泰緬鉄道ノート   

泰緬鉄道建設について吉田 修 氏が作成した詳しいまとめがありますのでご紹介します。

第一章 泰緬鉄道の概要
第二章 建設から終戦まで
第三章 死の鉄道としての泰緬鉄道
第四章 泰緬鉄道と関係者のその後
第五章 プロジェクトとしての評価
参考 ルート選定の評価
第六章 泰緬鉄道と将来

「泰緬鉄道ノート」

吉田 修 著

泰国日本人会 会報「クルンテーブ」199311月号〜1994年3月号に掲載

                

はじめに

 

<半世紀を迎える泰緬鉄道>

 泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、太平洋戦争のさ中の1943年(昭和十八年)十月に開通し、今年で竣工五〇周年を迎える。 泰緬鉄道は、戦後長らく世界から忘れ去られていたが、ピエール・プールの小説「THE BRIDGE ON THE RIVER KWAI」(1952)と名匠デヴィッド・リーンによるその映画化「戦場にかける橋(邦題名)」(1957)によって世界にその名を知られるようになった。最近では旧日本軍が残した貴重な観光資源として脚光を浴びている。 この鉄道については既に多くの書物が内外で出版されている。しかし、それらの中には自己の被害体験や贖罪、反戦平和を強調するのに急なあまり、主観的、時には感情的な記述を行っているものも多く、総じて客観的あるいは全体的・鳥瞰図的に把握したものは乏しいのが現状のようである。

一方現地タイにおいては、最近、「死の鉄道」として国際的な観光対象となったことから、より興味をひくためか、日本人の愚行と残虐さの象徴として、紹介がよりセンセーショナルとなる傾向がみられる。 

<新たな視点も>

 戦争中の苛酷な状況下に行われた泰緬鉄道の建設は、良くも悪くも 当時の日本人が全力を傾注した一大建設プロジェクトてあり、悪条件を克服して完成させたものの、大き

な人的損害という悲劇を招いた。その歴史を振り返るとき、「戦争と悲惨」という従来のとらえかた以外に「中央と出先の葛藤」「異文化間の摩擦」などという観点が浮かび上がってくる。現実に外地で実務を遂行する我が身としてこの歴史を眺めるとき、他人事ではなく今なお考えるべき多くの問題が念まれていることに気がつく。

 すでにクルンテープ誌などでも先輩諸氏により幾つかの貴重な紹介がなされているが、ここでは「泰緬鉄道とはいかなるものであったか」、手近に入手可能な資料の中からできるだけ全体像をとらえるよう努めた。そしてなぜ、いかにして作られたか、その過程でどのような問題が生じたのか、プロジェクトとしての問題点、鉄道とその関係者のその後の運命、などについて簡単に紹介することとした。 情報・紙面の制約があり、公務の余暇のとりあえずの私的かつ疎漏なまとめであるが、泰緬鉄道を訪れる方々の何らかの参考にてちなれば幸せである。


第一章 泰緬鉄道の概要


<泰緬鉄道とは>

 この鉄道は、正式名称を「泰緬連接鉄道」といい、タイ西部ノンプラドックから北西に延び、三塔峠の泰緬国境を経てビルマ南部のタンビュサヤに至る総延長415Km(東海道線の東京―大垣にほぼ匹敵)の鉄道であった。 建設の目的は、ビルマに対する陸上補給路を確保し、泰緬両国問の交易交通路を確保する」(同鉄道建設計画)こととされ、旧日本陸軍がタイ政府の協力を得て、太平洋戦争中の1942年7月に着手し、驚異的な早さて一年四ヵ月後の1943年10月に開通した。しかしこの問、資機材の不足や苛酷な地理・気象環境、極端に短い要求工期などの条件下での突貫工事となり多くの建設従事者の人命が失われる結果となった。戦後、ビルマ側の鉄路は英側の方針で撤去されたが、タイ側は一部区間(註)が残されて運行を続けている。  

<なぜつくられたか?>

 泰緬鉄道は、インドシナ、タイ方面からビルマ方面日本車への確実な団給連結路を確保するため建設された。

 

(一) 困難な補給                

 42年一月、日本軍はタイからビルマに進攻し、英支軍を駆逐して五月にはほぼ平定を終わった。この作戦の目的は南方作戦の西側面の安全を確保するとともにヽ中華民国への補給線であるビルマ援蒋ルートを遮断して対日包囲網からの脱落を図ることにあった。このためビルマについては、米英軍の反攻を予想し、戦略的には持久体勢をとることとされ、タイは同盟国として、その重要な後方支援基地の役割を期待されていた。

 しかし当時ビルマとタイとの東西連結には、人馬の二列縦隊がやっと通れるほどの踏み分け道しかなく、車両による陸上補給ルートが欠けていた。例えばターク=メソード

を総出する「象の山道」ては、日量十トンが限界とされ、補修しても雨季にはそれさえも確保することは困難であった。一方船舶による海上輸送についても、マレー半島を迂回するため日数を要するうえ、1942年初頭においても、軍事輸送と南方資源の本土への輸送のため、輸送船舶が極度に不足しており、所要輸送量の確保は困難とみられた。さらにシンガポールからラングーンヘの海上補給路は長く、インド洋からの海空の攻撃を受ける不安があった。はたして四二年六月のミッドウェー海戦の敗北は、インド洋の制海制空権は次第に連合軍側の手に移り海上団結は困難となっていった。

 

(二) 連合軍の反攻                 

 その後42年後半に始まった連合軍の反攻は、ビルマ方面では12月のアラカン方面への反攻を皮切りに、四三年二月のウインゲート旅団の北ビルマ挺身進攻作戦へと相次ぎビルマ情勢は急激に悪化していった。この対応に焦ったビルマ方面軍は、手詰まりジリ貧の全般戦局のなかで形勢転換を図るため、東部インドのインバールヘの進攻作戦(英領インドを脅威して、おりから激化してきた英領インドでの独立運動の日に油を注ぎ反英反戦気運を高めるため)を進めることとした。このため攻防ともに不可欠となる確実な後方補給路として泰緬鉄道の早期完成が一層強く求められることとなった。

 

三、どのような構想で、いかにして建設されたか?

泰緬鉄道は軍用であり戦局に問に合うよう、なによりも工期を重視しする一方、コスト(建設・維持)は二次的なものであった点が、一般の鉄道建設と大きく異なる。 

このような中で次のような建設構想が生まれてきた。

 

(一)   建設ルートの選定‐「五つのルート案』

北から南まで次の五ルートが考えられた。これらはビルマ軍が、数百年来タイ進攻の際に使ってきたルートでもある。ルート選定の最大のポイントは、建設工期の短さであり、この観点から、距離もさることながら、工事に時間のかかるトンネルや大規模橋梁を避けることが特に重視された。この結果、大きな異論もなくBの三塔峠ルートが選定された。

「各ルートの長短」

@     チェンマイ=トングー:サルウィン何の大架橋とトンネルが必要。

A     ピサヌロークとフーヘン(ターク)=モールメン:比較的短距離だが、トンネルとメナム何二支流への架橋が必要。

     Bカンチャナブリータンビザヤ(三塔峠ルート):距離は長めだが、トンネルを必要とせず。

 C同上=タボイ: 最短距離だが、トンネルが必要となる。

  またビルマ側においてタヴォイ=イエ間の鉄道敷設が新たに必要となる。

 Dチュンポン=メルグイ: 距離が短く、地形も難しくないが、ビルマ側でメルグイか

らモールメンまでが海上輸送となる。

 

こうして選ばれた三塔峠ルートは、総延長が当初計画で430Km、計画変更等もあって完成後の調査では414.916Kmとなった。 泰緬鉄道は、バンコク西方約八〇Kmの南部線ノンプラドック駅を起点として、北西へ五〇Km、メクロン河北岸の平坦な農村地帯をカンチャナブリ駅に向かう。同駅を発し54Km付近で大きく南に迂回してクワイヤイ河にかかる大鉄橋「メクロン永久橋」を渡り57Km付近の「チョンカイの切通し」で西に転じ、クワイ・ノイ河にそって原始林の北岸をほぼ北西に282Kmのニーケ駅まで進む。この問には108Kmアルヒル駅付近の「木造桟道橋」と「懸崖切り取り」、148Kmのタンピー付近の「曲線大木橋」や151Km付近の「ヒントクの大切通し」、218Kmターカヌン駅西方の岩石地帯の「切取り」など多くの難所かある。

人跡まれな原始林の中をニーケからは河を離れて一路,分水嶺の約三〇〇Km付近の三塔峠国境をめざして登り、国境付近で約280Kmの最高地点に達した後、三仏塔をかすめて下りとなる。320Kmのキャンドウ駅を過ぎるとミイター、サミなどの多くの北流河川を「本橋群」で渡す難作業がある。369Kmのアナクインから終点タンヴィザヤま

では住民も点在する水田地帯となり、タンヴィサヤでビルマの南部線であるイエ線に接続する。

 

 (三) 作業方針

「迅速なる泰緬連接を本旨」(上記計画)として、作業の速成を図るため「永久建築」ならぬ一時漸進構築法」(端的にいえば手抜き速成)の採用もありうるとした。さらに南方全般に作業兵力・資機材が不足し、内地からの調達も困難であることから、労働力・資機材は「現地調達」が原則となっていた。このため労働力には連合軍捕虜・現地労務者を使用し、資機材についてはレールやボルト・犬釘等をはじめとしてスコップ、ツルハシにいたるまで南方域内からの転用に頼った。もとよりブルド・−サー等の建設機械はなく、ひたすら人海戦術に頼らざるをえなかった。

(四)短い工期

「迅速なる奉緬連接」(上記計画)を求められ、当初命令(42年六月)では準備期間四ヵ月を含めて一年六ヵ月 (完成四三年12月)、後に一年二ヵ月(同八月)と短縮された後、最終的に一年四ヵ月(同10月)となった。建設速度でみると平均八八三m/日という類い稀な旱さとなっている。

(五)「輸送能力」

 当初は、八コ師団分の補給を想定し、輸送容量を日量三千トンとみて線路容量を決定した。機関車は、当初C56を90輛使用する予定だったが、その後工期短縮のための計画変更により容量が減少して20輌となり、他にマレー鉄道のO型、P型蒸気機関車を計一〇輛使用した。C56は、客貨共用で長距離運転可能な、日本国内ローカル線用のテンダー式蒸気機関車。38トンの軽量で後進運転可能。南方作戦用のためゲージを千ミリに縮小し、薪燃料がつかえるよう改装を行った。

(六)建設規定

 軌道は単線で日本のローカル路線なみの丙規格であり、タイ・ビルマ・マレー・仏印共通の千ミリ狭軌ゲージを使用した。ちなみに枕木の数は十mあたり十本である。なお当初日量三千トンの計画は、44年に入って工期短縮のため千トンに下げられ、軌道も大幅に規格を緩和した。

一例)輸送力:10トン貨車×35輪×12列車→同×15輌×一〇列車

  規格:最急勾配 10/1000↓25/同、最小半径 200m↓120m このため、結果的にこの鉄道は、曲がりくねって急坂が多く、スピードが出せないのみならず、脱線が相次ぐような輸送能力の低い鉄道となる。

(七)建設工事の規模

@土工量など:四百万立米。(内除岩三〇万立米)、架橋部分14km

A所要人員:当初計画では、最盛期でニコ鉄道連隊基幹6千人に捕虜は5.5万人、他に現地労務者九千人。その後逐次追加され、各説あるが例えば日本軍一万人、捕虜は五     五万人、労務者七万人(ビルマ・マレー・ジャワ・インドシナ・タイの契約労働とビルマの有給勤労奉仕)。

 

(八)鉄道建設の手順、方法

 

 一般に鉄道建設は線路沿いの道路作りから始まる。補給路を確保して資機材・労働力を輸送し、道沿いに一定間隔で作業基地・宿舎を作り、同時平行的に各区間の施工にかかる。泰緬鉄道の場合も、平行道路づくりが大きな要素を占めたが、タイ側では主としてクワイ・ノイ・ノイ河が水路として利用できたためその負担は軽減された。また、工期の短縮を図るため、トンネルを避け切通しを多用したり、築堤については仮設木橋を設けて運行しながらこれを埋め殺すなどの措置を取った。さらに大規模橋梁はメクロン橋のみに限り、その建設工事中も平行して木橋を架け、軽列車を運行させて奥地現場への輸送を可能とした。
 

第二章 建設から終戦まで

泰緬鉄道の構想が生まれてから、敗戦により軍用鉄道としての終焉を迎えるまで4年間であった。この期間を次の5つの時期に分けてながめてみよう。

第1期 現地が構想し準備 41年12月〜42年6月

「現地の自主的発想一

 太平洋戦争突入直前の41年10月、南方軍の鉄道部隊幹部は、ビルマ作戦の将来を考えてビルマヘの補給確保のためには鉄道の建設が不可欠との見通しをもった。そして三塔峠を経由する泰緬鉄道の建設を発案。速やかに建設を決定して調査を開飴すべきと提言したが、南方軍、大本営ともに冷淡だった。同鉄道部隊(第二鉄道監部)は、(どうせ造ることになる、中央の指示を待っていては手遅れと)自主的に検討を開始した。中央の反応は依然として鈍い。42年3月、同部隊は、ビルマ進攻作戦が一段落してきたのを幸いに独断で情報と資材の確保など建設準備にとりかかった。三塔峠ルートが適当と見通しをつけ、カンチャナブリからタンビザヤまで象にゆられて現地踏査。続いてルートの航空写真をとり2万分の一の大縮尺地図をつくる。平行してシャベル等の資材からブルドーザーがわりの象までをかき集めにかかる。このあと雨季に入った6月になって、ようやく中央から建設準備命令(実質的には着工命令)が出た。しかしこの雨季前の貴重な着手時期の遅れと配属支援兵力の貧弱さは後々までたたることになった。

 

[某国の事前調査」

 なお、この鉄道については、「英国(タイ)が戦前に調査」し、「不可能」、「経費膨大」、「数年かかる」とかの結論が出ていたとの話がよく引き合いにだされる。しかし、この「調査」なるものの実態は、よくわかっていない。かりにあったとしても小縮尺地図上でのラフなアイディアや既存道路を踏破した旅行者の印象程度のものなので、きちんとした測地を行ったものではなかったろう。少なくとも当時、日本側が企画立案した際には、下敷きはもとより多少の参考となるような資料は、まともな地図(5万分の1など大縮尺)を含めてなにも得られなかったようである。

 

第2期 着手 思わぬ困難 42年7月〜43年2月上旬 

[さあ着工」              「工事進行図」

 ようやく建設準備命令がおり、6月23日タンビザヤ駅に、次いで7月5日ノンプラドック駅に各々零キロ起点ポストを打ち込んで測量を開始する。また、各地に散らばっている配備予定部隊の到着と新規編成部隊(捕虜収容所等)の編成を急ぐとともに、具体的工事計画づくりにとりかかり、できるところから手をつけて10月には本格的に工事に入っていった。なお、同盟国とはいえ他国の土地に鉄道を敷くのである。その権益に大きな関心を示しており、かつ、当方も線路敷地・労働力資機材等について世話になるタイ政府と泰緬鉄道の建設協定を結び(9月)協力を約した。

 

 [測量しつつ建設】

 まずとりかかるのは、地形を眺め、踏査して予定ルートを選ぶ選定測量である。しかしおりから雨季にかかり、密生したジャングルの中では死活問題の見通しがきかないため、象の背中に登り、樹木に登りと苦労しつつ試行錯誤を重ねた。次は工事箇所を明示した詳細な測量である。路線沿いにキャンプを点在させ、各地点から測量を行いつつ逐次道路を作って行った。ちなみに42年の雨期は、雨量が多くまた異常に長引いたため測量や建設準備を大きく阻害する結果となった。バンコクもまれにみる大洪水となった。

 「未開の原始林を伐開」

当時、建設予定地域についてはタイ・ビルマ各側とも両端50キロのみが開発されており、その奥はジャングル地帯(厳密には熱帯降雨林ではなくモンスーン林だが未開発原始林にはかわりはない)となっていた。現在とは異なり、大木や竹の大株が密生し、視界は悪く通過が困難で、伐開が大仕事てあり、象に頼るところが大きかった。

 

バンポンからカンチャナブリまでの50キロは、橋梁などを除いてタイ側が建設したが、平坦で問題となる工事箇所もなく順調に進展した。しかし同じタイ側が施工したカンチャナブリ=夕―サオ(現ナムトク)の道路はなかなか進まなかったという。

 

「捕虜・労務者の投入」

9月に4千人であった連合軍捕虜は、工事の本格化にともない労働力の主体として急増し、43年に入ると3万入を越えた。この多くはシンガポールから移送された。一方 需要が見込まれる労務者についてもビルマでは有償勤労奉仕隊「汗の軍隊」の募集が、マラヤ、タイなどでも出稼ぎ労働者の募集がそれぞれ始められた。

 

「予想以上の難工事」

現地事情がわかってくるにつれ、資機材・兵力の不足等もあり、難工事であることが明らかとなってくる。大規模工事であるにもかかわらず兵站、医療、警備など後方支援機能が貧弱であっため鉄道部隊の負担は大きかった。関係者は土砂掘削機など資機材を求めてタイ、マレー半島を奔走し、橋梁ははるばるジャワのチェブーから分解移送された。

ようやく工事が本格化しはしめたころ、不運が見舞っ た・ビルマ側現地視察の帰路にあった下田鉄道隊司令官他スタッフの搭乗機が、山中に墜落し操縦士を除く全員が死亡したのである。この事故は、工事にかなりの混乱と遅滞をもたらした。

 

第3期  最大の危機  43年2月〜7月中旬

最も困難な時期であった。豪雨による補給途絶、疫病の発生などの悪条件に加えて工期短縮命令が下り、進退窮まる中で必死の工事が続き多くの犠牲者が出た。

 

「工期の短縮」

ビルマ方面の戦局は激化する一方、海上補給は、ますます困難になってくる。2月上旬、大本営は工期を4ヵ月短縮し8月完成とせよと指令する。不可能と上申した現地鉄道司令部の幕僚長は左遷召還された。しかし中央においても妙案があるわけもない。結局のところ、路線や平行道路の規格を落とすとともに、工事兵力・労働力などを大量に投入し、現場の尻をたたいて急がせるしかなかった。 

 

「作業力の強化」

 こうして建設・兵姑・医療を強化すべく2個工兵連隊、特設鉄道隊、野戦病院、兵站地区隊などが急いで追加配備され、待ちに待った削岩機も5月末にやっと到着した。また3月からはビルマ労務者、ついで4月からマーフヤ、タイ (華僑)労務者などの投入も始まった。捕虜も大量に追送されることになったが、病人が多数含まれていいたため受入側の負担は重くなり不幸な犠牲者の数をを増す結果となる。

 

「早かった雨季入り」

 折あしく雨季がビルマ側で4月中旬、タイ側で同下旬と約1ヵ月早く到来した。ビルマ側、タイ側のいずれの道路も工事未了のまま泥の海となった。補給輸送のトラックは板バネや車軸を折り、泥に埋まった。またケオノイ河も洪水期の始めには流木や水位激変のため舟運が困難となった。このため交通が途絶し、各所の食料はじめ補給が途絶え始める。そこに追加配置された捕虜、労務者が泥道を歩かされ疲労困憊して到着。さらに負担がますはめになった。奥地の作業所では、米主体の給食も定量の2分の1から3分の1に滅少し、カロリー・蛋白・ビタミン類の不足で栄養不良が一般化した。それまで捕虜・労務者キャンプの周辺に群がっていた食品・煙草などの物売りも姿を消した。

 一方、ビルマ増援の第31師団は、鉄道完成を持てず線路沿いに泥濘と化した工軍用道路を徒歩でビルマヘと急いだ。将兵は雨の中を、捕虜さえも哀れむような強行軍を行い、この間建設作業を少なからず阻害した。

 

「疫病の蔓延」

 悪運はさらに続いた。ビルマ側からか労務者の持ち込んだコレラが蔓延し、マラリアや赤痢、熱帯性潰瘍なども日常茶飯事の状況下にあった。天然痘患者もクンビザヤで見つかり、種痘を大量に行って辛うじて防いだ。医療要員、施設、資機材のすべてが不足しており、全工事を通じてこの時期に最も多くの死者を出したが、特に組織が弱く、専用の要員・施設をもたず衛生知識も乏しい労務者に死者が多く出た模様である。

 

「工事の強行」

 工事への出面率も大幅に低下し、ひどいところでは配置人員の2割しか働けないところもでてくる。このような状況下にあっても工事の遅滞は許されなかった。日本の工事

部隊にとっては工事現場は戦場であったのである。「連隊ハ全滅スルトモ(難所を)強行突破セョ」と鉄9連隊長は訓示した。昼夜交替で長時間にわたって、わずかな日本兵が率先し、捕虜も労務者も、皆が栄養不良と疲労でフラフラになりつつも工事は続行された。そしてチュンカイの切通し、アルヒルの桟道橋、メクロン鉄橋、ビルマ側の六木橋、タンピーの曲線大木橋と次々に難工事部分が完成していった。

 

「工期の延長】

 大本営からの督励派遣者も、現地をみてあまりの状況に驚き、七月中旬の指令により、工期は2カ月延期され10月までとなった。

 

第4期       完成と転進 43年7月中旬〜10月

タイ側は七月下旬にはコレラが終息した。八月には雨も峠を越し、中旬には補給問題も収まって、捕虜等の健康も次第に回復した。全般に工事は順調に進むようになり、最後の難所ヘルファイア・パスの切通しもかたづいた。 こうして10月17日、262キロ地点コンコイタにおいてタイ・バンポンからの線路とビルマ・タンビュザヤからの線路はつながり、25日には開通式を迎えた。しかし、建設関係部隊の多くはそれを待たずにビルマ戦線やクラ地峡鉄道の工事など各地の前線に散らばって行った。また捕虜・労務者もこれを機にして、維持補修要員を除いて各地の捕虜収容キャンプに移動したり解雇されていった。このころビルマ側の既存線では連合軍機の空襲が激化し、6月にはタンビザヤ駅も爆撃にあうなど鉄道の被実は漸増していった。

 

第5期 保守の戦い 43年11月〜45年8月

 「拙速工事のたたり]

 泰緬鉄道は完成後しばらくは、1日あたり直通5往復、その他路線維持補給用を加えて7から9列車を走らせた。しかし完成を急いで規格を大幅に下げ、拙速工事を行った崇りが出てきた。脱線事故は日常茶飯事となり、多くの人命、車両が失われた。また傾斜やカーブがきつく徐行区聞か多いため走行速度も低く輸送実績は思うように上がらなかった。

 T破壊と修復一

 また連合車側は、この鉄道を優先目標としてつけ狙い、その空襲による橋架・操車場・列車への被害は大きく、その保守・修理のために多くの人員が引き続き動員された。

 特にメクロンなどの大橋梁やノンブラドックなどの操車場は、最重点目標とされて英米両空軍の度重なる攻撃を受け、近くの捕虜収容所への誤爆によって捕虜にかなりの犠牲者が出た。またメクロンの鉄橋と平行して架けられたバイパス本橋では、「爆撃・破壊と修復・偽装」のいたちごっこが続いた。一方列車は、昼間は森林や洞窟に隠れ、夜間の低速運行が主体となった。泰緬鉄道の輸送力は大幅に低下したが、不通区間はトラックで代替輸送するなど鉄道兵らの必死の工夫と努力で終戦にいたるまで運行は途絶えることはなかった。

 

第三章 死の鉄道としての泰緬鉄道の史実

 

一、 動員数と犠牲者数

 泰緬鉄道の犠牲者数はよくわからない。現地ガイドや観光パンフは、「枕木一本に死者一入」 (これでいくと死者四二万人とかなりのインフレ気味)とか「捕虜一万五千、労務者20万が死亡」などの数字を語呂が良いせいかよく引用する。しかし現在までのところ決定版とされるものはないのが実情である。

 それなりの数値で当地で入手できたものには次のようなものがある。概して日本側と連合国捕虜については大きなズレはないが、多数を占めるアジア人労務者については数値のバラツキが大きい。これは工事中の混乱や終戦による資料喪失などから、人数把握が困難である上、例えば「動員数−帰還数(把握困難)=犠牲者数」とみなす際に、動員目標と実績を混同したり、動員後も現場到着(到着後も)までに多数の逃散などがあるなど推定誤差が大きいためであろう。

日本兵軍属

 

 

死者数/動員数=死亡率の推定。

 

 

小林他

キンビグ

ヘルファイアパス

吉川

日本軍人、軍属

1/不明

 

 

1/15=0.066

1/10=0.1

連合軍捕虜

13/55=0.23

12/61=0.19

12/62=0.19

12/82=0.146

現地人

33/186=0.177

 

80/200=

33/228=0.144

労務者はビルマを除く。日本軍は鉄道隊。

<評>捕虜の死亡率は日本軍の死亡率と大差ないことがわかる。

 

二、労働実態と生活 

 

(一) 生活環境

 捕虜についてはシンガポール等の捕虜収容所で衣食住のレベルが既に低下していた上に、さらに苛酷な遠距離輸送を強いられ体力を消耗して現地入りした。そして43年の雨季には補給途絶と疫病の蔓延が重なり、健常者もほとんど粥のみて命を保つなど一時は極端な悪化をみた。

 

(二) 労働実態

 43年に入ってから九月末までの労働強化は確かに苛酷であり、連日12から18時間労働という時期もあって、栄養不良・衛生劣悪の環境下に病人・死者続出という事態を

招いた。その他の時期では、ほぼ通常の労働形態にあった模様である。

 

(三) 暴行虐待

 ビンタ、殴打などは、(注:捕虜の労働拒否、サボタージュ、工事妨害、抵抗)やコミュニケーション能力の不足もあり、頻発した模様だが、とにかく工事を完成させることが第一義であり、労働価値を損するほど恣意的に行ったかどうか。(働けなくなれば困るのは日本軍鉄道隊)。なお一部には入院患者を動員する事態もあり、戦後の戦犯裁判の訴因の一つとなった。

 

(四) 不法行為

 労働義務のない将校を労働させた、国際赤十字の小包を渡さなかった、軍事鉄道建設へ動員した等の諸点が戦時国際法違反と指摘され、これらも訴因となった。

 

 

三、大量死亡についての各側の見方

 

 通常の鉄道工事においては考えられないほど多数の死者が出た。なぜこのような結果になったか。次のようにさまざまな見方かおる。端的にまとめると、連合軍側では終戦直後には、@「意図的に俺たち捕虜を工事名目で消滅させようとした」(豪捕虜)とする感情的陰謀論や、A「日本人は(科学技術に無知で)馬鹿だから犠牲者が多くでた」のような人種偏見に満ちた意見が多かった。

一方、B「日本人は(異常な行為をあえてする)欧米人には理解不能な存在」とする見方は根強く生き残って現在にいたっている。また労働者が徴用されたビルマなどでは、やや公式的にC「日本ファシズムが労働者を連行し、苦難を与えた」としている。

 他方日本側ては、D「いろいろ事情はあったが捕虜・労務者には気の毒なことをした」との素直な見方から、さらに進んでE「天皇成果の日本軍国主義の所産、非人道的で目的のためには手段を選ばぬ本性が発現」と図式的に体制に責任を帰する見方がある。

 

 他方では、F「捕虜側にだって問題はある」との反発論も根強い。例えば「(泰緬鉄道では)俘虜は大切な建設のための労働力で、虐待すればすぐ作業に支障をきたし温存する必要がありました。俘虜の病死は非は彼らにあり、個人主義と戦友愛の欠如から病人を放置し、ために多くの病没者を出し、彼らが目ら招いた悲劇と言えましょう」(鉄五戦友会) この裏には戦犯裁判や戦後の報復虐待への反発もあろう。また少し冷静に、G「犠牲が多かったのは事実、その裏には日本側の過失とそれを招いた機構・運営上の欠陥があった。特に悪いのは軍中央」(旧幹部)との見方もある。

 

 

(編集者評:これは戦争という特殊な状態の事故であるから平常の発想との比較は無理である。白人はそれまでアジアで土木工事を行い現地人を多数犠牲にしているがはじめて自分が犠牲になったので驚き騒いでいるということであろう。オランダ人の酷使と虐待により犠牲となったスマトラ鉄道建設の大量の現地人についてはオランダは慰霊も何もしていないのが実際だ)

 

四、和解と慰霊

 戦後数十年を経て、泰緬鉄道を再訪する彼我の関係者も増えた。76年には、カンチャナブリで彼我兵士数十人の再会・交歓があった。一方、豪の旧捕虜グループは悲劇を忘れまいと豪政府や在タイ豪商工会議所の支援のもとに、苦難の象徴であるヘルファイア・パスを整備し88年に記念碑を建てた。なお日本軍も鉄道完成後の44年、カンチャナブリに殉職捕虜・労務者の慰霊塔を建てたが戦後は荒廃していた。日本入会はこれを整備し、六三年から慰霊祭を毎年欠かさず実施している。

 

 

 

 

第四章  泰緬鉄道と関係者のその後

 

1943年に開通した泰緬鉄道は、戦後その大半が撤去されたが、約3分の1がタイ国鉄の手にわたった。一方、建設に参加した日本軍、連合軍捕虜、アジア人労務者など日欧亜の関係者や鉄道で活躍した機関車も、鉄道の完成あるいは終戦によりいろいろな運命をたどることとなった。

 

一、鉄道のその後

「一般営業路線に転換」

 終戦により、タイ側の泰緬鉄道は一般人利用不可の軍用鉄道から、切符を買ってお乗り下さいという営業路線に一八〇度転換した。連合軍が運行と売上を管理し、日本軍が保守し運転するという方式が、46年10月にタイ国鉄に移譲されるまで続いた。しかしこの間、タイ人乗客の無賃乗車が多い一方日本軍は取り締まりに熱心でなかったため収益はさしてあがらなかったようてある。 ビルマ側の運転状況は不明だが、当時英領であったビルマ国内の鉄道は戦災による被害が著しく、その復旧のため、46年7月には早くも三仏峠からビルマ側の軌道の撒収が始まり、鉄道としての姿を消していった。

 

「売却交渉と売上分配」

 46年4月、英国はタイ政府に対し、泰緬鉄道軌道(この場合カンチャナブリ=ビルマ区問をいう。ノンブラドック=カンチャナブリ区間は、タイが自己負担で建設したとの自負がある)がビルマ、マラヤ、蘭印から移送されたレールや橋梁などの資材によって建設されたとしてその補償を求めてきた。英国は日本兵を使って鉄道を撤去する予定であったが、(手間を省く意味からか)タイ側に売却したかったのである。

 これに対しタイ政府、特に運輸逓信省は、当時鉄道資材が極度に不足していたこともあり、軌道の購入に積極的であった。交渉が始まった。撤去と運搬費用込みで三百万ボンドというのが英国の言い出し値である。「とても買えない」、「百五十万ポンドでどうか」、「まだまだ」。当時の英国は、戦勝国とはいうものの大戦争の直後経済は疲弊しつくしていた。タイ側は、一日も早く売却し撤兵したい英国の足元をみてか、例によって委員会をつくり購入を慎重に検討するという態度をとった。半年が交渉に費やされ、ようやく10月になって125万ポンドで手が打たれた。ちなみに、この売却金は鉄道建設に関係した連合軍捕虜に分配され、英軍捕虜には七五ポンド、豪軍は百ポンドが各生存者に支給された模様である。米、蘭捕虜については明らかではないが、売却総額などから見るとこの分配にはあづからなかった可能性が強い。

 

「タイ国鉄線として再生」

 タイはビルマ国境からナムトクまでの路線約170キロを放棄し、鉄道資材は他の路線や民需に流用された。ナムトクからノンブラドックまでの区間131キロは、その後もローカル生活路線として営業を続けて現在に至っている。この問、軌道の老朽化にともなってそれなりの改善補修が行われており、メクロンの永久橋(後述丿以外にも例えばアルヒルの桟道群では木製の橋脚がコンクリート基礎に取り替えられた。

 

 なお、上記の放棄区問については、80年代に入ってトンパープン・ダムがクワイノイ回の上流に建設されたことから「ターカヌン」からニーケ(現サンカプリ)までの約64キロの路線跡は、カオレーム貯水池の水底に沈むこととなった。また、これと前後して国道323号線(三仏峠とカンチャナブリを結ぶ)が建設され、その際に旧路盤のかなりの部分がその道路路盤として再利用された。

 

「なぜ英国は鉄道を撤去したか」

英国は戦後泰緬鉄道の起動撤去を急いだ。かって連絡鉄道の一環としようと建設推進論もあったタイ=ビルマを結ぶ鉄道である。撤去の理由は必ずしも明らかではないが、推察するに次のようなところではなかったろうか。

鉄道連絡の必要性が減退した。この鉄道は、英国にとってはシンガポール、マラヤからビルマ、インドにいたる大英帝国の陸上の動脈として本来の戦略的意義をもつ。しかし、インドの独立機運の高まりなど戦後の国際情勢の変化によってその意義が急速に薄れていった。

 

A経済性に乏しい

 ビルマ、タイ両国とも主要輸出産品は、農林産物であり、似通った産業貿易構造をもっていた、このため相互の貿易量は知れたものであった、一方路線として維持するには、戦災等からの補修改良工事をふくめ多大の費用を要し、収支が償わなかった。

 

@     シンガボールの機能回復を優先

英国が、重視していた戦後の世界貿易通商ネットワークの再建にあたって、アジアにおいては拠占…となるシンガポールを戦災から復興させることが優先された。また泰緬鉄道は、アジア地域内の貿易中継の観点からみると、シンガポール経由の海上ルートと競合する要素をもっていた。

 

Cビルマ復旧と防衛の必要性

 タイはさておき、ビルマの早急な復興のためには、その鉄道復旧が至上命題であり、泰緬鉄道から連やかに資材を移転し修復することが必要であった。また記憶に新しいタイ側からの進攻に対するビルマ防衛の観点からは、泰緬両国間の陸上交通は途絶している状況がむしろ望ましいともいえた。

 

 

二、捕虜のその後

 

「各地に分散」

 鉄道開通後、労働力需要が小さくなるにつれ捕虜は、大きく次の4つのグループに分けられた。

@     シンガポールヘの送還:工事最盛期に増援組として「借り出された」グループは、本来の収容先であるチャンギー等の収容所へ送還された。

 

A泰緬鉄道沿線に再配置:鉄道の維持補修のための労働力としてカンチャナブリからナコンパトムにかけての収容所群に収容され鉄道により作業現場に随時派遣された。ちなみにナコンパトムには大規模な収容所兼病院が建設され、多くの重症患者を収容した。ここでは国際赤十字経由で補給される医療品や捕虜の軍医達の活躍により医療事情はかなり改善された。

 

Bタイ各地ヽの作業現場へ配置:各地の道路工事や陣地構築などに分散配置された。

 

C日本内地への派遣: 後述

 

 このうち@のシンガポール帰還組は、引き続き食料不等に悩んだが直接戦災を披ることはなかった。しかし、他のグループは次のような災難に見舞われた。泰緬鉄道沿線などタイ国内に残留していた捕虜は、軌道保守や橋梁の復旧など各種作業中の空襲や収容所への誤爆で相当の被害を受けた。45年に入り、日本の敗色が濃くなると日本車が拠点陣地を構築中のナコンナョクヘ向けて捕虜将校の移送が始まった。そして捕虜の聞には、連合軍の進攻が近づけば「捕虜は全員射殺される」などの噂が広まり恐怖におびえた。ナコンバトム収容所などでは捕虜が密かに自衛組織をつくり、石・ナイフで火炎瓶などで武装し、収容所守備隊に先制攻撃をかける計画もあった。

 

「日本派遣組の悲劇」

 44年3月、労働力が払底していた日本内地から健康な捕虜を選抜して送れとの指令が来た。これにより送り出しが開始されたが、既に当時の日本への航路は、空海からの攻撃にさらされる極めて危険なものとなっていた。こうして悲劇が発生した。

 同年八月、2218人の英豪米の捕虜が、選ばれて泰緬鉄道地域からシンガポールに送られた。九月には同地を出航し日本に向かう。しかし南シナ海において船団は米潜水艦群の攻撃を受け捕虜は2/3が海没する。この時一部の捕虜が米潜に救助され泰緬鉄道の惨状が連合軍側に伝えられた。結局650人が日本に到着し、酒田・福岡・川崎に送られ工場労働等に従事した。待遇はかなり向上したが、戦争末期の日本である。食料・燃料不足による栄養不良と寒さ、さらに米軍による無差別市街焼夷爆撃もあって終戦までに40名が死亡する結果となった。

 

「終戦と連合軍の救出」

 連合軍は、捕虜等の生活環境は劣悪とみていた。このため反攻作戦にあたっては各戦域において捕虜・抑留者を迅速に救出することを重視していた。しかし43年八月に日本軍が予想外に早くかつ整一的な降伏を遂げたために、連合軍は直ちに広範な地域から約10万人の人員を一斉に救出することをせまられることとなった。このためタイなどでは、とりあえず空中からビラをまいて日本の降伏を伝え、現在地にとどまれと指示した。続いて医薬品・食料などの緊急補給物資を空中から投下し、医療チームを急派して地上救出部隊の到着を侍った。

 

「証拠の保存と回収」

 日本軍の降伏により彼我の立場は逆転した。捕虜側は、戦争中から虐待であるとの意識をもち、後日のため事実関係を記した記録をのこしていた。自由の身になると泰緬鉄道沿線に散在する埋葬場所を発掘調査し、空き缶などに入れ遺体とともに埋めておいた糾弾資料の回収に努めた。

 

「帰順の明暗」

 45年九月から連合軍捕虜の帰国が始まった。年末までには、英米軍の捕虜はほとんどが国に帰り、それなりに暖かく迎えられた。しかし蘭の捕虜にとっては戦後も不運が読いた。蘭本国は植民地インドネシアでの復権に忙しく、捕虜の帰国は大幅に遅れて翌年回しとなった。また帰りついた祖国は戦災で荒廃し、彼らの体験した苦労談に関心を示す人はまれだった。さらに不運な者は健康回復とともに軍に召集され、独立運動鎮圧のため再びジャワに送られたのだった。

 

「三つの連合軍墓地」

 戦争中、連全軍捕虜や飛行士などの死者は、現地にそのまま埋葬された。コレラなどの伝染病死亡者については衛生上から火葬したものもある。戦後、四五年九月から泰緬鉄道関連の遺体の発掘が行われ、確認された遺体は、米国を除いて英国豪州両国の次の三つの墓地に埋葬された。これらの墓地は、英国などと泰緬両政府との取り決めにもとづいて整備され墓地委員会が維持整備を行ってきている

 @カンチャナブリ墓地 六九八二往

 Aチュンカイ墓地   T七三四往

 Bタンビュサヤ墓地  三七七一往

 

三、アジア人労務者のその後

 

 「開週後と帰国」

 鉄道が開通すると補給が一応確保され食糧事情は安定した。仕事も路線の維持補修が主となってかなり軽くなった。ビルマ入労務者の例では、燃料用の薪や工事用の本竹の伐採、砕石、石盛りなどの単純作業に従事し、ノルマ未達成の場合には集団責任で罰があたえられることもあった模様である。病人はモールメンに送還され現地解雇とされた。

 

連合国の空襲により被害が出る一方、現場からの逃走もかなりあった模様である。完成後しばらくして、維持補修にあたる一部を残して労務者はモールメンに戻って解雇され出身地に帰ったとされる。しかし病人など健康を害していた人達の中には行き倒れて死亡したり、故郷にたどりつけず途中の地に住みついた者も多かったとみられる。

 

「戦時補償」

 戦後、関係各国への泰緬鉄道を含む戦時補償は、賠償あるいは経済援助の形で行われた。すなわち五一年九月のサンフランシスコ講和会議における平和約調印に際して、連合国(当時傘下にあった植民地諸国を含む)に対する賠償条項が設けられた。これにより、ビルマ(会議には不参加)を手始めにインドネシアなどアジア諸国との聞に賠償がとりきめられ、賠償問題は決着をみた。さらにその後も新たに独立したマレーシアなどの国々や上記会議不参加の国からの請求に対しては経済援助をもって応えた。なお、英国は蘭などとともに日本から機械類を賠償の一部として撤去・搬出したが、米国とともに平和条約の調印にともない賠債権を放棄した。

 

四、日本軍のその後

東南アジア(英車占領地域)の日本軍人74万人は、輸送船舶の不足等もあり米支軍占領地域に比して帰国復員が遅れた。またこの地域では10万人以上が「労働力」として

46年末まで残留させられ苦労することとなった。特に鉄道兵、工兵などの技術部隊は、現地では得難い有能かつ低コストの労働力として戦災復興などに便利に使われたようである。この間、タイに残留していた第五鉄道連隊(鉄五)などでは、英車から私金・私物等の没収や日本の連合軍捕虜への支給定量を大きく下回る食料支給による栄養不良等の被害をこうむり、後者により病死者も出たとされる。

 

「遺骨の秘匿と回収」

46年10月、鉄五はバンコクを離れ帰国の途についた。しかし日本への復員にあたって英軍は戦役者の遺骨の携帯移送を禁じた。理由はよく分からない。ちなみに米軍は、遺体を自国に持ち帰るという方針を取っているせいか特に禁止しなかったとされる。このため鉄五はその遺骨を沿線のプランカシーの山中に仮埋葬せざるをえなかった。そして29年後の1975年、ようやく戦友会が、現地邦人の協力のもとに手をつくしてこれを回収帰国するというできごともあった。

 

五、戦犯裁判とその結果

「戦犯裁判と方針」

 泰緬鉄道を含む戦犯裁判は、英軍にとっても困難な代物だった。戦時下という特殊な状況下での事象を対象とするだけに戦闘行為と犯罪との区別やその立証など問題だらけである。当時の東南アジア連合軍最高司令官のマウントバッテンは、戦犯裁判について「裁判は敗者に対する報復的裁判とみられるようなものであってはならない……連合国

自身の威信を損ねるから………」との原則を示した。これにより、監視兵などによる暴行虐待は、個人的行為か上位者の指示・方針によるものかが追及され、有責者を決めた。

一方立証の囚難さからか7年以上の量刑にあたるものに限って起訴するとの方針をとる反面、第三者の宣誓供述書と被告の同定さえあれば、「一応の証拠」として起訴した。こうした措置は実務的(注:始めから日本軍人を処刑する方針)にはやむを得ない面があったと思われるが、実際の場面ではいろいろな問題を生じた。

 

「裁判上の問題]

日本的な組織である日本陸軍においては上部からの指示はあいまいであることも多く、解釈しだいで上位者に遡及することもあったが、下級者とくに現場管理者にしわよせされるケースが多くみられた。終戦の際に関係書類が東京からの指令により焼却されていたことも影響した。また名前や顔が似通った者が行為者本人とされるなど同定か必ずしも厳密でなかったり、証人が立会わぬ裁判となり特定日時のアリバイ等の反証が困難であったケースも多かったといわれる。

 

「泰緬鉄道関係裁判の結果」

 46〜47年にシンガポール軍事法廷で行われた泰緬鉄道関係裁判の結果、捕虜虐待により起訴120人、有罪111人、内死刑32人の判決が下された。部隊別では捕虜

収容所が過半を占め、階級別では直接捕虜に接した朝鮮人軍属と現場での指揮官であった尉官が群を抜いて多い。またこれら戦犯容疑者については、シンガポールに収監中、食事等におけるかなりの虐待(餓死)をくわえられた模様である。

また南方におけるBC級裁判では、判決書朗読や判決理由説示の形式さえとらないで断罪(処刑)されたケースもあったとされるが泰緬鉄道関係については不明である。

 

六、メクロン鉄橋のその後

 メクロン鉄橋は45年二月、米軍機B24の爆撃により中央部が破壊され不通となった。しかし本橋は、破壊と補修とが拮抗し、何とか仮運行を続けていた。戦後も本橋が唯一の鉄道橋となっていたが、48年頃にタイ国鉄は、鉄橋を重構桁により応急修復し、本橋のお役目は終わった。

その後52年、日本製の橋梁により、破壊された中央の二橋脚、三橋梁(曲弦トラス)スバンの部分を一橋脚、二橋梁(並行弦トラス)スパンに改築して現在の姿となった。改築の際にスパンを延ばしたのは舟運の障害とならないよう配慮したものといわれる。また鉄橋のナムトク側の河川敷部分は応急的な本橋であったが、これも鉄橋(ブレートガーダー)に改築されている。

 

「機関車C五六の帰還」

 泰緬鉄道の主力機関車はC56であった。戦後C56は、線路とともにタイに売却され、タイ国鉄において700型として七〇年代まで活躍した。もともと石炭焚きのため火室・火床が小さく、タイでの主燃料である薪が焚さ辛いことを除けば、手頃で使いやすくメンテナンスが容易な機関車として好評であった。

 

 「再会と帰還」

 78年、鉄道マニア塚本氏の現地調査によってC56が25輌、各地で廃車あるいは休車として解体を待っていることが判明する。特に、南タイのトンソン機関区には泰緬鉄道の開通式において日の九を飾って進んだ第31号車が残っていた。これが日本で報道されると、「あの開通式のC56が生きていた」と元鉄道兵を中心に帰還推進運動が一気に盛り上がった。そして多大な献金と協力をえて、第三一号車は七九年六月横浜に揚陸され、七月三一日九段の靖国神社、遊就館前で奉納除幕式が行われた。またこれと

ともに第四四号車がチュンボンから帰還した。こちらは動態保存用に半年にわたる修復整備を受け、ハつ年一月から静岡の大井川鉄道で路線運用されているという。 四一年末、開戦前後に日本全国から九〇寅のC五六が召集され南方へと送られた。その多くは事故や空襲で破壊され、戦後も酷使された後スダラップと化しており、伝単帰国できたのはこの二寅のみである。

第五章       泰緬プロジェクトの評価

 

「鉄道の評価」

次のようなことがいえるのではなかろうか。

(一)   役には立ったが不十分

 ビルマヘの軍事補給路としては規格低下がたたり、本来の輸送能力を発揮できなかった。しかし結果的には悲惨なビルマ戦線から多数の敗残・傷病兵をタイヘと運ぶ「命綱」としての役割を果たした。

(二)「無理と非合理を突貫精神で埋め合わせた記念碑」 中央の無理な指令により、補給支援も乏しい中で苛酷な物理的条件に苦しみながら精神力を支えにコストを無視して労働集約的に達成した一大土木事業の記念碑である。

 

(三)「巨大な墓標」日本の行った非人道的行為の典型例として末長く日本人には反省の材料を、関係国には攻撃の材料を与えるI−墓標」となった。意識的に行ったのではないだけに恐ろしい。

 

(四)「国際文化摩擦の悲劇的事例」 日本で最も非国際的・土着的な組織「陸軍」が、先進国の捕虜や後進国の労務者に頼る大規模海外建設プロジェクトを推進するという逆説が生んだ文化摩擦の悲劇的事例。

 

(五)「将来への交通遺産」

 道路か鉄路か、タイ=ビルマの両国、ひいてはアジア大陸を横につなぐ基幹交通路となりうる国際的潜在資産となっている。

 

 泰緬鉄道は、関係者の異常な努力により完成させたものの「死の鉄道」とあだなされるように、多数の犠牲者を出し後世に汚点を残した。なぜそうなったか。多数の要因の複合によるものであるが、とりあえず主要と思われるものを以下にあげてみた。ちなみに今日の日本の海外進出の状況をみてもこれらと全く無縁とは言えず反省させられる。

(評:戦時と平時は比較にならない)

 

一)「建設主体=日本陸軍」の体質的欠陥

 以下のような体質的な欠陥をかかえており、(二)以下の諸問題の基底をなしていた。

 

「補給支援の軽視」 第一次世界大戦という総カ戦消耗戦を経験しなかったこともあり、補給支援の重要性が理解できなかった。こうして日露戦争、日華事変の戦訓さえ十分研究しないまま、前近代的な「現地調達一本槍」で戦争を開始した。

 

「技術の軽視」 精神力偏重・技術軽視で近代的技術の導入を怠った。例えば泰緬紬建設でも空気繋岩橋がないばかりに、ひたすら何十倍の人手をつかって棒ノミとハンマーで能率悪く発破穴を掘削せざるを得なかった。

 

「組織的情報収集の欠如」 戦地の大縮尺地図など基礎的な情報の収集さえ行っていなかった。まして気象、衛生などの情報は全く欠如していていた謨様。例えば日常的に官民が世界の地誌情報を収集整理していた欧米とは比較にならなかった。

 

「コスト意識の欠如」目的達成に伴うコスト(人的損失や機会損失)についての感覚に乏しく、大損害を出しても勝てばよいとの意識であった。たとえ勝っても損失が多ければ批判される米・独軍とは対照的だった。(評:間違い。欧米も同じ)

「国際常識の欠落」他国と戦争するのに戦時ルールである国際法に無知であった。捕虜の取り扱い方等についての理解も乏しく無用かつ深刻な摩擦を招いた。

 

(二)中央の意志決定の遅れ、実情把握と柔軟な対応の欠如。中央は補給軽視体質から補給路への関心薄く、作戦立案時には実質的に無視していた。そして問題が目前に迫って

くると現地出先に難工事を至急やれと厳命する。工事自体への補給支援も乏しく、現地は帳尻を精神力と突貫工事で補わされる。また中央と出先のコミュニケーションは一方

通行で、現状に即応した資源配分など柔軟な対応が取れなかった。

 

(三) プロジェクト管理上の問題

 @「捕虜等の労務管理」

 人海戦術を取る際に最も重要な労務管理は、十分実効をあげたとはいえない。体制的にも例えば最盛期に十数回を数えた捕虜・労務者に対して司令部労務部の必要性を認めてこれを設置したのは工事末期であった。労働力としてその知的肉体的な特性能力をみきわめて潜在能力を有効に利用するにはいたらなかった。(効果もあり捕虜側も評価した)請負的方式等の導入も一部に止まり、彼らの言う「奴隷的」労働に近い形態のもとていたずらに

 叱発し長時間労働を強いたのであった。(ソ連のようなノルマ不達成餓死刑はなかった)

 

 A「無用の消耗」 労働力の維持保全での配慮が欠けていた。炎天下の鮨詰め長距離輸送や夜間・豪雨の強行軍、そして現場についても雨を凌ぐ屋根もないなど、受入体制の不備により工事以前の段階で多大かつ無用の消耗を強いた。そして引き続く栄養不良と医療衛生の欠如は労働力の消耗を早めた。

 

 B「無謀な大量投入」 人海戦術しか手がないとして捕虜.労務者が続々と投入された。捕虜には半病人も多かった。しかしもともと乏しい補給支援部隊の能力に対して一方的な大量投入を続けた結果は、雨季の到来と補給遮断により 破局を迎えることになった。

 

C「国際文化摩擦」十カ国語を越える民族請集団に対してまともな通訳もえられず、コミュニケーションは困難を極めた。捕虜やアジア入労務者の文化、食事生活習慣などへの理解も欠けており、随所で文化摩擦が生じ労働能率を落とした。

 

D「捕虜の取扱い研究不足」 ジュネーブ条約(未批准)をどこまで準用するか、中央の取扱い基本方針と現地への指示は曖昧であり、随所で捕虜とトラブルを生じた。

気象など自然条件への対応が不十分であった。タイの降水量の年変動は日本の比ではないが、交通途絶に備えての食料備蓄を行う余裕もなかった。また熱帯では防疫対策は死活の問題であるが、日本側は熱帯での鉄道建設の経験が乏しく関心の度合いが低かったことから疫病対策は後手後手に回った。(評:日本軍捕虜は太平洋戦線で無差別に殺されている)

 

「人事配置」

 大工事のさ中(しかも工期は一年余のみの短期)、司令官の事故死の後に人事異動を実施して、現状を熟知した現地幹部がほとんどいない事態になるというミスもあった。

 

 「ロジスティックスの不備]

 購買補給、衛生医原、運送等の補給支援体制は、小都市なみの10万人以上が働く大工事に対してあまりにもお粗末であった。医局の常備薬品がなくなってもほとんど補給はなく、作業部隊も自らが貴重な人員をさいて食料・資材調達にあたる等の事態が生じた。

 

           ‐

[参考】 鉄道ルート選定の可否  

 泰緬鉄道のルート選定については、戦後連合国側から強い批判があるので付言したい。 現行の三塔峠ルートにおいては、「カンチャナブリ↓ワンヤイ/ナムトック」の区間について、クェーノイ川に沿った「チュンカイ=アルヒル経由」ルートの選定は間違っていたとの批判がある。難工事だらけ(メクロン鉄橋、チュンカイ切通し、アルヒルの絶壁大木橋)のルートをなぜ選んだのかというわけである。

従来から指摘されてきた代替ルートは次の第一案である。また今日、泰緬鉄道の跡をたずねる人々は、カンチャナブリからナムトクまでの現行線路が難所の連続であるのに対して、ナムトクからの帰りの323号国道があまりにも平坦であり建設容易にみえることに驚くであろう。これがルート第二案である。

 

第一案

 カンチャナブリからメクロン川北岸に沿い北東に進み、ター・マナーオで渡河し、西進してワンヤイに至るコースである。鉄橋も小規模ですみ、大きな切通しや桟道は不要。特に「日本人がバカで地図を読み間違ったから俺たちは苦労した」とする連合軍捕虜の間に根強く信じられている。同じくメクロン川北岸沿いに進み、第一案の渡河点の手前のラート・ヤーで渡河してワンヤイに向かうコースであり、ほぼ現行の323号線と一致する。

「検討」 この判断にあたっては次のような諸点を考慮する必要があろう。

@計画当時、予定ルートの大縮尺の地図は得られず、航空写真地図も地形の詳細を把握できる精度をもたなかった模様である。またいくつかの候補ルートを踏査して十分比較検討する時間的余裕もなかった。季節もおりから雨季に入り樹木が密生し地表の状況が掴みにくい状況であった。 

A完成を急ぐためには各工区を同時平行的に施工せねばならない。それには整備された補給道路が不可欠であった。しかし第一案の場合は踏み分け道を整備しようとする段階であり、第二案においては道もない全くの森林原野であった。ここに雨季にも耐え得る道路を建設するには、大変な時日を要する。これに反し現行ルートの場合には、クエーノーイ川がかなり上流まで輸送路として使えるため、道路完成を待たずに工事開始が可能であった。

 

B第二案にいう323号線沿線の地域は、戦後数十年にわたって樹木の伐採除去、機械力による開墾・耕地づくりを行って現在の景観に至ったものである。今日のような立派な国道になったのも約十年前のことにすぎない。1942年当時の地形は現在のものとは全く異なり木竹が生い茂って見通しがきかず、建設には大きな障害となる森林原野であった。

 

上記のような諸点からみて、必ずしも現行鉄道ルートの選定は、今日の目で見て最善ではないまでも、過失であったとは言い切れないだろう。

第六章 泰緬鉄道と将来

 

泰緬鉄道は戦後その大部分が撤去され、泰緬聞の連接は絶たれた。その後現在まで各方面から、これを交通路として復活させようと各種のアイディアが提起されている。しかし肝心の隣国ビルマが鎖国政策をとっており、政治の混乱や人権抑圧による国際的経済制裁に悩んでいることなどから、構想はいずれも具体化には至っていない。

 

「鉄道再建構想」

  鉄道としての泰緬鉄道の再建については、現在まで何度か話が持ち上がったらしい。最近で九二年にビルマ国鉄からタイ国鉄へ泰緬鉄道復活についての打診があった。理由はヤミ貿易が圧倒的な国境貿易を正規化したい、すなわち反政府的な少数民族の収入源を断つ一方でビルマ政府の経済統制を強め、関税収入を増やしたいという政治色濃厚なものである。タイ側は消極的な姿勢をとった。

 現在のところ次のような問題かおり鉄道復活の見通しは立っていないっ

@技術的問題:八十年代のカオ・レーム貯水池建設により旧泰緬鉄道の軌道敷地は水底に沈んだ。現在の想定路線地域は、現行道路323号線にみられるように、曲折・起伏に冨んだ地形であり、コスト的には建設に不利なものとなっている。

A経済的問題:相手国ビルマの経済情勢が不透明であり輸送需要の見通しが立たない。

B資金的問題:ビルマ政府の人権抑圧に対して国際的な批判が高まっている状況下では先進国からの資金導入は困難である。 なおかりに状況が好転しても、競合するブロジェクトが浮上してきていることを忘れてはならない。例えばターク経由の鉄道計画やアジアハイウエイA2さらに中国の「雲南=ピルマ‐タイ鉄道」構想などである。

1971年、タイ国鉄とECAFEは、アジア幹線鉄道網構想の一環として、ターク=メーソッド経由によるビルマとの鉄道連接を構想し、タイ領内の路線調査を日本に要請した。日本はこれに応えて同年当時の国鉄による調査団を送り、北部線ピサヌロークからクークヘ西進する案とスバンブリからクークに北進する案の二字について、路線案の計画調査を行い、そのフィージビリティを確認した

 アジアを横断するアジア・ハイウエイ構想のうちビルマとタイを結ぶ部分には、A1(チェンライ→メーサイ→チェントゥン→マンダレー)とA2(バンコク→ダーク→メーソッド→モールメン→ラングーン)のニルートがある。

ちなみに泰緬鉄道など二度と見たくないという元捕虜がいる一方では、あの苦労はムダにしたくない、鉄道を復活できないのかという捕虜も多いようだ。鉄道の建設中にも「(戦争はいずれは連合軍剥が勝つ、鉄道は俺たちのものさ)俺たちはこの鉄道で英国に帰るんだ」と逆境にあっても自尊心を失わない捕虜がいたという話もある。

 いっそ道路をつくってはという考えもある。既に述べたように、国境間近のサンカブリまでは二車線の全天候道路が完成している。ビルマ側の道路整備さえできれば、タンピュサヤでビルマ国道八号線に連絡し、モールノンからラングーンに至る道路に連接する。最も現実的な連絡交通路構想の一つであろう。しかし上記一の事情もあり、当分は鉄道同様に手がつけられそうにない。 

パイプライン建設構想

 本年三月のタイ英字紙は、旧泰緬鉄道ルートを通るパイブラインを江沢するというタイ・ビルマ両国の共同構想を報道した。これによれば、アンダマン海のビルマ水域で産出される天然ガスをテナセリム山脈を越えてバイブレフインによりタイに運ぶ計画かあり、ビルマ石油ガス公社、これと即発契約を結んでいる仏トータル社さらにタイ石油公社がその推進にあたるとされている。このパイプラインは、タヴォイ=イエ間のガス陸揚げ地点から東進して、南北に走るタヴォ川流域にそって伸び、再び東進してバン・イ・トン周辺でビルマにタイ国境の山脈を越える。その後も東に進み、カオ・レーム貯水池のほとりカンチャブリ火力発電所につながるとされる。これに対しては画境付近の森林などの環境破壊とともに予定地域に居住するモン族、カレン族など少数民族への対策が問題となるとみられている。