「東条」の歴史
 「東条」(とうじょう)という地名は、当局を始め、小学校、公民館、農協、病院及び一部企業以外には使われなくなっている。「東条」にはどういいう歴史があるのか探ってみる。
1 古代
 現在の鴨川市の東北部に位置する東条地区(和泉・広場・東町・西町)には、300ヘクタールほどの水田地帯が広がっているが、東条という地名については、古代の律令時代に条里制が行われたところから付けられたとされている。
 東条地区和泉の
男金山麓で始まったと思われる縄文中期の生活は、弥生時代・古墳時代を経て、中世へと時代を継がれてきた。
春の男金山麓
男金神社
2 中世
 平安時代の末期、長狭郡が東西に分割再編されて成立した東条を、1184年、源頼朝が「朝家安穏」のため伊勢神宮に寄進し、東条御厨が成立した。これよりの1181年、頼朝は妻政子の安産祈願のため、三浦義村をもって東条もうけ社(現天津神明神社)に奉幣している。
天津神明神社
 このころ、東条氏の当主は七郎秋則といわれ、東条中台(現西町)に居館を構え、和泉に室戸城を築き、長狭氏の居城であった金山城(現打墨)を支城としていたという。
 1250年頃の東条氏は、秋則の孫の景信の時代であったが、
清澄寺や二間寺の改宗を強要するなど、日蓮と激しく対立した。
清澄寺
 1264年には、天津の工藤氏館に向かう日蓮一行を、東条の小松原で襲っている(小松原法難)。「11月11日、安房国東条の小松原と申す大路にて、午後5時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわずかに三、四人也。射る矢はふる雨のごとし、うつは稲妻のごとし。弟子一人は当座に討ち取られ、二人は大事のていにて候。自身も斬られ、討たる。」
 景信は日蓮の立宗以来、その活動のすべてに敵対し、迫害や圧迫を加えている。
しかし、日蓮は晩年、信者たちに与えた消息文の中で、安房国東条郷は「辺国ではあるが、天照大神が跡を垂れた所であるから日本の中心で、頼朝が大神の御すみかに定めた」とし、「大神はここで日本をさぐり出された。
 また、ここは日本国の一切衆生の慈父母である」さらに、「日本第一の東条御厨に生まれた自分は、第一の果報者」であると誕生の地を誇らしげに語っている。
 やがて、戦国時代を迎えると、里見・正木氏の台頭で東条氏は勢力を失った。
小松原鏡忍寺
3 近世
 下図は、1753年(宝暦3年)に描かれた、東条3カ村(広場村、東村、西村)と和泉村の絵図である。
 川の様子などうまく描かれている。
4  現代
戦後の地方自治制度及びそれに関連する諸制度の改革は、町村の行政や財政に大きな変革をもたらした。
 小規模の町村に6・3制の教育制度や社会福祉法の実施が義務付けられ、人口5000人以上の町村には、自治体警察の設置が加わり、町村財政を大きく圧迫した。
 昭和29年7月1日に、鴨川町、田原村、西条村、東条村が合併し、現在、「東条」という地名は消滅した。
一戦場より望む
資料提供「鴨川市史」平成8年1月発行