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八戸焼とは,江戸時代末期(幕末期)まで八戸市内の蟹沢山中で焼かれていた焼き物です。
その昔「八戸焼」、又は「蟹沢焼」と呼ばれ庶民の為の焼き物、いわゆる民窯(みんよう)として親しまれたそうです。
しかし、時代とともにその存在も忘れられ文献も残っていない事も手伝い昭和に入ると幻の焼き物と言われていました。

新緑の若葉の色を思わせる独特の緑釉を施した八戸焼は海の藻の色を表しています。
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現在の八戸焼は昭和50年に窯元初代『渡辺昭山』の手によって再興されました。
佐渡の無名異焼(むみょういやき)国三窯の長男であった昭山は、
小山富士夫著の「江戸時代の日本の諸窯」をはじめとする数冊の著書ふれ、「八戸焼」の存在を知ったといいます。
しかし殆どの著書での記載は数行だけで、「八戸焼」の詳細は文献では解らない事も事実でした。
昭山の妻(諄子)の生家が八戸だったことあり数年間で何度も八戸に来ては「八戸焼」の情報の収集に没頭したそうです。
昭和50年春、「八戸焼」の情報も次第に集まり、満を持して「八戸焼・昭山窯・渡辺陶房」を開業、同年秋に市内の蟹沢山中にて奇跡的に窯跡を発見します。
『月刊きたおぅう11』昭和51年11月10日発行
窯跡には既に崩れ落ちた登り窯と平窯(穴窯)跡があり、すっかり土砂に覆われて草木がおい茂っていたといいます。
昭和50年当時の窯跡(写真撮影:和井田登)
草木を取り除き土砂を掘り起こすと、そこには無数の陶片や窯道具(サヤ・トチ等)瓦などがあったそうです。
出土した窯跡の陶片(写真撮影:和井田登)昭和50年
当時、出土した陶片の多くは栗の木の根に抱えられるように発見されています。
栗の木は地主さんにより伐採され、その年輪を数える事により、大まかな年代が測定され江戸時代末期頃だと分かったそうです。
年代に関しては、後に、八戸市の調査でも江戸時代末期の窯跡であるという結果が出ています。
(写真撮影:和井田登)昭和50年
窯元初代『渡辺昭山』は出土した陶片を参考に試行錯誤の後、独自の八戸焼を作り出しました。
『やきもの窯場百科-全国83箇所徹底取材』主婦と生活社(平成6年11月第1版)
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『新やきものの基礎知識―見る・買う・使う・作る』学研編集部 (2005/03)
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平成12年(2000)12月25日、
八戸焼の復興を果たした、渡辺昭山(初代八戸焼窯元)は他界いたしました。
現在、八戸焼では初代、渡辺昭山の遺志を継ぎ息子の渡辺真樹(まさき)が跡を継いでおります。
青森の大自然に育まれたブナの色、または、三陸の荒波に揉まれた海草の色と称される独自の緑釉を施した八戸焼は近年、お陰さまで民窯として全国的にも評価が高まっています。
  
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