「かってに改蔵」最終回コラム
愛すべきダメ人間たち
落ち着いてから書こうと思っていたコラムです。
当然ですがネタバレに注意して下さい。
最初に言っておくと最終回肯定派です。
【はじめに】
一般的に、人が好む話題というのは「下ネタ」と「人の悪口」と言われていますが、その二つを兼ねそろえた漫画が『かってに改蔵』でした。
毒々しいギャグでひたすら突き進んでいくと思いきや、最終回でこれまでの6年間が見事に覆ってしまいました。
6年間といったら、子供が小学校に入学してから卒業するまでですよ。
あのやたらと長かった小学校時代まるごと連載期間。
そう思うと実に感慨深いです。あの漫画界を揺るがした最終回の真面目なコラムを書くと宣言したものの、頭の中にある考えをどう書いたら良いのか思い悩み、ねちっこく言葉を選びまくっていたら、一年近く経ってしまいました。
正直、作品を読み返してあれこれ考察するのは気が重い作業でした。
しかしこの作品の最終回が素晴らしいと思った自分の気持ちを感情としておいておかずに、読むに耐えられる形にして残そうと決意したのでがんばりました。
ひたすら自分の世界でモノを言っていますが、それでもかまわないという方は読み進めて下さい。
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【クマのプーさんとの共通点】いきなりなんだって感じですが、『かってに改蔵』と『クマのプーさん』は似ていると思います。
あまり知られていませんが、実は『クマのプーさん』は残酷でシュールな物語です。
伊丹十三は、子供の頃に大好きだった『プーさん』を大人になって読み返したら、「こんなに残酷な話だったのか」と一気に嫌いになったそうです。
絵本にはネズミの国で微塵も見せていない陰の部分が満載。
時々森の動物たちに混じって登場する人間の男の子に違和感を感じる人もいると思います。
彼の名はクリストファーロビン。
実はプーさんや他の仲間たちは彼の妄想です。子供部屋のおもちゃにすぎなかったプーたちに、クリストファーロビンは人格を与えて遊び相手としました。
これは子供によくみられる行動です。命を獲得したおもちゃが、あたかも森で生活しているようにみえる部分は『改蔵』の箱庭的世界観と似ています。
植田実の『クマのプーさんと魔法の森へ』の評論にはこう書かれていました。
「おもちゃの動物たちは、生きたウサギやフクロウに入りまじって、森に独立して住んでいる。彼らは無邪気に日々を過ごしているように見えるが、同時に各人各様の人生哲学を確立することに余念がない。だから互いが交わす会話の諧謔と洞察力が物語の核心であり、その他の一切を抽象的な背景のように感じさせる。そこには家庭の温もりがない。プー、イーヨー、ウサギ、フクロウの家がそれぞれおかしなアクシデントに見舞われるのは、暗示的ですらある。しかもそれぞれのエピソードがある定型にまで純化されているために一種の神話作用が働きはじめている。」
おもちゃと実存する個人が共生しつつも、その間には温もりがない物語空間、一定の表現形式を持つエピソードは『改蔵』にもあてはまります。
神話は言い過ぎですが。
ぬいぐるみと過ごす楽しい世界、それになんの疑問も持たない日々が続くと思いきや、物語は意外な結末を迎えることになります。
(ネズミの国では妄想の世界が進行し続けている)
ロビンは、プーさんたちの住む森から出て行かなくてはならなくなってしまいました。
森の仲間たちに「ぼく、もうなにもしないでなんかいられなくなっちゃったんだ」と話すようになります。
彼は学校に行き始める年齢になったのです。全てが全能である世界から教育という現実に引き戻される主人公。
最終話『プー横丁にたった家』の最後で、おもちゃのプーと少年は二人で森のてっぺんにあるギャレオン凹地にのぼってくる。
「プー。」と、クリストファーロビンは、
いっしょうけんめい、いいました。「もしぼくがーあの、もしぼくがちっともー」
ここでことばが切れて、クリストファーロビンは、
またいいなおしました。「たとえ、どんなことがあっても、
プー、きみはわかってくれるね?」
別れを前にする二人が、凹地から現実の空と平地の境界線を見つめる挿絵は切なくなります。
この時の本文↓
そして、そこへすわると、
全世界が、空といっしょになるところまで、
目のまえにひろがっていました。また、世界になにがあろうとも、
ギャレオン凹地にいれば、
世界は、ふたりとともにありました。
空想の世界から現実へ戻っても二人はいつも一緒なんだというところで物語は終わりを迎えました。
「クリストファーロビンがそこを立ち去るときに思いがけず見えてきた「場所」の濃密な色合いは、移ろうべき現実を幻視の筆致で書きとめようとした、一瞬の、だからこそ永遠の光景だったに違いない。」(植田実氏の評論から)
まあネズミの国ではそれこそ永遠に遊んでいられるんですけど。
『プーさん』の主人公は自主的に空想の世界と決別した訳ですが、『改蔵』の主人公二人は半ば強制的に社会に投げ出された形になります。『改蔵』最終回では海と対峙する二人のシーンで終わりますが、その海と空の色は、これから生きていく現実に対する不安を象徴しているような気がします。
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【夢の国】
これは『改蔵』に関係あるのか微妙な話なんですけれども、プーさんつながりということで。
人々に夢を与えるディズニーランドの生みの親であるウォルトディズニーは、ドラッグ中毒者でした。
ディズニー作品には「ドラックによるトリップの産物だと思われるシーンがある」らしいです。
『ファンタジア』の中には、バラバラになったホウキの破片が、それぞれの新しいホウキとして無数に増殖し、最後に洪水を起こしてしまうという場面がある。この場面に関してある精神科医は「複雑に増殖や変形を繰り返したりする万華鏡のような描写は、人工的に精神分裂病の症状を引き起こすLSDの幻覚の体験と酷似している」と指摘する。(『裏の大事典』より抜粋)
確かに言われてみるとそんな気もします。あと、パレードを見てハイな気分になるツアーがドラック中毒者の間で流行ってるそうです。
あの光の電飾が脳に心地いいとか。
アトラクションだと、ジェットコースターのような絶叫モノより、意外にイッツアスモールワールドのような箱庭的なアトラクションが人気。
おそらくトリップしやすいからだと思われます。ドラック中毒者もナイスに溶け込める、まさに夢の国。
ロビンが永遠に夢の中の住人なのも無理はない。ていうかいきなり伏せ字無しであの国について真面目に語りだすのもアレですが。
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【自立としての夢オチ】プーさんはぬいぐるみに戻ってしまったり、『ピーターパン』ではウェンディはピーターパンが見えなくなったり、『不思議の国のアリス』ではアリスが夢からさめてしまったり、そんな結末に子供の頃がっかりしたものです。
しかし大人になるには空想への依存を断ち切り、心の孤独と向き合わなければなりません。
夢オチは大人が物語をうまいことしめくくるための方便にも見えますが、「子供を現実に引き戻す役割」を持つ場合もあるということで童話を例に挙げてみました。
『改蔵』の場合はどうなのか。夢オチで終わる漫画は数多く存在します。
物語が収集つかなくなった時に使われることが多いです。でも『改蔵』の場合は、正直なにも夢オチでなくてもよかったと思います。
これは”キャラへの罪滅ぼし”という意味合いが強そうです。
歪みまくったキャラを、打ち切りという制約の中で救うための緊急処置だったのではないでしょうか。
ただ、キャラだけではなく読者も現実に引き戻された感はありました。
最近の「これ別に夢オチじゃなくてもいいだろ」という作品はテレ東の『水着少女』。
水着少女の数々のエロエロ行為は、全て山木健司(28)の夢ということで番組が終了したんですけど、「んなこと知りたくなかったよ!!」とテレビの前で叫んだ人も多かろうと思います。
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【夢の向こうはまた夢】
『かってに改蔵』の最終回を夢オチで片付けている方を見かけますが、部長が言うように、一つの現実として存在していた以上、主人公達が過ごした日々が全て幻とは一概に言えません。
というか、そもそも現実世界自体が幻なんです。
別にラリッてるわけではありません。
前にも触れましたが、ちんは批評家の岸田秀が好きです。
彼の「人間は本能の壊れた動物であり、幻想や物語に従って行動しているにすぎない」とする『史的唯幻論』は定評があります。「すべては幻想」「世界は医者のいない巨大な精神病院」等の理論が炸裂する彼の本を読んで育ったため、この通り非常にひねくれた人間になりました。
なので『改蔵』の大蛇足は思うところがあり、「ものぐさ精神分析」を引用しながら、真面目に照らし合わせたいと思います。
「われわれは、見失った本来の現実の代理物として、われわれ各個人の私的幻想を多かれ少なかれ共同化した共同幻想をつくりあげ、その共同幻想をお互いの暗黙の合意によってあたかも現実のごとく扱い、そのなかに住んでいる。つまり、われわれの知っている現実とは、疑似現実であり、作為された現実である。」
動物が持っているはずの本能が本来の現実からずれてしまった人類に、社会的現実を提供する役目をもってるのが共同幻想、複数の人間が共有する妄想です。
「家族であれ、部族であれ、国家であれ、あらゆる人間集団は、共同幻想、いいかえれば、そのメンバーの私的幻想を共同化したものに支えられている」と考えられています。
人間にとっての現実とは「そういうことになっている」ところのものであり、道徳とか礼儀とかは「そういうことになっている」ものを崩さないためにある。そしてわれわれは、それにやむを得ず従ってはいるものの、たとえば生徒はなぜ教師に従順でなければならないのか、一日はなぜ24時間なのか、なぜ薬局にはうな丼が売っていないのかということを心の底から納得することは永久にない。(同書まとめ)
「金銭の価値も人類の一部がもつ幻想の一つに過ぎない」というのも、金銭の価値は、同じ幻想を共有する人にしか通用しないからです。(その価値を所有しない未開人を金で働かせようと思っても無駄なように)
たとえ精神病者が妄想から現実に戻ったとしても、その現実すらしょせんは幻想に支えられた疑似現実に過ぎず、それが正しくて、病者の妄想は誤りであるとする確実な証拠は何もない。(同書まとめ)
『かってに改蔵』最終巻の「大蛇足」の、
「これをただの治療法や戯事と言ってしまうのは簡単だけど、彼等にとってはまぎれもない現実の一部。かく言う私たちも、それぞれの街、そして国家という共同の幻想の中で戯れているにすぎない。」
という部長の言葉は 決して苦しまぎれの補足ではありません。
岸田秀氏の論をふまえると、理論が通っています。そういえば岸田秀は和光大学の人文学部の教授でした。
久米田先生は芸術学部でしたが、接点はあったのかなと余計なこととはいえ考えてしまいます。北の将軍様が作り上げた共同幻想の崩壊はいつになるのか。
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【内容自体の感想】かたい話が続いたので、今度は内容自体の感想をまとめてみます。
最終回の率直な意見としては「最後くらい裸でからみあえ」なんですが、そこはとりあえずおいといて。
単行本のつくりが細かいです。
表紙とカバー下の違いが泣ける。
人物紹介もここに来て意味を持つのかと。
大蛇足での読者への補足も充実している。雑誌の連載時と比べて色々変更箇所があっておもしろい。
最終巻は特に多かった。●地丹の「不可抗力だよ!」のセリフに、サンデー掲載時にはなかった”(子孫繁栄)”という補足が入っていた。
●かわいそぶる話の「5週以内にアンケート3位に入らなきゃ打ち切り」という改蔵のセリフ、サンデー掲載時は「3週間以内に〜」だったけど、この変化にはどんな意味が。
●不可抗力の話では、改蔵の「この連載も鮮度が落ちてる」というセリフに対する部長のセリフ「今さらって気もするけど」が「もう少しの辛抱だから」に変わっている。切ない...
● 窪塚君の病室の張り紙の「飛翔」が、単行本で「不死身」に変わっていておもしろい。最後の方で校舎が病室を意識した作りになっているとか他にも変更箇所は多く、相変わらずの几帳面さに感心してしまう。
沼の話辺りからぞわぞわ来るものがあって、最終回には心揺さぶられた。
「作品は読み返さない」と話す久米田先生がキャラ総出演させてること自体、胸を打たれる。
ちなみに最終回直前のサンデーには、地丹のイラストと「取材なのに取材拒否」「この漫画、次号で永遠の休載です」という文が入った久米田先生のFAXが掲載されていました。
それがまさかサンデーへの絶縁状になるとは。
最終回が載ったサンデーの巻末コメントでは、安西信行先生が同時最終回の『美鳥の日々』にコメントしていました。
別に久米田先生に触れないようにしているわけではなく、藤田和日郎先生のアシスタント仲間ということもあって井上先生にコメントしたのでしょう。
ちなみに安西先生は『烈火の炎』終了時のコメントに、仕事場に駆けつけてくれた藤田師匠に「漫画っておもしれえだろ!?」と言われたことが幸せだったみたいなことを書いていたのですが、ヒマワリは送られなかったようです。
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【おわりに】思えば『かってに改蔵』が終わったとき、なんとも形容しがたい変な気持ちになりました。
たとえるなら、強迫神経症になってる可愛い彼女を「おいおい大丈夫かよ」と、気の毒に思いつつ若干おもしろがりながら見守ってるうちに、ある日その女の子が突然死んじゃったっていう、そんな心情なんです。
振り回された日々を回想しながら「あいつにはもっと楽しいことを教えてやりたかった」的な思いにふけるような。
...すいません、だいぶ妄想で語ってます。
『改蔵』は打ち切りだったからこそあの感動のラストがあったのかもしれませんが、打ち切られなくても良い最後はあったはずなので、打ち切られてよかったとはもちろん言わない。
戦記文学に傑作があっても「戦争があってよかった」とは言えないように。
初めてリアルタイムで最終回を見届けたからかもしれないけど、『かってに改蔵』の最終回は、どんな漫画のそれより心に残ってます。
賛否両論だったみたいですが、自分にとっては、「この作品に出会えてよかった」と感じるくらい素晴らしい最終回でした。
今まで作者の傀儡人形気味だった主人公達は、最終回で初めて人間性を獲得出来たんだと思います。愛すべきダメ人間達に幸あれ。
...
ちなみに、あの最終回を読んで一番最初に思い浮かんだのは、「さよならを教えて」(美少女ゲーム)のオチです。
久米田先生を見習ってキレイにまとめれば良いものを、相変わらず真面目に終われない性分で悲しい。