降りしきる雪の、その白さで全てを覆え。
あなたの望みも、俺の願いも。
誰の眼に触れないように。
もっともっと降り積もれ。
咎人の上にも雪は降り積もり。
逃げるなと、口で警告を発することもなく、無言で行動を制止する。
一のタイミングでつかんだ手首を、二のタイミングでひねり挙げ、三のタイミングで身体の後にひきつけて身動きを取れないようにする。
放せ、とも、なぜ、とも聞かない。
ただ物理的にくわえられた痛みに、一つ息を詰めて抵抗を諦めたようだ。
だめだ。もっと抵抗しろ。自分の命がかかっているというのに、そんなに早く諦めたらだめだ。
などと、自分が加害者なのに、被害者に対してそんなことを考える。
成人男性、体格差はそれほどないが訓練と経験の差が存在している。
自分より格段にレベルの違う捕獲者に無駄な体力を使うほうが無意味だと早々に見切りをつけたのかもしれない。
見切りをつけたとしても、自分の生命にすでに別れの挨拶をしているはずがない。虎視眈々と何らかのチャンスを狙っているのだろう。
眼が、おとなしくなった身体を裏切っている。
「持ち出したものを渡してください。」
「何のことだ?心当たりがない。」
身動きを完全に封じられながらも、気丈に答えるところには感心するが、自分の今の身の上についての思慮が足りないらしい。
背中でねじり挙げている腕をさらに上に持ち上げる。これをもう少し強く角度を変えれば、関節のパーツはすぐにはずれる。もっと乱暴に扱えば、たやすく骨が折れるのだ。そのどちらも選択せずに、ただ痛みを、自分の望む回答を吐き出してくれる程度に与える。
「さあ。」
「知らんといったら、知らん!!!」
痛みに耐えかねてかんしゃくを起こしたのか、大きな声をだす。
が、そんな大きな声をだしても近隣には民家もなく、ただ広がる荒野。
叫んでも誰も来ない。
俺と二人きりだ。
犯罪・陰謀・暗躍。
深夜の雪が降りしきる中行なわれるには、行なう側と受ける側の寒さへの耐久力を除けば最適だ。
全て雪が覆ってくれる。
仮に、この結末が血で終わるとしても。
胸の中には、任務を行なうための拳銃が控えている。
銃は持たないというこの国で、拳銃を所持していい職業は警察くらいということになっているが、他にも所持しているものは多くいる。
一般人は持ってはならないという規制はかかっているが、一般人でなかったら結構な人が所持しているのだ。
警察ではないが、一般人でもない。
その正体は、自分でも今はもうわからない。
身分証明書には、何かを正当化するための身分が仰々しく述べられているに違いないが、それは偽装だ。
本当の自分など、どこかのゴミ箱にとうに捨てられてしまった。
今は、首輪につながれた犬だ。
飼い主に言われるがままに芸をするくらいしか能がない。
生殺与奪が、自分自身のことなのに人の手に握られてからどのくらい経つか。
いわれるがままに、人をこの手にかけたり、謀略で陥れたり、様々なことをした。
自分のしたことなのに、現実味が全くないのは、人に言われるがままにロボットのように事を行なっていたからに違いない。
だから、この、今つかんでいる相手の首に手をかけて、ある程度の力を加え、横に捻じ曲げ、息を止め、その後に、その服の中のポケットやら何やらを探って望むものを得れば、俺が言われた仕事はいつも通り終了するのだ。
それは、俺にとっての束の間の延命。
今この手に握る命は、そのための代償だ。
さあ、俺のために死んでくれ。
そう思いつつも、仕事の手順の簡略化から、できる限り当の本人から奪われたものの回収を試みる。
脅しのための暴力だ。
胸から銃を取り出し、こめかみに当てる。
胸に入れておいたにもかかわらず、外気に触れるとすぐに冷める鉄の塊の冷気をそのまま相手の身体に染み込ませる。
今のところ打つ気はないが、相手がいうことを聞かない場合や、用件が済み次第その道具の働きに応じた使い方をする用意はある。
それは、相手の望むところではないだろうが。
この相手の経歴は、すでに調べ上げられている。
順調に人生を歩み、名のある大学を卒業、そのあと特に働くでもなく、ふらふらしているうちに、とある思想団体の口車に乗せられて、その思想を実現するという名の元に様々な工作活動の一端を担っていたのだ。
その彼らが奉じる理念を日常生活に反映させることなど絵に描いた餅だと、子供でもわかりそうなものなのに、最高学府を出た大人がまじめにアホに興じているようにしか、俺には見えない。
こうしたブルジョア崩れが、一般人の道をいくらはずれようと関係ないが、そうした猪突猛進な無謀さが、世の中の隠しておきたいことごとを白日の下に晒し出そうとするとなると、話は別だ。
そうした無謀を止めることが俺の仕事だ。
暗闇は暗闇のままで。
過去に何度か、こういう手合いの処分に携わったことがある。
みんな、あっけないほど、すぐに理念を捨てて、懇願してきた。
脳みそを鍛えてはいても、身体は鍛えていなかったらしい。
おそらく、この相手もこちらとしてはたいしたことをしていないが、それを過度に評価してすぐに音を上げてくるだろう。
銃の台尻で、傷ができて血が流れたりしない程度の力で殴りつける。
これでまだいうことを聞かないようなら、鼻を。その次は歯だ。この場合は、折れてもかまわない。
幸い、その段階まで行かないで済んだ。
しぶしぶと、ポケットの中から、奪ったものを出してくる。
その小さいチップが、多くの人の命を左右するものだと聞いてはいるが、俺にしてみればどうでもいいことだ。
これを回収できさえすれば、終わりだ。
手のひらを相手に向かって差し出し、載せるように促す。
すると、何を思ったのか、そのチップをこれ見よがしに人の顔の前に突き出したかと思うと、そのまま自分の口を大きく開けて飲み込んだのだ。
「これで、私の腹でもさばかないとでてこなくなったぞ。」
そうして笑ってくる顔に毒気を抜かれる。
自分が、ほんとうにばらされて、腹の中からチップを回収されるという事実を考えていない行動だ。
こうなると、このこめかみに当てている拳銃の引き金を引いて、その死体ごと回収しなければないらない。
そのまま捨て去っていきたかったのに。
この雪の最中ではおそらく60キロ以上はあると思われる身体を運ぶことは難儀なことだ。
そう考えるとどっと疲れた。
寒さが急に身に染み込んでくる。
ただ、もう暖かいところで、こんな無益なことをせずに横になり眠りにつきたい。
それが束の間のものか、永遠か、それくらいの違いだ。この仕事を終えるか終えないかは。
もう、どうでもいい。寒すぎる。
つかんでいた腕を放し、強く身体をむこうに押しやる。
「もう、いいです。どこにでも行ってください。」
急に突き放されて、そのままの勢いで雪にのめりこんだのを眼の端で確かめて、そのまま置き去りにしてもと来た道に向かう。
全てが御破算だ。
だが、もうどうでもいい。ほんとうに。
よくよく考えれば、生きているか死んでいるかわからないというのに、生に執着しているのもおかしいか。
追われて死ぬのは望みではないが。
手の中に依然ある銃を眺める。
これを今まで、他者に向かって使っていたが、それを自分に対して使っても、その用途としては間違っていない。
そう思い、自分のこめかみに銃をあてる。
何をしようと、生きるか、死ぬか、それ以外にない人生だった。
だったらこれ以上は誰かの言いなりにならず、そして誰も手にかけず、誰も悲しむことのない死体が一つできても、その死体を回収・処理しなければならない人が困るだけで、後は何事もなかったように日常の歯車が回り続けるに違いない。
その事実に対してどうこういう気はすでにない。
さみしくも、かなしくも、怒りも、自分の運命を呪うことも、ましてや罪を悔いて神様に祈りをささげる気も起きない。
ただ、なにもない。
さようなら
そう、受け取り手のない別れの言葉を胸のうちでつぶやきながら、そのまま引き金を引く。
乾いた、周りを振動させる銃声がシンと静まった辺りに広がる。
その音のせいか、木に積もった雪が重みに耐えかねて音を立てて、下に落ちる。
気がつくと、自分が雪の中に埋もれていることに気づく。
胴の辺りに何か黒いものがうずくまっている。
息が荒い。
獣に襲われたのだろうか?
すぐにそんな馬鹿な考えは取り消すことになる。
「馬鹿が・・・なに馬鹿なことしようとして。本当に馬鹿だ!!!」
そう怒鳴ってきながら、雪を人に意味もなくぶつけてくる。
先ほど、見逃した人物が戻ってきて邪魔をしただけだ。
自分の頭を撃ち抜く前に、身体に体当たりを食らわされて、そのまま雪の中倒れ臥し、弾はそれて空を撃ったらしい。
わずらわしい。
雪の上に横たわると、なおさら寒くなる。仰向けになっているため、雪が顔の上に降り積もってくる。埋もれる。
このまま眠ってしまおうか。
起きろ、眠ったら死ぬぞ、などと騒ぎながら人のことを叩いてくるうるさい虫を払おうと、足を蹴り上げて転ばせてしまい、そのまま放置して違う場所を見つけようと歩き出す。
「動くな。」
そういわれて振り返ると、先ほど転んだ反動で落ちてしまっていた銃を拾ってこちらに向けている。
その構えはおぼつかない。
なのに、瞳は強く、人を従わせようとする。
「撃たれたくなかったら、ちゃんと生きるって、言え。」
死しか呼ばない道具を手に、人のことを脅しながら、その逆のことを要求してくる。
「あんた、それじゃ脅しになってないですよ。」
「四の五の言うな。言え、きっちり言え、死ぬって言うな!!!」
形勢逆転しているのに、支離滅裂、そして逆切れ。
なぜ、全くの赤の他人のことなのに、そんなに激昂しているのか。
怒りか、寒さのせいか、興奮のため赤くなっている顔からは、今にも湯気が立ち上りそうだ。
その意味不明さが、いっそおかしい。
生きても、死んでも一緒と思う気持ちは依然先ほどと変わりがないが、
「じゃあ、もう死にません。」
そう口が応えていた。
自分に向いていた銃口は取り下げられて、相手の勝ち誇った顔がまぶしい。
この人は、いつも前を向いて生きてきたのだということを知る。
これからどうするのかと尋ねてみると、
「そうだな、雪でも見に行くか?」
などといってくる。
「今も降っているじゃないですか。」
「いや、こんなのじゃなくて、子供の頃一度見たことがあるんだ。雪の上に、椿が落ちては雪がその上に積もって、また椿が落ちて、雪が降って、薄くピンクに雪と椿が層になっているのを見ることができる場所があるんだ。もう一度、あれだけは見ておきたいんだ。」
そういった人の横顔は、夢を見ているように見える。
その顔を眺めているうちに、そういえば、もう自分がただ生きることを延長するためだけに生きていて、なにかの望みが全くなくなってしまっている事実に気づく。
今、この望みのない現実の中で、ただ雪と花を見たいという人の願いは他愛のないことのように思われる。
が、それが実現不可能なことは、相手も自分も知っているのだ。
追う者と追われる者。
互いが出会ってしまったという事実は、この場合死を意味するのだから。
「その場所、どこです?」
そう尋ねると、
「越後の来迎寺って知ってるか?そこに親戚がいてな、子供の頃正月に年始の挨拶で行ったときに見たんだ。かまくらとか作ったり色々したなあ。」
そういって昔の思い出を遠く眺めている目をしている。
そんな思い出も自分にはないことに気づく。
子供の頃、俺は何をしていたのか。
思い出せない・・・
物思いにふけっていると、これ以上ここにいると凍える、といって差し伸べてきた手につかまって、起き上がる。
体中に雪が降り積もり、まとわりついている。ほとんど雪だるまだ。
その雪を互いにはたいて払い落とす。
相手の手に銃が握られたままだったことに気づき、返してもらおうと促すと、
「もう、お前には必要ないものだ。」
といって、遠く暗闇の中の雪原の中に投げ込まれてしまった。
さようなら
また、心の中でつぶやくが、今度は受け取り手がいる。
銃に向かって。
差し伸べられた手は握ったまま。
ただ、互いにつないだ手と手が、世界をつなぐ。
その手を離さないように、指と指をしっかり絡める。
二人、手をつないだことで社会という世界からは切り離されてしまう。
ただ二人だけの世界を構築するのだ。
だから、この手を離してしまったときに世界が終わる。
再構築は叶わない。
この手のぬくもりだけが、俺の最初で最後の持ち物なのだ。
この人の望む景色を二人で見ることができるといいのだが。
降り積もる雪が、二人の足跡を消していく。
全ての思惑をかき消して、全てを雪が覆っていく。
おしまい。