官  僚 = 日本官僚制史 =

一部 官僚とは何か - 官僚制の概念 -

二部 官僚制の史的展開 -その三つの発生過程-

    一、第一の過程 -絶対制的官僚制-

    二、第二の過程 -公務員的官僚制-

    三、第三の過程 -新官僚制-

三部 近代日本官僚制の萌芽とその史的展開

 一章 総 説 - 官僚の語源 -

 二章 幕末の官僚台頭時代

  一節 総 説

  二節 幕末の情勢から維新への過程

  三節 藩閥官僚発生の基盤

三章 専制官僚時代

  一節 藩閥官僚の成立

  二節 官僚の特権確立と各分野への天下り

 四章 政党官僚時代

  一節 立憲的官僚制と武官官僚の特出

  二節 文武官僚の再編成

  三節 軍閥官僚の傾斜

  四節 陸海軍閥の抗争とその没落及び文官の政党化

  五節 官僚制的政党内閣から官僚のファッショ化への推移

 五章 新官僚時代

  一節 フアシズム第一期と新文武官僚の進出

  二節 フアシズム第二期から太平洋戦争への突入

四部 近代日本官僚制の特殊性

 一章 総 説

 二章 日本官僚制の特色

 三章 郷愁に浸る戦後の官僚陣

註、 主 要 参 考 書



一部 官僚制とは何か -官僚制の概念
 ヘーゲルは、法の哲学に於いて、官僚とは、私有財産の配慮と、最高理念国家への奉仕を使命とするものである、と規定している。

更にロベルトモールは万事に無用の干渉を事として煩雑な政治を行うのは官僚政治の常であるとされるが、要するに、官僚制とは、統治

構造の一種である。そして、その概念は今日のところ極めて多種であるが大別すれば次の二つに分ける事が出来る。

 その第一は、社会に於いて一定の特権層を構成している官吏の集団が主たる政治権力の担当者としての地位を形成している統治構造で

ある。ここに於ける官僚は人民による政治を否定し、もっぱら一方的に人民を指導する立場を主張し、自己と国家との同一性を要求する

。従って、この意味での官僚制は市民的自由や民主的指導を保障する統治構造は成立し得ない。

自由主義及び民主主義を主張するラスキやファイナーが絶えず非難している官僚制の内容は、この意味に於いてである。

そして、プロシアの官僚制や明治以後の日本の官僚制は、その典型的なものであると云えるであろう。

 第二は、統治構造に於ける階統制(ヒエラルキー)という性格に注目し、階統制の存在を官僚制として理解する立場である。この立場

によれば官僚制は大衆国家の出現や権力関係の社会化現象にともなって必然的に生起してくる社会の合理的な組織であるという事になる

。従って、官僚制という現象はひとり国家のみに限られず、広く大規模な形態を有する全ての社会集団に表れていると云える。マックス

ウエーバーの規定する近代官僚制の概念は、この様な立場からなされたものであるが、彼はその原因として、a、貨幣経済の発達、b、行

政機能の量的増加、c、行政機能の質的拡大、d、行政に於ける専門的要素の優位、e、物的経営手段の集中、f、経済的、社会的差別の平

均化、等を挙げている。ニュウディール以後のアメリカに於いて、このような官僚制観を取る行政学者が斬次増加しているが、いずれも

二十世紀の大衆デモクラシーのもとに於いては政策の専門化と規格化は不可避であり、十八、十九世紀的な自由放任と予定調和を基礎と

する素朴な代議制に対して、放任のもたらす社会的混乱と対立から真の自由達成と生活保障を行う為に、新しい政治指導を担当する官僚

制が必要であると説いている。従って、ここでは第一の立場と違って官僚制が必ずしも民主制と対立した概念として理解される事は無い

のである。けれども、第二の立場を取って、官僚制が現代政治の必然的所産である事を承知しながら、尚且つこれを "administocracy"

( 管理執行、支配行政、統治 )として、そこに内在する特権性を批判したり、両者を "responsible bureaucracy" ( 責任官僚制 )

として調整しようとする学説も少なくないのである。けれども、この意味に於ける官僚制が、第一の立場によって指摘されているような

欠陥を除去し、民主制にとっても合理的な統治構造になりうるか否かについては、今のところ定説は無いのである。

二部 官僚制の史的展開 -その三つの発生過程-
 現代の官僚制は、近代国家の発生と共に出現したものである。

発生以来現代に至る迄の歴史を区別すると、次の如く三つの過程に分ける事が出来る。順を追って解説してみよう。

 一、第一の過程 -絶対制的官僚制-

官僚制は、まず近代国家の成立に不可欠であった絶対王制( 絶対主義 )の強力な主柱としてその性格を形成した。絶対王制は、封建社

会に於ける教会、地主、騎士、貴族、都市等の多元的な支配者に対して、その一元的な権力の確立を行う場合に現れた国家形態であった

が、その様な国家統一に不可欠ともいうべきローマ法制、兵站、徴税、治安維持等の知識の保有者を、従来の封建的家臣と並んで新しく

君主の側近に官僚として登用し、彼等の援助と支持を背景に、その強力的支配を完遂したのである。従って、当時の官僚は、この様な政

治的任務の達成を使命とした為、官僚制機構に二つの顕著な特色を生み出した。

 その一つは、官権と人民との関係に表れた特権的性格である。

 その二つは、官僚制機構の内部に於ける上級、下級の関係に存在する厳格な位階制を生み出した事である。

 二、第二の過程 -公務員的官僚制-

 絶対制は必然的に封建社会を近代化する役割を果たした。やがて市民社会が成長し始めるに及んで、特権的な官僚制も崩壊せざるを得

なかった。そこでは、絶対王政に対して議会制が勝利を治め、国家権力を掌握した市民階級は、王権から財政権及び人事権を獲得する事

となった。かくて国王の権威を背景として特権の座にあった官僚は市民の単なるサーバントに転化せしめられたのである。

 ここでは、官僚制が全く法律や政策の純粋な技術的執行者の集団であるという事だけの意味しか持ち得なかった。

 この様にして、強力な身分保障と集権的性格を具有していた官僚は、新興階級の標榜する「人民意志」によってその地位を左右される

公務員になったのである。名誉革命以後のイギリス及びジャクソン大統領以来のアメリカの制度はその典型的なものであったといえよう

 三、第三の過程 -新官僚制-

 市民社会の成長とその政治的勝利の所産であった公務員制は、やがて時代の進展に共なって、新たな変貌を遂げる様になった。十九世

紀末から二十世紀へかけて表れ始めたその条件は、次の如く二つ存在すると思われる。

 まず、第一の条件は、公務員の地位を支配する政治的主体の変化である。第二の過程に於ける公務員の支配者は人民であり、その公的

代表は政党であったが、やがて、政党自身が選挙権の拡大に共なって膨張し、それを統制する必要から党内に寡頭制化が始まったのであ

る。ところがこの現象は、世紀末に於ける独占企業の形成と結合し、政党の少数幹部と特殊利益の代弁者との間に緊密な交渉が始まり、

遂に金銭的利益の提供と交換に官職が取引されるという忌むべき事態を生み出した。そして、この汚辱に満ちた現象に当面して、従来の

公務員制度に対する強い反省が起こった。即ち、金権並びに政党の支配から開放し、専門的資格を具備した公務員の身分を保障する事が

考慮され始められたのである。

 第二の条件は、第一の条件と時代的に平行し、その傾向と密接な関連を持つものであるが、市民社会自体の内部に階級的な対立と闘争

が激化し、この社会的分裂を国家秩序に高めるには、既存の議会の使命であった妥協的能力だけでは充分でなくなった事である。

こうした社会的転換に照応して、大規模な社会政策を国家企業を行う独自の国家権力が必要になり、その機能の連続性と固定性を保障す

る膨大な官僚制が醸成されて来たのである。「立法国家」から「行政国家」への転換といわれる現象が、即ちこれである。

 従って、この過程に於ける公務員制度には次の如く二つの特色が見られる。

 その第一の特色は、公務員が「全体の奉仕者」や「国民利益」の名のもとに、その地位を出来るだけ保障された事である。

即ち、公務員の政治的中立をうたい、多元的利益の調整者としての役割を強調している事である。けれども概して既存の権力担当者の利

益に奉仕しがちである事は周知の事実である。

 第二の特色は、合理的な官僚制を標榜している建前から、科学的人事行政もしくは能率的公務員制の外衣をまとっている事である。

 かくて、第三過程の官僚制は、以上の様な存在理由と制度的特徴を有しているが、その台頭に当たって、民主的代議制の伝統との間に

矛盾が生じ、両者の調整に関する努力が政治舞台に於ける実践的課題となっている。それは主として、この官僚制に対する民主的統制の

の方法を如何に実現するかと言う命題を巡ってなされているものである。

 この意味に於いて、現代の新官僚制は、民主主義との間に激しい矛盾を生じながらも、あるいは、戦い、あるいは、戸惑っているので

ある。

三部 近代日本官僚制の萌芽とその史的展開
一章 総  説
 以上二部に分けて官僚制というものの概念及び官僚制の史的展開、即ちその三つの発生過程について概要を述べてみた。

しかしながら、第一部及び第二部は、いわば序論であって述者の意図する所から言ってもその最も中核なすものは、次の第三部に述べる

近代日本官僚制の萌芽とその史的展開なのである。

 そこでこれから、明治維新の官僚台頭の時代から太平洋戦争迄の日本の官僚史について四章に時代区分して、その史的展開を描写して

ゆきたいと思う。

 近代日本の歴史は、いわば官僚史である。近代日本の歴史を語ればそれは日本の官僚史になっている。すなわち、近代日本の官僚史は

日本政治史の縮図である。

二章 幕末の官僚台頭時代
一節 総 説 - 官僚の語源 -
 「官僚」の語源は、本来「ビュロウ」なる一種の「布帛」を意味し、その「布帛」の掛けられた「官卓」から公務を執る「官房」の義

を有するに至り、やがては一長官の統率の下に行政組織の連鎖を形作る「役人全体」を指すに至ったのである。

 そして、その政治形式が、「官卓」の上からの命令を主とし、会議制とは対照的に考えられるに至ったのである。だからこの特質は、

武力国家に於いて、典型的に顕現されるものと言えよう。この意味に於いて官僚政治は、神裁政治の古代から存在したと言える。しかし

ながらここに述べるのは、資本主義の線に沿って発生し発達した近代官僚制についてである。従ってこの構成の第一に述べられるのは、

自然、幕末から明治維新となってくる。

 さてそれでは、幕末の時代描写と藩閥官僚発生の必然性からはじめよう。

二節 幕末の情勢から維新への過程
 幕末に及んで、商工業が発達し貨幣経済時代になり、市民の生活も向上してくると、徳川的新法停止、祖法尊重の生産方式では市民の

生活ははささえ切れなくなって来た。

 幕藩上層部は農工商への重課でやり繰りできるし、家臣団からの禄高借上で息もつける。農工商人は重課にあえぎながらも生産すべき

ものを持っている。下層農民もしかりである。けれども下級武士は、身分にしばられ禄の借上をされれば後は全く方法が無かった。そこ

で下級武士は恥をしのんで百姓をやり、工人をやり、内職をやり、くずれた者は博打をやって稼いだ。ここでは自然に武士の魂が忘却さ

れ、庶民的な生産精神に近付き、生産民への理解を深めてゆき、しかし現状には不満であったと言える。

 かくて「主を恨む讐敵の如く」考える程に、下級家臣団は借上を通じて生活に悩まされ、給付する主君の無慈悲を感じ、ここから脱出

しようとし、ここから脱出する為に藩政を批判し、藩改革に乗り出したのである。更にそこには、下級武士が上級武士と成り得ない封建

的身分制の金縛りの制度に不満を持っていたのである。要するに、変革のイデオロギーは、自然発生的であったと言えよう。

 かくて、これらの経済問題は政治問題と結び付き、幕政の更新を要求する声は全国的に広まり、この相関関係を通じて藩内改革が行な

われた。又、批判の的となった封建的中枢権力を打倒する為に、日本に多くの先例を見る天皇を擁して天下に号令をする方式を取った。

藩国の藩第一主義の変革方式はこの先例によるべしとしたのである。

 かくて、親藩水戸が朝廷と結んで幕政を批判したのが幕末動乱の第一歩であり、将軍継嗣を自からの子一橋慶喜に継がせる事によって

幕政を改革しようとしたのが維新運動の出発点だとしたら、反幕的外様藩の雄たる薩摩や長州が朝廷と結託して天下取りする事はその帰

結点であり、歴史的慣例とも言うべきであろう。源氏は平氏を、徳川は豊臣を、かくして打倒したのである。ただ、維新においては、徳

川が天下を取った段階と異なり経済的な基底がすでに貨幣経済化し、国際的勢力が強すぎて、統一点を朝廷とせざるを得なくさせられた

と言うにすぎない。朝廷は最初は水戸的なものの上に乗っかり、やがて薩摩的なものにのっかり、転じて長州的なものにのっかり、やが

て提携した薩長的なものに押し上げられて、天皇制藩閥官僚制政治を樹立したのである。そして藩閥は危機に際しそれを乗り切る為に、

天皇を強化する事によって自からの陣営を強化し、遂に天皇を絶対的、超越的なもの迄に押し上げてしまったのである。この押し上げる

段階で彼らは幕府の、藩の臣隷から徐々に天皇の臣隷に転身し、この天皇護持を権力によって庶民に強請し、臣民とする事に成功したの

である。そして明治元年三月十四日に発令された五箇条の御誓文は、形式的には幾分の民主的彩を有しながらもその実体は、天皇を頂点

とした天に誓うのみで、全く人民以下を無視したものであった。これこそまさに官僚政治による政治形態と言えよう。層々たる上下の序

列を固執しつつ、上に向かって誓うこの態度こそ官僚政治が上にのみ責めを取り、下を無視し、従って上に媚びて下に威を張る官僚人の

思想を象徴しているものと言わざるを得ないのである。

 以上維新の情勢を述べてみたが、ではこの特殊な日本の藩閥官僚が何故発生し、統治して行ったのであろうか。そこで次に官僚発生の

基盤を探ってみよう。

三節 藩閥官僚発生の基盤
 封建社会から近代社会へと移行するに当たって自然近代官僚は発生した。その意味に於いて日本でも幕末から維新へかけての社会の変

化に際しては、各藩のみならず幕府自体にも新しい意味での官僚が育成されたのは当然の理であった。施設設備の整った幕府に於いては

資材、人材共に優れておったが、ただ一つ動かし得ぬものがあった。それは幕府本来の封建的政治であり、これを支える機構であり、こ

れにかなう租法尊重であった。従って古い人々は動かぬ徳川封建制度の中で虚脱し、腐れかかっていた。従ってこれらの官僚によって運

営される施設がいかに新しかろうとも、それはも早や無能に等しかったのである。

 次の世代を荷負うべき近代官僚が、以上の如く幕府には完全に無能であった。それでは薩長土肥の四藩を中心とした藩閥が、何故時代

の勝利者となったのであろうか。こらは近代日本の変革の過程と密接な関係があるが、それも加味しつつ、まず藩閥官僚発生の基盤を探

ってみよう。

 まず第一に、日本全体からこれを地域的に見た時、この四藩は何れも京都以西にあるところに共通性がある。関所を堅くして藩相互の

交通を妨げ、外様藩の間に譜代藩を挟ませ監視し御三家親藩を要所に置くという堅固さを行いながら、尚かつ参勤交代まで強制した事は

一見堅固な様に見えるが、各藩の人々が一同に江戸で顔を合わせるというマイナスを招いた。更に、参勤交代の交通は、この線に沿って

好ましからぬ貨幣経済の発達を助長したのであった。ともあれ、関西は距離的にも進歩差の点でも駕御しにくい地域であった。

 第二に、この四藩は海による交易に恵まれていた。即ち、海外との貿易により工業及び軍事工業が発達し、又海路を通じての便利さも

あり、幕末の動乱期に於いては、軍資金、諸物産及び海路に恵まれていた事は何よりも増して一つの利点であったのである。

   第三は、何れも大藩であったという事である。薩摩七十七万石、長州三十六万九千石、肥前三十五万七千石、土佐二十四万二千石、で

あった。大藩である有利な点は孤立して自立経済が出来る事と、攻めて軍勢に不足の無い事とであろう。

 加ふるに、いま一つ官僚の出発点は軍事的なものである。鎖国制度は自然軍事的な設備と精神を後退させたが、南から押し寄せるイギ

リス、北から押し寄せるロシア、更には中国に於ける阿片戦争は朝野をしんがいさせ、いきおい軍事力は急速に発展させられていったの

である。そこには当然軍事官僚が発生せざるを得ない。

 そのほか外交官僚、技術官僚もこの形で輩出し、その中心に新しき政治官僚が形成されて行ったのである。従ってそう言う意味では官

僚輩出の機運は、ひとりこの四藩に限らず全国的なものであったと言えよう。

三章 専制官僚時代
一節 藩閥官僚の成立
 幕末も大詰に近い頃、全国的な動揺を背景とし、薩長両藩を主柱とした倒幕の密勅降下、即ち天皇政権樹立への実践第一歩が行われた

のは、1867年、慶応三年八月であった。まず土佐の妥協政策、即ち大政奉還の形で実現され、一応天皇制が確立された。けれども、

名を捨てて実権を取ろうとした徳川慶喜は依然として大藩の首座を動かず、全く機構は其の儘で旧態が続いた。あせった薩長派は十二月

九日クーデターにより天皇政治を樹立した。大陰謀である。当面の政策は徳川の納地と辞官を実現する事であった。

 かくて、この一握りの天皇新政府は、総裁、議定、参与の三職制による新しい統治制度を樹立した。朝廷と諸侯は五対五の比率であっ

た。当時の長州藩は表面的には賊の名が取れておらず、影の助力者として活躍するに止まった。そして、慶応三年末の段階では政府は形

式的には朝廷に、実質的には雄藩諸侯によって代表され、藩主が単に人数として記され、藩の形の儘で運動に参加していたのである。 

そしてこういった転形期には実力だけがものを言い、実権は次第に藩士派に移って行った事は自然の理と言う他ない。

 さて、変革を成功せしめる為の第二の操作として新政府は、全国の人心を収らんとしたのであった。

 そして一握りの天皇政府は、富豪に対しては政府の会計を委託する事によって、あるいは高利の金を借りる事によって統一を企て、農

民に対しては貢租半減の立て札を立てる事によって夢を持たせたが、地方的藩政権に対しては抵抗する者を討伐すると共に、各藩から有

為の士を抜擢して中央政府の官僚とする事によって統一しようとした。1868年、明治元年正月十七日の官制、徴士、貢士制がまさに

それであった。

 更に、人心を統一する為に、公議輿論の名の下につとめて各藩から官僚を採用した。

 そして、新政府は変革の安定と共に次第に薩長土肥に整理されて行ったのである。

 さて、この段階に於いて、次に二つの新しい対立が生じて来た。

 一つは、政府の主柱たる薩長二藩間の勢力争いであり、その二つは、この指導藩内部に於ける新旧の対立、特に各藩の武力を如何に処

理すべきかの問題であった。それは又藩籍を天皇に奉還するという大きな問題とからむものであり、更にそれは全国各藩が今後如何にあ

るべきかの問題ともからんで天下は騒然とした。この処理方法として取られたものは、薩摩藩の進歩的反動派の主柱、西郷隆盛を中央政

府に招きよせ、これを巧みに利用する事であった。かくて新政府は西郷を武力ぎるみ東上させ、これを政府の主席参議として一応成功を

治めた。この西郷の偉力の下で思い切って全国の藩制度を切り捨て、これを府県とする事によって一応天皇制を確立した。かくて一般庶

民には職業の自由を与え生活方式を解放したけれども、土地経済の日本としては先に半減する布告を出した貢租の軽減は知らざるものの

如く見過し、わずかに地租改正による耕作の所有権認定と統一的租税制に切り替えたのがせいぜいであった。しかも富国の為の諸雑税、

強兵の為の兵役、これらに堪えうる人間像作成の為の就学の義務がのしかかって来た為、農民暴動は一斉強化され所在に蜂起した。

そして、士族団の為に西郷は征韓論を説き、これと同調して下野した板垣、後藤らは、この農民的な勢力の上に乗っかろうとして民選議

員の設立を建議したのであった。

 かくして、藩閥官僚組織は発展し、この転形を通じて又官僚の新陳代謝が行われた。

二節 官僚の特権確立と各分野への天下り
 四民平等は、旧体制の破壊である事は勿論であるが、それによって志士官僚以上の旧上層身分を転落させる為の術策でもあったのであ

る。同時に又、彼ら以下の身分、階級の人々を味方のする為でもあり、まさに一石三鳥の策であった。だが彼らは真に四民平等の使徒た

りうる為には、あまりに旧身分的、武士的でありすぎた。そこで彼らは、自己の特権確立の為に、まず第一に、層々たる身分制を平均化

して、皇族、華族、士族、平民の四段階に分けた。天皇は身分外の超的存在であり、志士官僚はこの中の士族に属したのである。

 ところで、この実質的支配層たるこの志士官僚は、この外に官僚属という身分を法的に形成した。まず天皇、次は皇族、そして官吏、

最後は華士族平民をひとしなみにしつつ、官吏を皇室とこの三者との中間に特立させた事は、まさに官僚特権の法律化と言えるであろう

 さて次に、武官官僚の特出とその対立について若干述べてみよう。

 官僚の重要なる一翼たる武官は1869年、明治二年の官制によって、軍務一切の事項が陸海軍卿の下に統一され、それが太政大臣の

の輔弼によって、天皇による軍事大権の発動をみると規定されていたから、軍務といえども一般政務と等しく、太政大臣の輔弼によるも

のであった。ところが明治十一年八月の竹橋暴動を見るに及んで、軍に大いに省みる所があった。その折、長州出身の桂太郎中佐がドイ

ツ的教育を身につけて帰朝し、急速にドイツ的な転換が加えられた。即ち、参謀本部の設置による軍令と軍政の分離により、軍令を天皇

に直結したのである。そしてこの結果、武官と文官の区別が生じ、武官の特殊的地位を築く因を作ったのである。明治十年迄は日本は混

沌として、世界のあらゆる先進的なものを学んだのであるが、今や封建的なものをひとまず排除し得た段階に於いて、世界のいずれを選

ぶかが具体的な課題となり、桂太郎の如き新知識によって、軍がまずドイツ的に転換されるに至ったと言えよう。

 同時に、この比重の大きい武官官僚の内部には、内部対立の存在した事も見逃し得ない。それは明治十五年以前に培われたフランス型

の軍部と、十年以後のドイツ型のそれとの間に行われた抗争であった。それは又明治維新の変革に血煙を浴びて、功によって軍の中枢部

となった人々と維新後軍人となった人々との抗争とも言えるものであった。そして次第に山県、桂の線が幹部派として確立していった。

結局、明治二十二年幹部派の勝利となって対立は一応終わった。

 では次に、これらの文武官僚の基盤としての経済力についてはどうであったろうか。

 藩閥官僚の出発点に於ける経済的基盤は、維新運動のヘゲモニーを握った所謂雄藩が藩経済を利用し、手弁当の形で運動したところか

ら始まり、従ってそれは、藩内豪商、豪農の「献金」という形態をとった。即ち、政治的特権を利用する事によって、経済を左右するも

のであった。やがて全国的統一をする段階で、経済的動員をしる際には全国的に力を持つ三井家を中心に、半ば命令の形で資金を集め、

その中心たる三井らに政府の出納をまかす事によって、彼等に酬いる形式を取ったのである。即ち、政治権力によって奪い、やがて与え

たのであったが、逆に経済界から言えば、権力に投資して利潤を得ようとするものと言えよう。官僚資本の出発はまさにここにあったの

である。そして又、所謂官有と言い、国有と称される財産、資本がつまり官僚の経済的基盤を形成して行ったのである。又、直接与えら

れる俸給は明治初期の太政大臣、参議にあっては莫大なものであり、明治二十年後の官吏についてはその上下の差はすこぶる甚だしいも

のであった。

 加ふるに、官僚の特権確立のもう一つに爵位制の確立がある。

明治十年以後は、国際的には不平等条約の改正、国内的には自由民権運動の発展にともなって、自然憲法制定の機運が高まった。その前

提として内閣制度樹立が叫ばれ、更にその前提として官僚の身分的格上げが考慮されるに至った。即ち、士族を中心とする官僚を華族へ

迄引き上げると同時に、一列に華族とされた平等的立場を階層的に段階付けて、公、侯、伯、子、男としたのである。かくて、1882

年、明治十五年十一月十五日宮内省に華族局を置き、華族令が制定され、やがて、明治十七年七月七日授爵式があげられた。かくて官僚

族の上層部は皇族を除いて最高の身分にのし上がり、1885年、明治十八年十二月二十二日に太政官制を廃止して、近代的内閣制に切

り替えた。そして大臣を名乗れなかった士族官僚もはればれと一律に大臣となり、士族官僚はすでに媒体を必要とせずに、公卿抜きで大

臣として天皇と直結するに至った。即ち、寡頭藩閥による近代的政治機構という矛盾が、はっきりと露呈して来たのである。旧勢力の全

てを改組し、これを融合し、そしてこれを背景として、その指導的地位に就いたのである。この際見逃してならぬ事は、薩長の比率が長

州に傾き土肥はすでに板垣と大隈の政党傾斜を機として完全に伴食的立場となった事である。

この四日後に「官吏綱領」を示して陣容を強固にした。その中の「選叙の事」は、とりも直さず古き官僚の政治的無能力を暴露し、新し

き実力ある官僚の必要性にせまられたものと解する他ない。そしてこれは、試験だけでは不充分とし新たに養成機関を考慮し、これに当

たるものとして東京帝国大学が選ばれたのである。明治十七、十八、十九の年度は、官僚にとっても大いなる転換期であったのである。

そしてこの背景には、民権運動と政府の妥協の上に生まれた資本主義の本源的蓄積が強行されていたのであった。

四章 政党官僚時代
一節 立憲的官僚制と武官官僚の特出
 すでに述べた様に、従来の維新の志士及び明治の志士である官僚が暫時成長して行くに連れて、その後継者を必要とし必然第一級の学

府の必要にせまられた。そこで、明治十九年三月一日帝国大学令が公布され、ここに帝国大学が創設された。この大学令はドイツ学制の

模倣であり、彼等は国家により保護され、特権を与えられていた。又、この帝国大学出身者は言うまでも無く無試験で官吏に登用された

のである。ここに日本の官僚は、その根底から基礎を固くしたのである。

 文官官僚の養成の基礎固めは、当然武官官僚に於いてもその連鎖反応を呼び、明治十五年陸軍大学が創設された。こらは又従来のフラ

ンス式からドイツより帰朝した桂及びメッケルを日本に招く事によりドイツ的色彩を濃厚にしていった。そしてここでは、当然フランス

派的なものとドイツ派てきなもの、及び大学派と士官学校派の激しい対立を生むに至った。

 さて、こういった情勢の中で、憲法草案は1888年、明治二十一年の春作成され、同年四月二十八日に創設された枢密院会議の審議

にかけられた。草案作成は、伊藤博文、井之上毅、金子堅太郎、伊藤巳代治の四人の手によって夏島にこもって秘密裏に作成された。

これを審議した者は、枢密顧問官と称する藩閥的官僚の一握りであった。この憲法の内容はすこぶる専制的なもので、内閣制の名に於い

ての議会は全く制限を受け、有名無実な無能な存在に過ぎず、又憲法改正は絶対に不可能とされていた。況や政党内閣容認は無であった

。しかも議会の一半は官僚の巣窟たる貴族院であったのである。

 明治憲法とは、こうした天皇制藩閥官僚専制政府の手によって彼等に都合よく作成されたものであり、所謂欽定の名に背かぬ天下り的

なものであった。そして欽定とは伊藤の欽定であって、これをあまりに訂正せぬ人物で、世間からは練達堪能の士と目される功労者を、

枢密顧問官として選んだに過ぎなかったのである。

 本質的にはともかくとして、衆議院と官僚政府とは機械的に対立せざるを得ず、更に又対立し得る程度にブルジョア、地主も徐々に成

長して行った。更に藩閥官僚政府内部の長州的なものとの薩摩的なものとの対立があり藩閥官僚政府は、自由党、改進党の対立を利用す

ると等しく、政党のいささかこの薩長の対立を利用しつつ、その勢力を加えようとした。

従って初期議会は、政党が藩閥官僚の官僚的大政府を攻撃し、地租軽減を叫び、言論集会の自由を強調して一応提携していったが、やが

て自由党は長州的なものと結び、改進党は薩摩的なものと結んだが、明治二十年代の産業の発達、特に明治二十七、八年の 日清戦争を

通じて、政党と官僚政治とのバランスが大きく揺れ、その結果としてブルジョア的な改進党と地主的な自由党とのバランスはほぼ平衡し

これと平行して政府内部にも伊藤を首脳とする文官的なもののヘゲモニーが、戦争によっって山県を頭部とする武官に取って代わられる

機運を表面化して来た。

あせった伊藤は、時代への目も開けていただけに薩長藩閥の対立と文官武官の対立から生まれる煩わしさに堪えかねて、後継内閣組成行

き詰まりを機として、内閣を二大政党の首領たる大隈、板垣の二人に譲り渡す策を強行しようとした。山県は、明治丸沈没すと歎じ、伊

藤を乱臣賊子と罵った。薩長による藩閥官僚政府は、その文官的伊藤的な一角が崩れ去って、新たに薩長を中心とする軍閥が藩閥的政治

の踏襲者として新たに登場したのである。

 政党的隅板内閣の組成は、軍部の山県らの強襲により僅か四ヶ月の短命で終わった。けれども一方その間に文官人は、政党的なものに

よって破壊され傷つけられた傷痕を癒す事が先ず必要とされた。そしてそれは隅板内閣を倒してくれた山県元帥の軍閥内閣の力によらね

ばならない。もう伊藤では不可能なのである。

 かくて、ここに、文官官僚の武官官僚への追随と依頼が始まったのである。

二節 文武官僚の再編成
 山県内閣は、隅板政党的内閣圧殺の経緯に鑑みて、憲政党中の板垣派「自由党派」をだまし、利用する事によって、自らの城壁を構築

する為に、文官任用令、文官分限令、文官懲戒令を設立した。更に、陸軍省制を改正して軍部大臣現役将官制を決定した。即ち山県は、

政党の政治機構への進入を恐れ武官はこれを絶対阻止し、文官は相対的にこれを防止する為の法規を決定したのであった。

 さて、日清戦争及び北清事変の勝利とその功績は、国際的にも国内的にも賞賛を浴び、軍閥は更に増長した。かくて、文官と武官のバ

ランスは崩れ、軍閥の指導権的立場が確立した。即ち、藩閥から軍閥への切り変えであり、又軍閥であるが故に薩長を中心としたのであ

る。

 一方、自由党、憲政党は、地主的勢力を中心とするが故に改進党、憲政本党のブルジョア的な勢力の進出に対処しにくくなり、ここに

山県内閣の走狗的な立場から伊藤博文に近付いて行った。伊藤はすでに隅板内閣の推薦者であり、官僚制的な政党であるとは言え、政党

組織論もはいておるのであり、しかも文官的立場及び山県的なものから見くびられ始めたので、憲政党との間に新政党樹立の計画を立て

始めた。所謂、伊藤は野党の党首として譲し、自由党は官僚へ身売りしたのである。

 かくて、新しく樹立された政友会は、従来の憲政党の地主的色彩の上に財閥的、産業資本家的なものを付加し、これに官僚の知識的、

技術的なものを加味しする事によってブルジョア地主的な政党に改組し、官僚伊藤によってこれを統一されたものと言える。

 かくて山県内閣が伊藤の政友会創立を恐れ、対外政策としての対露政策に自身を失って退陣した後を追って、第四次伊藤内閣と言う政

友会内閣を組閣した。官僚的色彩のこれ程濃厚な政党でも、当然貴族院や山県系からは激しい攻撃が加えられたのである。

しかし、総裁伊藤も次の桂内閣の時、所謂二者択一を迫られ、総裁を西園寺公望に譲って退いた。

 さて、隅板内閣の後に現れた山県内閣を藩閥的軍閥内閣としたら、伊藤内閣は藩閥的政党内閣であり、この二つを経過点として、桂軍

閥内閣がすきりとした形で現れたと言える。そして国内を省みない軍閥内閣は国際的、侵略区的な方面へ一路驀進し、陸の長州、薩の海

軍が形成され、軍閥はここに完成されて行ったのである。

三節 軍閥官僚の傾斜
 伊藤内閣退陣の後、桂軍閥内閣が台頭し得た理由は、退陣後の伊藤が外遊を前に藩閥の頭目等に、桂内閣に対してあまりやっきとした

態度を取るべからずと訓示したものの他に、西園寺総裁の闘志が乏しい上、政友会の実質的指導者である星亨が暗殺され、加えて桂はニ

コポン的政策で野党を利用した為、政友会は打倒桂の道へ驀進し得なかった。しかも国際的には日英同盟が締結され、ロシアとの戦いが

予期される中では、政党の気迫は上がらなかった。そもそも伊藤と野合する程の政党にはこれは初めから無理であったとも言える。

 一方、戦争予期の機運の内にロシアは駸々と南下し、交渉も決裂し、遂に明治三十七年日露の火蓋は切られた。戦局は一方的に日本の

勝利に終わったものの、日清戦争により得た戦利品に較べ甚だしく乏しかった戦果は、国民に不満の声を呼び、遂に桂は辞意を表明せざ

るを得ず、ここに西園寺内閣の出現を見るに至った。

 さて、戦争は資本主義を繁栄せしめると言う常態は鉄則の如く表れ、日露戦争は日本の産業資本を確立せしめた。戦争は産業資本を繁

栄せしめ、資本主義の発展は労働運動を呼び起こすという連鎖反応は、何時の時代に於いても微妙なコントラストで表れた。この間に於

ける社会主義運動の宣伝は啓蒙すざまじいものがあったが、工場労働者の主体的欠如の為、いきおい労働者は取り放され、少数のインテ

リ運動に走りがちであった。又それにも増して明治三十年代の日本の労働組織は、主として官営、半官営工場に多く、そのストライキは

直ちに軍隊の派遣により鎮圧され、労働者は寸分の身動きも出来なかったのが実情であったろう。

 一方、終戦で大陸に於ける仮想敵国の消失は国民の安定感を生み、それと共に軍部の優越と横暴に対して批判の眼を注ぎ始めるに及ん

で、ここに所謂桂時代を生むに至った。これは、桂軍閥内閣を主軸とし、西園寺政党的内閣を副位とする両内閣の円満な政権授受の時期

であった。そして西園寺の政策が桂の政策の踏襲が多かったのは、軍閥と財閥的なものとの比重の政治的反映であったとも言えよう。

又この時代に於いては、すでに文官官僚は武官官僚に依存する事によってのみその偉力を発揮出来たのであり、軍閥はブルジョア政党の

希望するところを自分からの手で行う事によって、敵の攻撃をおさえたものと言えよう。

 さて、桂園時代も政党の進歩と共に西園寺は必然桂に従わなくなった。そこで桂は、勅書降下で自己の権力を欲しい侭にした。桂の勅

書と帷幄上奏の乱用は西園寺を没する事も出来たが同時に、自らをも没する結果となった。しかし桂の退陣の直接的原因は何よりも増し

て軍閥内の頭梁山本権兵によるものであった。ここに新しく軍閥の対立を見るに及んだ。軍閥は今や藩閥の後継者としてそのかみの薩閥

、長閥の対立を復活せしめた形である。

 没落した伊藤が政友会を組織せんとしたと同じく、今や追い詰められて血路を開こうとする桂に政友会的政党の集団が党を売って軍閥

の頭梁桂太郎に膝をかがめんとしている。桂の同士会結党の覚書に曰く「余従来在閣の日、既成政党と協商し国務の施設を無礙ならしめ

、憲政の運用を円満ならしめん事を企画したる事前後幾回なるを知らず。今や当面の時局を洞察するに此事の断じて繰り返すべからざる

を覚ゆ」と、そこで政党を作ろうとしたのである。まさにその動機からして政党の価値の低さを明示している。しかしながら、桂に屈し

た政党は、ある意味では、官僚をも若干屈伏せしめる迄に成長したものである事は、否定し得ないであろう。

四節 陸海軍閥の抗争とその没落及び文官の政党化
 日露の大海戦によりその殊勲を発揮した海軍は、やがて陸軍と対等の地位に立ち、軍拡競争を見るに及んだ。勿論、陸は長州の桂太郎

であり、海軍は薩摩の山本権兵であった。山本は第三次桂内閣の時、桂が護憲運動の前に屈しかけた時桂の退陣を迫り、自ら次期の組閣

をするに及んだ。前にも述べた様に桂の後には改進党の後身同士会があり、山本は自らの政治的基盤として、伊藤去り、星亨暗殺され、

西園寺が詔勅違反によって去った今は、原敬、松田正久を中心とする政党政友会が馳せ参じていた。昨日まで閥族打破運動の中心であっ

た二大政党は、今やこの二大藩閥的軍閥に身を売ったのである。けれども政党を前にして陸海軍が相互に反目し合うこの兆候は、あられ

もなく軍閥衰退の一路が臭わされる。

 さて、かくて君臨した海軍閥山本内閣は行政整理の為の官吏の淘汰、減俸、管理任用令の改正、更には枢密院迄に手を伸ばすという官

僚への攻勢を加えた。これは要するに行政の上層部を駆逐し、政党人を自由自在に活用せしめんとする所に其の狙いがあった。

 しかし、軍備拡張を主張する政府に対し、野党は「国民負担の軽減」という形で応戦する折、突如として海軍の涜職事件、シーメンス

事件が暴露され、山本内閣は総辞職せざるを得なかった。かくて、陸軍軍閥桂は最後の死命を海軍によって制せられ、海軍軍閥の山本は

陸軍を中心とする山本一派によって倒壊され、それを取り巻く政党の対立と、更に背後に動く国民運動の力はこの両繋がりを倒す大いな

る功績を立てた訳である。かくて大正劈頭の政変は陸海軍閥の代表者を一応打倒する事から始められ、武官閥を唯一の頼りとした文官陣

営は、この頃から暫時政党陣営へ転入して行った。

 桂、山本葬られた後、組閣は、西園寺拒み、徳川家達拒み、清浦こらを受けたかに見えたがあわや流産し、遂に大隈重信に到来した。

大隈は第一次欧州大戦に会した為もあり、また日本ブルジュアージーの大陸進出政策に反映された為もあり、その骨格は対外強硬であり

軍部の意志と完全に一致するものであった。朝鮮二個師団増設、日独開戦、対支二十一ヶ条問題、これら全て侵略的であったと言える。

しかし、同志会首領、外相加藤高明の正統的手腕と実力の貫徹は、軍閥がやがて衰退して行くものを物語っていた。

 大隈内閣は、増帥案を通過させる為の買収で自らの首を絞めた。しかしその後の組閣は「軍国多事」という山県の推撰理由で再び軍閥

内閣寺内正毅の登場を見るに及んだ。政党とは決して言い得べきも無い軍閥寺内はその本領を発揮すべく、中国内政干渉、シベリア出兵

を試み、いずれも失敗に終わった。内政を試みない寺内は、経済の不況及び米騒動による全国的な生活苦の声により、身を引かざるを得

なかった。戦争によって組閣した寺内は、戦争によって葬り去られたのである。かくて約二年間続いた軍閥内閣はここに最後を遂げ、以

後かくの如き裸身の軍事内閣は、再び現るべくも見なかった。

 思うに、戦争と大陸進出による資本の飛躍の背後にあるものは労働者の進出である。一方、絶対制的圧力の支配下では連鎖反応的に一

連のデモクラシー的要素がその影で姿を潜め、密かに散在している。そして最悪の事態、デモクラシー的要素は社会主義的要素と結合し

て、その機能を開始し始める。明治以来影を潜めていた社会主義運動も、かくの如く再びその姿を現すに至ったのである。

五節 官僚制的政党内閣から官僚のファッショ化への推移
 寺内元帥内閣を継いだ原内閣は、純政党的であると言われ、政党的行政を数々行い、あるいは失敗におわり、あるいは成功を収めたが

その政綱は依然絶対主義的要素を多分に持ち、まさに政党内閣の官僚制が抜け切らなかった。では何故政党内閣でありながら官僚的色彩

が漂っていたのであろうか。次にその理由を二つに分けて述べてみよう。

 まず第一に、それは経済面に見る。

即ち政党は根本的に言ってブルジュアジーの代表機関であった。そして日本の財閥は、藩閥、軍閥、官僚閥と完全に抱合しつつあったの

だと言えよう。その生産面を担当しつつあったのだと言えよう。一方武官官僚はその市場の為の侵略面と保護面を、文官官僚はこの技術

面、操作者を担当していたと言える。原内閣はかくの如く第一次欧州大戦によって、膨大な成長を遂げた財閥の代表として組織されてい

たものである。即ち、政党は財閥の代表機関であり、財閥はその機能発展の為に官僚とは相関関係にあった。そこで政党は自然官僚と妥

協せずを得ず、即ちこれ政党の官僚化の所以である。そして政友、民政の二大政党が曲がりなりにも二大政党らしく成り得る経済的基盤

はここにあったのである。しかしこの三井、三菱の二大財閥といえども二大政党と事同じくすこぶる頼りないものであった。そこで恐慌

と市場縮小から来る救命策として、国家事業と緊密なる結びつきが開始される。官と民の新たなる結合であり、そこから生まれるものは

独占的な国家資本主義の形成であった。ここに官僚的政党、政党的官僚の存在があり、挙国一致党、ファッシズムへの転形が芽ぐむので

ある。そして文官官僚が政党から完全に独立し、武官官僚が再び羽ばたきを開始する直前迄を、曲がりなりにも政党時代であったと言え

よう。

 第二に、政党の官僚化は人的にも当然の理由があった。政党の基礎が経済的に官僚化せざるを得ぬ理由が存するとすれば、人的な面に

於いても官僚化するのは当然の理と言えよう。政党時代と称される大正七年の原内閣から昭和六年の犬養内角迄、十二代を通じてそのほ

とんどの組閣は官僚出身者であった。云わば政党人と称する彼等のほとんどは官僚という学校を卒業して、次の政党というより高次の学

校へ入学するのであった。彼等にとって官僚は自己の出身校であり、友達であり、親戚であったのである。そして少しでも政党的であろ

うとすれば、それは、原であり、浜口であり、犬養の様な結末を遂げるのであった。それが、三・一五事件であり、五・一五事件であり

、であり、後の二・二六事件と同種のものであったのである。かくて政党華やかりしと称された時代もまさに有名無実で、政党は官僚化

せざるを得ぬ宿命的要素を持って、昭和の初期を一路暗黒へと驀進して行ったのである。

 では次に、政党内閣時代の国家機構と官僚制度について一言しておこう。

 原内閣前後の日本の官僚機構は、文官勅任官は906人、奏任官は11017人、判任官は77637人、雇傭20102人、つまり

勅任官の十二倍余りが奏任官、奏任官の七倍余りが判任官、判任官の三倍弱が雇傭員となり、完全なピラミッド型を形成していた。

そしてその下に人民がいたのである。武官に於いても全く同じピラミッド型を形成していた。しかもこのピラミッド型はその俸給に於い

ても全く同様であった。そして文官も、武官も共に親任官であり、勅任官であり、奏任官であり、判任官であって、絶対に国民の任じた

者でない事に於いて共通であり、命令系統も上から下迄の階級に乗じるものであった。又任免、其の他の形式に於いても、太政官時代と

異なる事がなく依然存続していた。これが政党内閣下に於ける官僚形態なのである。例え真に民主的な政党が生じたとしても、この荒蕪

地に鍬を打ち込む事は容易な事ではあるまい。もし政党がこれらと大した摩擦を起こす事なく政権の座に就き得たとしたら、彼等も官僚

くずれであり、官僚と利害を共にしたからである。官僚を征服したからでなく、これと妥協したのである。さから平和の上衣が少しでも

風に翻った時、たちまちにして文武官僚の鎧が見えるのである。

 さて、政党の政策実行の面に於いてもその政治力と実権は官僚に牛耳られていたと言っても過言ではない。法案成立に於いても、政党

は政党内閣でありながら貴族院的なものとの結び付き、野党的なものとは手を繋がなかった。否一歩譲って、多数党の政友会が組閣して

いたとて、政府の法律案の作成過程は、完全に官僚の手によるものであった。法案作成の知識及び技術は官僚でなければ不可能だったの

である。少しでも正統的なものは修正された。そこに正統の無能と弱さがあったのである。

 それでは、官僚骨格の上に塗装された政党内閣たるものの政策を見れば、原内閣の四大政綱、即ち国防の充実、教育の振興、産業の奨

励、交通運輸機関の整備であった。まず軍備を先頭とし、資本を発展させ、国内市場開拓と軍事的行動の為の運輸機関の確立。そしてそ

の技術者養成としての教育の振興。これが画期的政党内閣の政策である。まさに絶対主義化に於ける資本主義発展の姿を表している。高

橋しかり、加藤しかり、官僚的政党時代は全て然りである。

 さて、原敬を始めとし、所謂官僚的政党時代が、若槻、浜口、犬養を通じて次の時代へと移り行く過程に於いて、その因はどうであっ

たろうか。

 田中内閣の後を受け、官僚的政党時代中最も進歩した内閣と言われる民政党総裁浜口雄幸は、憲政の常道樹立をうたい、彼の説いた十

大政綱は、要するに世界的経済恐慌と大陸への国際勢力浸透に対して、独占的金融資本への救済を念願するものであり、その為には経費

をあらゆる部面で緊縮し、軍縮にまで一応手掛ける覚悟をし、その為の混乱を防ぎ、民衆の不平を抑える為には国体観念を使用すべしと

するにあった。そして政府は所謂緊縮政策を大衆の負担によって行おうとしたのである。

そこでここで考慮される事は、軍、官、財の三位一体による帝国主義的独占的金融資本とはいえ、その抱合の中には自ずからして内部的

な勢力の闘争が行われるものであり、所謂政党政治の時代には、財閥的、正統的な面が文武官僚的なそれよりもより支配的な立場を取ろ

うとする。そして、現在は軍縮時代であるが故に武官を抑え得るし、恐慌時代であるが故に行政整理を行う事によって、文官を抑え得る

結果ともなるのである。つまり、国内的には文官官僚により、国際的には武官官僚によって指導された財閥が、この世界平和と世界恐慌

の矛盾の中にあって、自らの地歩を一歩前進せしめようとしたのが政党内閣であり、なかんずく政党的色彩を多分に加味した浜口内閣で

あったと言える。そこに同一陣営内の摩擦が生じ文官の減俸反対運動となり、武官の反政府的青年将校的な運動が生じるのである。

 以上述べた如く、経済収拾の為の軍備費縮小案を試みんとした折、従来の仮想敵国たるロシアは崩壊し、革命の途にあった為、世論も

軍縮の声が一層強く叫ばれ、しかもその背後には多年の軍閥横暴に対する憤りが燃えていた。けれども第一次欧州大戦の結果、軍部は今

後の戦争が総力戦である事を知らされ、軍備の合理化に力を入れざるを得ず、軍備の機械化乃至、軍人の職業制から大衆制への切り替え

は形式的には軍縮の形を取ったが、実質的には軍拡ならざるを得なかった。ただここで問題なのは人員整理であった。軍事力はむしろ増

大せても軍人そのものの減少は事実であった。そして職業軍人の職場放遂は心理的にも彼らをして憂うべき軍備縮小の感を与えたであろ

う事は否み得ない。この傾向に理論付け、拍車をかけたのは、北一輝、大川周明、満川亀太郎等の猶存社であった。其の他武官官僚への

働きかけとしての結社は成立し、結合し、あるいは解散もしたが、多数存した。これらの働きかけ及び宣伝が若き血を湧き上がらせ、五

・一五事件となり、二・二六事件として現れたのである。

 一方、第一次欧州戦争によって急激に膨張し躍進した日本の無産階級運動は、その過程に於いて労働組合を作り、農民組合を結び、組

合そのものも意識的、合目的的に成長しつつあったが、特に大正九年の恐慌以来は、資本攻勢による馘首問題其の他を通じて次第に政治

的に目覚めて行った。しかし、相次ぐ弾圧に、そして恐慌と軍縮による反動攻勢に、農民組合の一部、官業労働、其の他の弱い組織から

次第に崩れ始めた。

五章 新官僚時代
一節 フアシズム第一期と新文武官僚の進出
 ファシズムとは、独占金融資本段階の資本主義がその行き詰まりを打開する為に、国内的には勤労階級を弾圧し、国際的には侵略をそ

の政策の根幹とするものとしたら、日本の1928年から1945年に至る形貌はまさしくこれに恰適する段階であったと言える。そし

て日本の場合は、先にも述べた様にそのしわよせとして犠牲になったのが軍部、特に青年将校であり、勤労大衆及び中間層であった。

そこで現状打破の為、まず第一に立ち上がったのは当然組織し結社を持った青年将校であり、中間層の人々であった。加うるに新官僚が

これに便乗し始めたのである。中間層の考え方は本来的には支配階級であり、没落に直面する際は一層あがくのである。日本ファッシズ

ム第一期はこのあがきの表面化であり、被支配階級を抑えると同時に支配階級の放恣をつくのである。これがテロ及びクーデターである

。ファッシズム第一期はこの形で展開したといえる。これに対し天皇制下の独占金融資本的支配機構は、この中間層の凶暴化を巧みに利

用しつつ彼等の希望する国際侵略、国内弾圧のファッシズムの政策へ巧みにむけ変えて行ったのである。明治憲法下の日本ではすでにフ

ァッシズム化への基礎が出来上がっていた。だから明治以来の伝統にものを言わせて国内革新と国際侵略を同時に行い得たのである。否

、国際侵略によって国内革新を行ったとも言える。

かくて、日本的ファッシズム第一期を完了した日本は、満州、上海ならぬ中国本土を目指した。この段階で憲法以上の統制力を持つとい

われる国家総動員法が発布され、左翼的組織は大政翼賛会の政治的なものに統一され自由主義迄蝕まれるに至った。第一期を人間的転換

期としたら、第二期は制度的転換期と称されよう。この期に活躍した人々は依然として中間層的な代表であり、ファッシズム的な上層部

であった。更に国際的には日独伊防共協定から軍事同盟。所謂枢軸国の一翼として規定された。中軸は勿論青年将校と新官僚及びこれと

同調する将軍連と官僚群であった。この体制の下で太平洋戦争に突入し第三期を形成する。独占金融資本はいよいよ太り「生命奉還」の

スローガンは全てを天皇に帰一したかに見えた。そして、かくては力んだ中間層も自らをその落とし穴に突入せしめる結果を招かざるを

得ない事態に陥ったのである。

 ここで青年将校的軍部と新官僚的官僚について簡単に一言しておこう。まず青年将校的軍部とは、近代的な国民の為の軍部である代わ

りに、政党的に傾斜した軍部への抵抗としての単なる政党的なものにすぎず、政党によって取って代わられた政権を自らの手によって取

り戻す為の軍部とでも言うべきものであって、青年将校の尊敬する人物は非政党的、非軍閥的であり、精神家で、学校時代に世話になっ

た人というのが最大公約数らしい。新官僚的文官官僚の系譜もまた、反政党的、非進歩的な線から出発するものである。

 さてそれでは、青年将校は軍部へどの様にして進出して行ったのだろうか。何回も述べた様に、恐慌による農村を中心とした極度の疲

弊、独占金融資本の制覇、大陸市場の縮小等の事実を前にして、軍備縮小という直接的打撃にひしがれた軍部は不平と不満の中に自らの

打開策を講じ始めた。その行動綱領としては、大正以来暫時培われてきた北、大川等の軍事革命の夢が彼らを刺激した。直接的には浜口

内閣のロンドン条約をめぐる統帥権干犯の問題が昭和六年の陸軍による三月事件、十月事件として表れる。軍によるクーデターを敢行し

軍事内閣を組成する事にあった。この二つの事件の失敗によって事件を国内的に発展せしめる事の不可能を知った青年将校団はその矛先

を大陸に向けたのであった。かくて昭和六年満州事変が勃発したのである。続いて昭和七年二月には血盟団事件が発生した。更に満州事

変の発展たる上海事変を手軽にかたずけた犬養が暗殺された。これは井上等の一人一殺テロに非らずして行政府を中心とする変革を企画

した大川周明指導によるクーデターであった。所謂、五・一五事件である。昭和八年八月には大日本生産党を中心とする神兵隊事件が企

てられたが、軍部が伴なわず失敗に終わった。この頃から軍閥に新しい三つの閥が生じて来た。青年将校の待望によって軍の中央部に進

出して来た陸相荒木貞夫、参謀次長真崎甚三郎の国内革新を唱導する派閥に対し、青年将校を否定する既成的な宇垣一成等いわゆる軍閥

派と、この中間的派閥であって軍の全てを統制して総進軍すべしとする林銑十郎、東条英機等であり、この最後のものが斬次勢力を得る

と共にその現実政策として既成勢力との苟合妥協が行われ始め、三者の対立の度を深めて行った。

 満州事変、上海事変、満州建国等によって軍部の指導権はその緒についた。そしてやがて軍による思想、経済、政治への関与がいよい

よ激しさを加えて行ったのである。

満州事変後の軍部は次第に政党的なものに押され軍首脳部も転化する傾向に反発したのである。この機運の上に二・二六事件が激発した

。即ち1936年、昭和十一年二月二十六日陸軍の皇道派的な青年将校によって企てられ、北、西田派の民間側からも追随したものであ

るが、直接の動因は行動派への圧迫と第一師団大陸出動計画に対する反対であった。五・一五事件以来四年の研究の結果により北の軍事

革命を目指したものであっただけに大掛かりなものであった。戒厳令下に軍事内閣を作成しようと企てたのであった。岡田首相以下斉藤

内府は、高橋蔵相、渡辺総監、鈴木侍従長等が襲われ、斉藤、渡辺、高橋は葬られ、鈴木は重傷、岡田は身代わりの身によって危うく難

を逃れた。

 かくて、この段階迄を日本フアッショ化への第一段階とみると同時に、軍の青年将校的な一般中間階層の立場からする一種の生活権擁

護を中心とした時代であったと規定し得よう。そしてこの段階に於いては、遅れたる労働組合其の他はこの傾向と軍の持つ偉力にかなり

の期待をかけて彼等と行動を共にせんとするに至ったのである。

二節 フアシズム第二期から太平洋戦争への突入
 軍部は一大粛清を実行しつつ他面軍の進一歩を企てた。軍内部の派閥的対立を解消し、しかも軍縮を阻止せんとするには軍の綜合的欲

求たる戦争一路に運ぶ以外に道は無かった。二・二六事件のあった秋陸軍はパンフレットに「陸軍軍備の充実とその精神」を出し、その

中に完全な全体主義的要素を見出した。加えて中間層もこらに共鳴し、フアッショ的構築はまさにその基礎固めをしたのである。

一路戦争へ驀進する事によってその実権を握ろうとし、広田出し、林を出したが期待に沿わず、遂に国民に最も信頼有りとする近衛文麿

を担ぎ出すに至った。軍による干渉がなければ、ある程度国際正義と社会正義の為に進み得たかも知れないこの比較的良心的な近衛も、

組閣後一ヶ月にしてや軍部による日華事変の口火により動揺せざるを得なかった。まさに当時の軍は政治の舞台裏に居て内閣を組織し、

破壊し得る内閣製造業者の存在であった。しかし一方、日独伊軍事同盟締結の強力な台頭に悩んだ近衛は退陣し、やがて平沼騏一郎、阿

部信行大将、米内光正の内閣を通じ再び昭和十五年七月二十二日、第二次近衛内閣の成立を見るに至った。八月一日には、高度国防国家

体制確立を期して画期的な新体制の国策基本要綱を発表し、九月十九日、日独伊三国同盟を締結した。

ここに日本は国際関係に入り、フアッシズム国家軍の一として民主主義国家群と対立するに至った。もはや陸相東条英機が台頭している

。国内的には基本国策要綱に基ずき、新体制準備会が雄大なる構想の下に企図され、社会大衆党、勤労国民党、政友系、民政党、国民同

盟等の政党も解党、あるいは結党不許可となって、新体制下の新組織内部に移行する事となった。更に労働組合は、この政党解消と並ん

で産業報国会一本となり、所謂生産陣営の戦時体制なるものに編成替えされて行った。

 このフアシズム化への軍の活躍はすざましいものがあり、第一次近衛内閣を看板として日華事変を成立せしめたと同工異曲の欺瞞方法

をもって抗議せんとする第二次近衛内閣を巧みに用いて新体制を実現した。それは不拡大方針が全面的に拡大され、新体制の出発と結成

との間に大いなる間隙のある事によっても知られる。そして新体制は武官、文官を中心としこれと同調するものによって組織された事は

事実である。1940年、昭和十五年に至って、政治、経済、文化のあらゆる面が文武官僚の直接指導によって運営されるに至った事が

これを証明している。そして一路太平洋戦争の準備にに手を染め始めたのである。その後の日本が完全に官僚、即ち軍と官による支配下

にあった事は、軍、官、民の文字の使用によっても明らかにされるであろう。

思うに、もはや近衛でさえも駄目なのである。近衛でさえも迷ったのである。そして知らず知らずのうちに悪路を選んでいたのである。

軍による巧みな新社会の作成は、社会の行き詰まりが手伝って国民をも一人残らず、あるいは納得的に、あるいは強制的に新体制へと、

戦争へと引きずって行ったのである。近衛があえぎ、もがきしながらの大政翼賛会もかえって軍に逆利用されるのが落ちだったのである

。そういった機運の中に遭遇した政治家近衛の宿命と言う他無い。

 さて、先にも少し述べたが、この大洋を荒れ狂う大波の如き新体制の中での無産階級はどうであったろうか。共産党、労農派、合法無

産党及び組織されたる農民労働者は、この抑圧下に可能な限り何らかの形で反撃し、多数の惜しむべき有能者の犠牲を続出するに至った

。しかし時代の勢いには逆らう事は出来ず、十二年頃から十五年に至っては共産党は撲滅され、労農派は破壊され、中間派は一応協力し

、右翼はこれに追随する形を取り、傘下の組合も其々これに準じた行動を取る事とした。そして政府による大日本産業報国会に統一され

て行ったのである。完全にファッショによる統制であり、統制下に立つ労働者の姿であった。しかし同時にこの圧制の中に尚三百三十四

の労働争議と一万七千二百八十六人の参加者があった事を忘れてはなるまい。まさに身を捨てて直接的には自己の利益の主張であったか

も知れないが、間接的には民主主義を叫んだ人々の姿であった。そして日本は、このファッシズム的統制政治が完成されたところで太平

洋戦争に突入して行ったのである。

 

四部 近代日本官僚制の特殊性
一章 総  説
 以上近代日本官僚制の萌芽から太平洋戦争に至る迄の史的展開を述べてみた。

 日本の官僚制は、その発生から常態なものではなかった。それは第二部に掲げた一般に官僚制と呼ばれるものの三つの発生過程と較べ

てみれば自ずから納得出来よう。即ち近代日本の官僚制は第一の過程の絶対制的官僚制が太平洋戦争終了後迄だったとするならば、自然

戦後の官僚制は義理にも名目にも第二の過程、即ち公務員的官僚制とは言えない。第三の過程の新官僚制であろう。ここで残念ながら太

平洋戦争後から現在に至る迄の所謂新官僚制については述べられないが、とりもなおさず日本の官僚制はこの意味で自然第二の過程、即

ち公務員的官僚制を抜かして一足飛びに戦後の体制に入ったのである。そしてこの戦後の官僚制と雖も戦後の臭いの抜けきらぬ怪しいも

のである。悲しいかな未だに官僚の民主化はその行動を開始しないのである。戦後の荒れ狂った街々が一つ一つ新しく美しくなるに従っ

て、政治は古の郷愁に浸っていくのである。此れを見、誰が再びあの戦前の姿に身を変じ得ないと断言出来よう。

 返す返すも明治維新は、少数の西南の雄藩が徳川幕府を倒す事によって大制復古の形を取り、天皇を統治者の総攬者にした事に始まり

、その発展過程に於いては、全てがプロシア化され、ドイツ化されて行ったのである。我々がこれを自覚した時あのナチスドイツを想い

出す事によって、我が国が如何に恐るべき、憎むべき姿を取って来たかを想像し得よう。そして仮にも現在の日本の官僚族が昔の姿に帰

ろうとしているならば、まさに憂慮に堪えない。

 そこで日本の官僚制を学ぶ事は実に必要な事である。そして官僚の歴史を学び、次にそこから特殊性を引き出さねばならない。何故な

らば、全てのものの特殊性は必ずその実体、即ち骨組みと機能と性格を有しているからである。物事を知りそして改め、付け加えていく

には全て特殊性の理解から始まるからである。

二章 日本官僚制の特色
 まずその第一は、官僚制的統治構造の内部が不断に分裂する事になった点である。

 政策決定の究極の権威は天皇にあるにもかかわらず、明治維新の現実の推進者は諸種の有力な封建藩士であったところから、明治政府

を支配する現実の権力担当者はこれらの多元的な政治勢力であった。即ち藩閥政府である。これらの政治勢力の代表者はいずれも自己が

「聖旨」の体現者である事を呼称し、これによって統治構造内部に深刻な割拠対立の禍因を植えつけたのである。このセクショナリズム

は、その後の日本官僚制を終戦の日に至る迄腐蝕し続けたのである。

 その二つは、官僚制内部に於ける身分的固定性の伝統を継承した事である。

 天皇を頂点として設定されていた位階勲等は、旧来の封建領主に華族制度の名の下にその上位をしめさせ、特に官吏に対してはその学

歴と経歴に応ずる当然の昇叙を享受させた為、高級官吏と下級官吏との間に身分上の差別をもたらすに至った。この差別は、明治初期に

於いて多数の士族が新政府の構成者となった事によって一層強められ、ついひとり官職の面に於いてのみならず社会生活に於いても下級

官吏の卑屈な奉仕と服従を要求される事になったのである。

 その三つは、官権と人民関係に存する濃厚な官尊民卑意識の存在である。

 この特色は絶対的官僚制の場合に於ける警察的支配、即ち警察国家の存在に近似している。特に明治政府に於ける末端行政の担当者が

多数の下級武士であったところから、その行動様式に特権的性格が著しく付着する事となり、それが国体観念の神聖性と結合し、一切の

非道な行政や警察処置の正当性を弁護する為の唯一の根拠として悪用する事となったのである。

三章 郷愁に浸る戦後の官僚陣
 さて、終戦と共に明治以来の旧い勢力は軍国主義の除去を求めるポツダム宣言の趣旨によってある程度制御されたが、ひとり官僚機構

だけは占領が日本政府を通じて行なう間接統治であったところから、その例外をなして存続する事になった。

むろん、憲法の原理、特に「公務員を選定し、及びこれを罷免する事は国民固有の権利である。」というその第十五条の精神を実現する

為に、昭和二十二年に「国家公務員法」を制定し、第二部で述べたような第三過程の官僚制、即ち新官僚制に特有の新しい制度を相次い

で設けている。

けれども、この制度自体の内部にも日本官僚制の特質を把握していない欠陥もあり、これに加えて前にも述べた様に完全な民主的公務員

制の歴史を有していない我が国では、新しい改革に対して既得権益を守ろうとする官僚側からの根強い抵抗と反撃を受けた事は言を待た

ない。

とりわけ占領末期に於ける冷戦の激化を背景として、旧い軍事的な官僚制の効用と郷愁が官僚の民主化をおおいに妨げた。

 最後に、官僚とは何かを、解りやすく一言で表現すれば、国民から、一銭でも多くの税金を搾取、騙し取り、しかも最も取り易い弱者

から・・・、それらの税金から先ず自分達が充分にお手盛り着服し、余ったお金で国民に必要か不必要かも充分に計らずに、それどころ

か如何にも国民に良くて優しくて弱者保護の事業のように見せかけて、実は自分等の利益になる事業を、自らの権益に繋がる事業をする

" 閉鎖的、排他的、階級的、中央集権的、村社会的集団組織体 "を ”官 僚 ”と言う。

何時の時代でも、何処の地域国家でも、誰がやっても、どんな組織にしてもである。

註、 主 要 参 考 書
@ 近 代 日 本 官 僚 史    田中惣五郎 著           東洋経済新報社 昭和六年版

A 日 本 官 僚 政 治 史    田中惣五郎 著「日本近代史叢書W」 河手書房    昭和二十九年四月改訂版

C 内   閣   論     山崎 丹照 著           学陽書房    昭和二十八年二月版

D 現代政治に於ける官僚の地位 吉 村 正 著           前田書店    昭和二十五年二月版

E 太 政 官 制 と 内 閣 制 鈴木 安雄 著                   昭和十九年版

F 行政制度「法体制準備期」 日本近代法発達史の抜刷  佐 藤 竺 著                   昭和三十六年版

G 日 本 官 僚 制 の 研 究 辻 清 明 著           弘 文 堂    昭和三十六年四月九版発行の部

H 日 本 国 憲 法 概 説    佐 藤 功 著           学陽書房    昭和三十四年四月版

I 政 治 学 事 典     中村哲 丸山真男 辻清明 編集   平 凡 社    昭和三十五年一月初版第七刷

J 社 会 学 辞 典     福武直 日高六郎 高橋徹 編集   有 斐 閣    昭和三十三年九月初版第二刷発行

K 世 界 人 名 事 典                     フェニックス書院   昭和三十一年十月第三版発行 新訂増補版

L 政 治 経 済 新 語 辞 典 時事知識普及会 編         同 文 館    1958年版

M 其 の 他 若 干