、南方クーリーの非能率さから、とてもあの難工事は出来なかっただろう。武力を持たない僅少の作業隊が圧倒的多数の捕虜に毅然たる態度で接していなければ、各地に反乱が起こり討伐が行われて、もっと悲惨な事態が起こっていただろう。

 鉄道建設という命令にがんじがらめに縛られた日本将兵の課する労働が厳しいものであったことは想像にかたくない。労働を課する者と課される者との立場の相違から、それが捕虜にとっては一層厳しいものに受けとられたのも事実であろう。熱帯の高温と強烈な太陽が労働をいやが上にも苦しいものにした。加えて、食物も薬品も徹底的に不足していた。当時の日本人と西欧人との問における生活程度の差から、それが虐待とうつったのも無理からぬことに思われる。そういう状況の中でコレラの発生以後は収拾のつかない混乱状態に落ち込んで行ったのだろう。

 今は蝉しぐれにつつまれる等この静かな山峡の地で、幾万の人々が死んでいったこと、それが日本の戦争目的を遂行するためであったことは、決して消すことの出来ない事実である。何故、無理を承知でこの地に鉄道を建設したか、侵略戦争か防御戦争かの批判は、かっての統帥首脳が受けなければならないものである。鉄道建設の目的をになってこの地に送られた作業隊の人々に、あらゆる困難を排してその目的を遂行する以外、出来ることがあっただろうか。それと同時に戦争が終わり、勝利者が敗者に報復する事も人間の逃れがたい、悲しい業の一つであろう。事実、洋の東西を問わず戦いのしめくくりとして報復を繰り返して来たことは歴史が証明している。 けれども、悪夢のような戦争から二十五年を経て、年月は新しい歴史に向かって流れている以上、かっての出来事をあれやこれやの想像の衣をかぶせて、ゆすぶリ起こす必要はないのではないだろうか。静かに、個々の胸のうちで土に帰した七万の霊に祈りを捧げることが我々に出来る最良の方法ではないだろうか。                       <完>