浮谷和栄さん

人知を越えたご計画のなかで

OUR MOTHER, KAZUE UKIYA

この文章はいのちのことば社「百万人の福音」1993.8月号に掲載されたものです。ホームページへの掲載を快諾くださったいのちのことば社さんに感謝いたします。ありがとうございました。


第1章 旧家の娘として

私は1912年(明治45)年に、4人きょうだいの長女として博多で生まれました。父はその頃流行し始めた活動写真(無声映画)の九州全域への配給会社を経営していました。何事にも先見性があり、教育にも熱心な人で、子供達をそれぞれ大学や専門学校へ進学させてくれました。 私は学校を卒業すると上京し、市川市の親戚に立ち寄った折り、近所の家に電話を拝借に行ったのが縁で、その家の人々と親しくなり、長男の浮谷こう次郎と、1935年に結婚しました。 浮谷家は市川市近郊一帯の地主で、車好きの夫は自動車会社に勤めていました。

1940年には長女・朝江が生まれました。私は体が弱かったため、二人目の妊娠は医師から差し止められていました。でもしゅうとは、ぜひ跡取り息子を生んで欲しいと切に願いますし、私たち夫婦も日々そのことを祈り求めていました。

「神さま、どうか皆を愛し皆に愛される、太陽のような男の子をお授けください」

祈りは聞かれ、1942年に待望の長男・東次郎が生まれました。 間もなく戦局が泥沼化していき、夫は中国に出征。大勢の使用人たちもみな軍務に服し、1400坪もの広壮な屋敷に、しゅうと夫婦と私と子供二人が残されました。空襲は激しくなり、茅葺き屋根に焼夷弾が落下し、何度も命の危険にさらされました。

私は幼い頃、近所のイギリス人宣教師の家に遊びに行っては、神のひとり子イエスさまのご生涯についてのお話を聞かされ、それが心に焼きついていました。空襲のただ中で、その頃のことが思い起こされ、神さまの下さる永遠のいのちをいただいて、死への備えをしなくてはと思ったのです。それで二人の子を連れて教会に行くようになりました。

先祖代々熱心な日蓮宗の信徒で、檀家総代をつとめる浮谷家の嫁が、キリスト教に改宗しようとしたのですからしゅうと達は驚きあわてました。そして、お寺と相談し、日曜ごとに東京から高僧を招き、私に法華経の特別講義を受けさせました。講義がわかりやすかったうえに、その高僧がロンドン大学出の清々しいジェントルマンだったので、私はすっかりのぼせてしまい入信したのでした。当時の私は神の存在こそ信じていたものの、イエスさまの救いがわかっていなかったのです。 やがて戦争が終わり、夫も復員し、父親の経営していた不動産会社を受け継ぎました。

東次郎は生まれた時は虚弱児でしたが、本人の熱意と努力でだんだんとたくましくなりました。熱血漢で好奇心が強く、私に似て小鳥や動物が大好きで目やにだらけの汚い捨て犬を拾ってきて育てたり、カラス、文鳥、もずなどを飼いならして喜んでいました。

中三の夏休みには、大阪まで50ccのバイクで往復し、 「がむしゃら1500キロ」という手記を自費出版(後に筑摩書房から発行)しました。この本に感動したアメリカ空軍軍人の奥様(日本人)は、東次郎にアメリカで教育の機会を与えようと、ニューヨーク近郊の自宅に招いてくださいました。しかし、まもなくその家をでてニューヨークでアパートを見つけ、3か月目にタイム・ライフ社に入社し、夜学に通い好成績で卒業しました。

その後、ロサンゼルスに移り、2年9ヵ月の滞在を終えて帰国、日本大学に入りました。しかし、親友たちがレーサーになっているのを見て、自著「がむしゃら1500キロ」に自分の売り込み状を添えてトヨタ自動車に送り、専属のカーレーサーになりました。

1965年5月、クラブマン・スズカレースで初の2種目に優勝し、続いて7月の第1回全日本自動車クラブ選手権船橋レースでも2種目に優勝。それは逆転優勝で、後世にのこる名勝負といわれております。


天からの火によって

忘れもしない同年8月21日。東次郎は鈴鹿サーキットで練習中、走行コースに人の姿を見つけて避けたところで、また別の人影を認め、必死に避け切ったものの、猛スピードのあおりで照明灯に激突し、翌日不帰の人となりました。

当時はまだカーレースの草創期でルールが確立していないため、走行中のコースに人が入ってくるなどという、あってはならない事態の中で起きた惨事でした。そのためずいぶん問題になり、マスコミで取り沙汰されました。 私は常々、自分を良い母親の部類だと自負していました。しかし東次郎に死なれてみると、あれこれと自分の欠けが思い出されて、償いようのない死者への罪悪感でいたたまれない思いでした。

それから10年後の75年12月、夫が肺炎をこじらせて、あっという間になくなってしまいました。”日本最後の亭主関白”などと言われるくらいのワンマンな夫でしたが、それだけに家長としての責任感が強く、頼りがいのある人でした。 そんな夫に先立たれ、さらに私自身の未熟さを思い知らされ、申し訳なさいっぱいで、日々心さいなまれる思いでおりました。もともと弱かった体は、そんな心の痛みのために衰弱して、床に伏しがちでした。 夫の死から3ヵ月後の76年3月。隣の銭湯の煙突から出た火の粉が、折からの強風にあおられ、明治時代に建ったわが家の1.5メートルもの厚みの茅葺き屋根に燃え移りました。 娘時代に、実家の家事で隣家が類焼してしまったことがあり、火災のおそろしさは知っていました。それで、燃えさかる炎を非難先の親戚の家から見ながら、無我夢中で八百万の神々に祈りました。「どうか、ご近所の家を焼きませんように。けが人をだしませんように、おまもりください。 覚えていた「主の祈り」も祈りに加えました。息子の死に追い討ちをかけるような夫の死、そこに火災が続いたのです。もう「神」に叫ぶ以外にありませんでした。 私のとなりでは娘の朝江も必死で祈っていました。彼女は東京芸術大学油絵科を卒業後、ニューヨーク留学中に洗礼を受けていました。 どれほどの時が過ぎたでしょうか。ふとわれに帰った時、どこからともなく、「静まりなさい。火事はあなたの祈ったとおり類焼もせず、けが人もでません。まもなく鎮火します」という声を聞きました。

それはまぎれもなく、以前から娘がはなしてくれていたイエスさまの御声であることがわかりました。そして、そのおことばどおり、やがて火は消えました。イエスさまが助けて下さったのです。それまで漠然としていた神さまの存在が、私の胸の中でイエスさまとピタリと一致し、その時を境に、祈りを聞いて下さる真の生ける神を畏れ、信じるものになりました。 聖書を読んで、息子や夫に対する私の罪の身代わりとなって、イエスさまは十字架にかかってくださったことがわかりました。その購いを信じるだけで、罪は赦されるというのです。どうして信ぜずにいられましょうか。 「信じます」と告白したとたん、心は罪責感から解放されて、喜びでいっぱいになりました。私の十年余にわたる苦しみは完全にぬぐい取られました。体まで見違えるほど元気になって、もうじっとしていられません。感謝のあまり、「神さまのためなら、すべてをささげます」と心の中で何度も叫びました。 「わたしを愛するものを、わたしは愛する」と神さまはいわれています。私は心の底から「愛します。ただただ愛します」とお答えし、ひたすらこのみことばに従って生活するようになりました。火事は、わが家も間たしの心の中の罪も一切焼き清め、私をあたらしく生まれ変わらせてくれました。まさに、神のご計画のうちにあった、天からの火としか言いようがありません。

OMFチャペル・オブ・アドレーション”写真は浮谷さんの建てられた教会、OMF The Chapel of Adoration”


一心不乱につき従って

あの火災の中でも、何から何まで神さまの配慮と助けがありました。たとえば、保険会社は一部焼け残ったわが家を全焼と見なし、家屋や家財に対して満額の保険金を支払ってくれました。 また、屋根の茅は水浸しになって落下し、東次郎の遺品だったレーシングカー2台をすっぽり覆っていました。そのおかげで、車はガソリンが満タンだったにもかかわらず引火せず、奇跡的に無傷で残りました。 火事の直後、国道14号線に沿って立てた仮板塀に、娘は聖書のみことばを書き連ねていきました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11.28) このような聖句に目をとめ、話しに来る人もいました。立ち止まって読む人も多く、これは非常に効果的な伝道方法でした。物乞いの人たちも次々食べ物やお金を求めて来るようになりました。私は少なくとも一日に一人は伝道したいと思っていましたので、その人たちに心を込めて伝道し、一人の受洗者が起こされ、主をあがめました。 焼け跡にはまず母屋を新築し、3年後の1979年には、東次郎のレーシングカー用のカーポートを建てました。さらに、その2階を礼拝堂とするように神さまは導いてくださいました。

娘は東次郎の亡くなる1カ月前、留学先から帰国し、2年ぶりに再会した東次郎に伝道しました。弟が救われないまま、万一事故で命を落としでもしたら大変だと思ったのでしょう。でも彼は、その時にははっきり信仰をもったようには思えませんでした。そして1ヵ月後の事故で、意識不明のまま亡くなったのでした。 没後まもなく、鈴鹿のレース場を、東次郎の遺影と遺骨を先頭に、その日レースに出場した全車を従えてパレードをさせていただいた時、娘は「わが家にいつか教会が建つ」というビジョンを与えられたそうです。そした、それは確かに実現しました。 礼拝堂の一階に陳列してあった2台の車はその後別棟に移し、1階は「トージズ・ルーム」と名付けて東次郎の記念品を飾っています。 私どもの教会には専任の牧師がおりません。しかしこの13年間、本田弘慈師、羽鳥明師、益田誉雄師をはじめ、すばらしい説教者が与えられ続けてきました。教会運営についても、何も知らないと私と娘のために、神さまは、助けてくださる先生方を思いがけず次々と遣わしてくださいました。 そのようなことを繰り返し経験していくうちに、この教会には確かに神さまのご臨在があるとの確信が深まっていきました。そして、ただただイエスさまのみを頼って、一心不乱につき従ってきました。1992年10月には、主の導きによってOMF(国際福音宣教会)にささげました。


献げ尽くす喜びを知って」

わが家の門の近くに、昔からある2メートルあまりの石灯籠には、えびすの偶像が彫り込んでありました。これでは神さまに申し訳ないので、出入りの石屋さんに削りとってくれるように頼みました。しかし石屋さんは、「私の祖父が彫ったものを、孫の私が削るわけにはいきません。キリスト教の言うことを聞くような石屋は、市川じゅう探してもいませんよ」とそっけない返事です。 先祖代々日蓮宗の家柄でありながら、嫁は突然キリスト教に改宗し、礼拝堂まで建てて伝道に熱中している。-石屋さんは言外にそう批判したかったのでしょうか。浮谷の先祖への律儀な石屋さんの精一杯の忠誠心の表われなのかもしれません。同時にそれは、浮谷一族や近所の人々の思いを代弁していると思われ、いっそうの覚悟を促されました。 私は、「どうか、神様ご自身があの石灯籠の偶像を削り取ってください」と祈りました。

それからほどなくして、疲れた顔つきで訪ねて来た人が、「おにぎりを下さい」と言うので食事を用意しました。そして食前の祈りに加えて「この方をお守りください」と祈りますと、その人も「アーメン」と言って胸元で十字を切りました。 聞けば、その人は未信者ですが、妻子はカトリック信者とのこと。腕のいい石屋で、出稼ぎに来たものの賃金を払ってもらえず、やむなく東京へ職探しに向かう途中だというのです。私はさっそく、例の石灯籠の文様を削り取ってもらうことにしました。

以前から私は、信仰の違いが一日でわかるようなデザインを祈り求めていました。その朝も祈っていると、磁石の形のU字形と十字架を組み合わせたデザインが心に浮かんできました。これは、磁石のように人々の心を引きつけるイエスさまを表わしています。そこで、石灯籠にはこのマークを彫ってもらうことにしました。 後日、出入りの石屋さんに事の一部始終を話し、石灯籠を見てもらいました。彼はそのすばらしい出来ばえに驚き、奥さんも感嘆して「キリスト教の神さまは、なんとすごいのでしょう」と電話をくださいました。 私は若い頃から、おしゃれのためなら骨身を惜しまず励んできました。何しろ、どこまでものめりこむ性分です。宝石類も大好きで、指輪も両手の指にはめきれないくらい持っていました。それでもまだ欲しがるので、「そんなに買って、足の指にでもはめるのか」と主人に冷やかされるほどでした。ところが信仰をもってからというもの、いつのまにかしゃれっ気がなくなり、宝石も主のご用のためなら、惜しまず献げることが私の喜びとなりました。今は、服も同じものを10年20年と大事に着ており、それで満足なのです。 そんな自分の変わりようを振り返るにつけ、神さまは確かに、人を造り変えることができるお方であると痛感させられます。

夫亡き後は、貸家の家賃で生活してきました。わが家は教会関係の方々や東次郎の知人やファンの来訪が多く、接待に思わぬ出費がかさみ、財布は常に青息吐息の状態です。そんな折、私はいつも神さまのみを見上げ、泣きながら祈り求めてきました。そしてそのたびに、神さまの助けをいただき、危機を乗り越えてきました。奇跡のようなことを数え切れないほど味わってきました。


第5章 「トージズ・クラブ」とともに

話は戻りますが、跡取り息子と夫をなくし、火事で家まで失った私と娘は、気の毒の標本のように思われたのでしょう。そんな私たちを励ましてあげようと、1976年、車の専門誌出版5社の編集長が発起人となって、全国の読者に呼びかけ、「トージズ・クラブ」が発足しました。

毎月8月の総会は、礼拝で始まり、賛美歌が歌われ、お祈りで閉会となります。その席で私がいつもイエスさまを証しするので、数年前の総会で、ある方から反発がでました。その時、私はこうお答えしました。 「私は皆さんがわが子のような気がしてならないのです。それで、もしまだ東次郎が生きていて、年1回しか会えないとしたら、私はきっとこんなことを話すだろう、と思うようなことをお話ししているのです。母親の会いから出た精一杯の助言のつもりなのですが、もしそれがお嫌でしたら、今すぐ別れて別の会を作ってくださって結構です。トージズ・クラブの名称も添えて差し上げます。私のこんな話でも聞いてくださる方だけ残ってください」 誰一人席を立つ人はありませんでした。それ以来、私はかえって自由に信仰について語ることができるようになりました。

トージズ・クラブ創立当時、学生だった方々も、結婚して子供連れで参加なさるようになりました。そのお子さんが礼拝の祈りをしてくださったり、皆さんが里帰りでもするように喜んで集まってくださり、毎年なごやかな会を重ねています。

会員250余名の中から、牧師になられた方3名、関西の支部長さん一家はそろってクリスチャンになり、自宅で礼拝を始めておられます。かって、「僕らは車とガールフレンドさえあれば、神も仏もいりませんよ」と豪語していた車崇拝、東次郎崇拝の人たちが、いつのまにか、もっと大きな神の愛に目覚めていったのです。神さまのなさることは、なんとすばらしいのでしょう。 トージズ・クラブの基礎固めが済むまでは、神さまは病弱な私を支え抜いてくださると信じています。

「浮谷東次郎展」は没後まもなくから、自動車ショーの会場や各地の百貨店などで開催されてきました。特に1985年には国際青年年を記念して、船橋の西武百貨店で大々的に開かれました。その会期中に、イタリアのアッシジ市長から東次郎に対し「サマリターノ賞」が授与されました。これは毎年、交通事故救出に寄与した人の中から一人だけ選ばれるもので、非ヨーロッパ圏から受賞したのは、東次郎が最初とのことです。

没後25年目の90年には、東次郎に関する各社の出版企画が相次ぎ、車の専門誌やテレビ、新聞等で何度も取り上げられたことで、新たなファンが誕生しました。東次郎の伝記が2冊、中高時代やアメリカ滞在中の手紙や日記が4冊出版され、ロングセラーになりました。 思ってもみない額の印税が入るようになって、「がむしゃら1500キロ」の印税はユニセフに献金させていただいています。

「トージズ・ルーム」には、原則として日曜礼拝に出席した方のみ、午後からご案内することにしています。28年経った今も、全国から熱烈なファンの方々が毎週見えています。私は家にいながらにして、来訪者にイエスさまをお伝えしてきました。 91年には、クリスチャン声楽家、今仲幸雄氏と、その弟子で元レーサーのクラウス氏のジョイントコンサートをチャペルで開催しました。その際、クラウス氏は思いがけず、心のこもったこんな証をしてくださいました。

「東次郎君は、走行コースに出て来た人を助けるために、自分の命を捨てました。あんな時、私なら人をひき殺しても自分を助けたでしょう。彼の死を通して多くの人が入信していることに、人知を越えた神のご計画を見る思いがします。 かって東次郎が生まれる前、私は、「皆を愛し皆に愛される、太陽のような男の子をお授けください」と祈りました。 その祈りはこういう形で聞かれたのでした。

歳月が経つに連れ、神様は私の心の中で、東次郎の死を感謝と喜びへと変えていってくださいました。神さまは東次郎を、生きていた頃以上にくっきりと力強く生かし続けてくださっています。そのことの中に、全能の神の力をはっきりと拝するのです。

教会には、私のように子供に先立たれた方がよくお見えになります。私はそういう方に、「神さまは、その人の一番よい時に天に召してくださるのだそうですよ」と申し上げます。 すると、たいていの方は納得なさり、ご自分のお子さんの死を、そのように神さまの目でとらえ直すことができ、「来てよかった」と喜んでくださいます。それが私の喜びであり、生きがいなのです。神さまは私の悲しみや悩みの体験を通じて、そのように人を励まし喜ばせる愛の賜物を与え、証しする機会を与えておられます。 私は医師から、「20年前になくなっていても不思議ではない」といわれるような、病弱な体です。そんな私が神さまを信じた時から、肉体は老いていくにしても、心はいつも感謝と感動と喜びに満たされ、日々新たにされているのです。その神さまの偉大さをますます身近に感じつつ、幸せを満喫しています。ハレルヤ。

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