会社沿革
昭和42年4月 現代表取締役 鈴木英雄 東京都立工業高等専門学校 機械工学設計科卒業後、日本初任給3倍でドイツ企業就職 &留学予定であったが、実父電気接点業への強い懇願により、種数精鋭ベンチャー企業(日新研究所)確立めざし参画。
国内外の白黒・カラーテレビ用チューナー用リベット型接点市場占有率3/4(松下電器・シャープ・三洋電機他
銀と銅との冷間接合複合接点特許取得、大量生産技術・コストダウン確立により利益増大。
三菱電機IC純銀ゲードリード細線技術・加工機械を開発し、さらなる利益拡大なる。
東京都足立区内工場手狭になり、埼玉県八潮市に拡張移転する。
昭和49年1月 実父急死、遺言により弱冠27歳1カ月で代表に、オイルショックにより半年間まったく受注・売上なし。
しかし、新規技術・製品開発・新規取引先等開拓で、苦境を乗り越え以下記載のごとく、以前にも増しての利益拡大と銀行借り 入れ等の債務・他人資本もなく自己資金経営の零細優良企業として評判であった。
異型接点・マイクロモーター用接点95%の市場占有率。自動車・家電・腕時計その他電気部品を開発・受注し利益増大。
多層複合接点開発・特許出願・上場一部財閥系企業との取引開始。
利益増大により、会社組織を有限会社日新研究所とし、代表取締役に就任。
その間、幾多の不況・苦難にもめげず、手形発行・割引・借入もせず、自己資金(設備投資・土地・自宅購入等現金決済)・無借金経営を25年間継続。
その時の経験・知恵・実務を活かしたYQ手法を考案・確立(一日3分間で仕事・勉強がはかどる手帳)
長女・長男・次女の私立難関中学受験を進学塾を殆ど頼らず、又は退塾して、合格。(一日3分間で勉強がはかどる手帳)
昭和63年4月~ 会社全財産を実弟二人に無償譲渡し、代表取締役退任&退社。
( 理由 :いわれなき嫌がらせタレこみ脱税容疑の税務署調査半年間で、当初の脱税疑惑なし、わずか数百円のお仕着せ修正申告の 結末で、周囲・身内での騒動等将来を見据え、涙を噛みしめて(税務署謝罪なし)
東京人材銀行経由で東京投資育成会社支援&大株主の林フェルト株式会社に開発部長で入社。
入社すぐに、社長・取締役工場長の強い要請で、経験のない原反サイズ両面テープとフイルム・ウレタン・織物との自動貼り機械を社内応援なく、(愛のイニシエーション?)一人YQ手法を駆使し、設計・製作・自動化ラインまで完成させ、年間外注費数千万円以上(毎年)の会社利益に貢献。
(予算もなく、あてがえられた廃棄処分ローラー2本と部品代百万円で完成) 購入した場合、機械購入費は5千万円以上といわれる。
(給料アップや報奨金などは全く、「誰もが作れる」など逆に嫌がらせの嵐)
独自に考案した打ち抜き技術やキャノン・カシオのプリンター部品製造方法・開発考案機械機器・部品多数で会社利益貢献大。
(お決まりの、給料アップや報奨金などは全く、「誰もが作れる」など逆に嫌がらせの嵐)
技術管理・開発・品質管理部統合の技術開発部長に昇進後、退職。
(理由:取引先がよく行くカラオケ居酒屋に夜な夜な私と妻の偽者が出没、会社刻印入りの私の名刺を配り、得意先から(セクハラ)の抗議があり、これは危ないと思い)
また、社長からの要請で外部会社と共同で開発中の機械完成後に新工場長より私に買い取りを命令された。・・・社長命令で、受注見込みが無くなったので・私の責任でなく経営陣の責任)
上記企業4年6カ月の勤務・退職後公的機関で6ヶ月間電気・電子制御技術を研鑽。
東京人材銀行経由で店頭登録企業株式会社エバタに技術者として入社。
入社してすぐ、夜通し生産しても解決に困っていたプラスチック製平板をYQ手法を駆使して、入社わずか3カ月間で販売価格半分で赤字製品から黒字製品に解決し6ヶ月間で退職。
(理由:企業利益貢献したが当初約束のない、真夜中の作業を命令。管理職なので残業代等支払う必要がないとのこと)
(入社給料条件として、上記解決に貢献したらそれに見合う給料アップが提示されていたのとは逆に)
公的機関で経営管理・経理・総務・労務などを6ヶ月間研鑽。
2000年7月 学習支援&知的財産権研究開発事業化の目標達成勉強室 一心助けを千葉県流山市に開設。長男博英 副代表として参画。
2006年4月 成績不振者・不登校生などに立ち直り、やる気を発揮させた実績)と当初の目的達成
(1日3分間で勉強のはかどる手帳の効果)と特許取得多数で、知的財産権研究開発事業化に特化。
千葉県柏市に拠点を移し、名称も一心助けとした。
2014年4月 株式会社 一心助けに変更(資本金300万円)株主 代表取締役 鈴木英雄 2/3 取締役 鈴木博英 1/3