どんなときも傍にいてくれるだけで心強い。
キミガミカタ
忙しい時期が決まっているわけではない。
ただ、仕事がたて続き来る時は重なっていて、ひとつやれば二つふえ、鼠算のように、やってもやっても終わらないようなときがある。
そんなときはなぜか頭の中に「ネバーエンディングストーリー」のテーマ曲が流れてきたりする。この曲が頭の中を回り始めると、自分の中が末期になっているのがよくわかる。(羽賀研二がカバーしたほうではなく、原曲のほうである。)
こうなると、頭が痛くなるサインなので、非常にわかりやすいが、かといってそんなときは休憩する時間がもちろんとれず、できることといったら、頭痛薬でも飲んで、薬を飲んだから大丈夫と自己暗示でもかけて、あとは仕事に没頭するのみである。(時折ドリンク剤を飲んだりするのは、もう若くなくなった証拠なのだろうか。)
そんなこんなで、うちに帰るのもいつもよりだいぶ遅くなっていて、いっそ会社に寝袋でも持ち込むか、どっかのカプセルホテルにでも泊まるかしたほうが、いっそ潔いのかもしれない。同じ職場の人でうちが遠いからと、うちに帰って、また翌朝早く出るというのもつらいと、割り切ってうちに帰らない人もいるが。→聞くところによるとあらゆる家庭争議を巻き起こしているらしい。
でも、俺にはそれは選択できない。
なぜなら、うちに帰りさえすれば、あの人がいるのだ。
なんで帰らないでいられようか。
そんなこんなで、どんなに残業しようとも、どんなに次の日がつらかろうとも、うちに帰る。
棚からぼた餅的に、ひょんなことから、一緒に暮らすことになったのだが、あの人はどうだかわからないが、俺は思いもかけないくらい幸せで、かなり頭が沸いている。
平日も土日も一緒だ。
1週間のうちのおおよその時間が仕事で埋め尽くされてしまっていても、それ以外の時間は、望んで、拒まれさえしなければ、あの人と一緒に過ごすことができるのだ。これを幸せといわずして、何をか幸せといわん。
一緒にいられるだけで幸せ、なんていまどき女子高生でもあまり言わないかもしれないというのに、本当に、なんか顔を見るだけでも、ご飯を一緒に食べたり、テレビを見ているだけでも、異様にときめいてしまったりして、本当に常軌を逸してしまっていると、自分でも思わないでもいられない。
これで、大方の時間が仕事で埋まっていなかったら、あの人相手に様々なことをして、人としての道をはずしてしまいそうだが、残念ながら、キスのひとつする時間さえもままならない・・・
はからずしも、品行方正な修行僧のように、清廉潔白な毎日を送っている。
まあ、えらくへたばって帰っても、あの人の顔を見ることが日常でできるだけで、望外の幸せと今は本当に思うのだ。
しかし、近頃は、本当にそんな俺でも家に帰るのを逡巡してしまうくらい、なんでか仕事が立て込んでいる。
仕事の展開に問題があるのか、顧客に問題があるのか、業者に問題があるのか、仕事の量自体が問題なのか、構造的に問題があるのか、もう様々なことが複合的に重なって、「殺人」という言葉が飛び交う。仕事に殺される・・・というか、俺の周りは過労死しそうな人たちで一杯だ。互い互いに、労災の時にはちゃんと有利なように証言すると誓い合いながら、馬車馬のように山を片していく。
賽の河原に積む石を鬼が崩していく・・・そんな妄想がぐるぐるする。
そんな妄想がでるときはまだ余裕があるときだ。
次第に無言。無心。最終的には条件反射のように仕事をこなしていく。もうどうやって自分が仕事を片したかどうかも、判然としない。ただただ、機械になったつもりで、しゃかりきにノルマを達成していくのだ。
うっかりすると、昼食抜きなど当たり前だ。みんな引き出しに非常食を用意している。コンビニに行く元気があるうちはいい。次第に、食欲自体が麻痺して、特に不都合を感じなくなる。ほとんど、近頃では1日2食だ。昼については俺はすでに若干諦め気味だ。この山が越えたら、あの人とどっかおいしい店に食べに行こう。焼肉にお鮨、パスタに中華。そういえば今年の夏は雨続きで、ビアホールに行きそびれた。なにがいいか、色々な店を頭の中に挙げてみる。そうやって時々現実逃避するのだ。
一日のうちの一食は確かに自分の都合でくいっぱぐれているのだが、うち2食はあの人のおかげで、ちゃんと摂取できている。
食生活というのは、他人同士が暮らし始めたときに、一番もめる原因になりやすい。
ご多聞に漏れず、俺達ももめた。というか、俺達は他のことでももめないことのほうが少ないが。
作る作らない騒ぎから、味覚問題、はては、皿の並べ方、片し方に至るまで、よくもまあ、こんなにつまらないことが引っかかるのか自分でも不思議だったが、本当に色々もめた。あの人から出て行け宣言されたのも、片手では足りない。その都度何とか歩み寄りやら和解を繰り返して今日に至る。最初は交互に食事当番が回ってきたが、次第に俺の仕事がだんだん遅くなっていき、食事を作るのはあの人のほうが多くなっていった。その過程で、ようやく俺も世間の人と同じように、忍耐と許容、そして感謝というものが身についてきた。まったく、作るのは1時間、食べるのは10分である。色々あの人ががんばって創意工夫している姿やらをみていると、あの人が刃物持っているときでもかまわずに、後ろから羽交い絞めにしたくなってしまう・・・
そんなこんなで、あの人が作ってくれる朝と晩の食事を俺はいつもありがたくいただいている。
しかも、どんなに遅くなっても、たいていは起きてきてくれるのだ。
不定期な時間に帰ってきているため、どんなにあの人の日常を崩してしまっているかわからないというのに、そんな風にしてもらえる喜びが深くて、ついつい、さきに寝てしまってくれ、といいつつも甘受してしまうのだ。贈答でまず遠慮してから受け取る、というあの形式によく似ている。欲しい物でも、真っ先に手を出すのは、礼儀にかなっていないのだ。
ということで、今日もいそいそと仕事を片付けつつ、さっさとうちに帰ろうとしたが、(←彼は知らない、周りから彼女ができたと噂されていることを。)不幸の電話がかかってきた。
帰る間際にかかってくる電話にはろくなことがない。
案の定、クレームだ。
けたたましく、電話のむこうでがなる声がする。主要な用件の要点を聞き出すことが支離滅裂でなかなかできない。
長引きそうだ、と一度もう落としてしまったパソコンの電源を話を聞きながら再度入れなおす。
先ほど薬を飲んで、忘れかけていた頭痛が、またよみがえってきた。
そうして、一通りのクレームの応急処置等の対応を終えたら、午前様にほぼ近い頃合になってしまった。
サラリーマンは、まだ24時間戦わないといけないのだろうか。
なんだか自分の体がやぶれてすりきれた布袋になって、その中に砂が詰められているような感じがする。
うっかりすると、耳やら口やら鼻やらいろんなところから砂が漏れているような。
体中が、だるい・痛いという信号を発しているのに、魂がずいぶん体から離れてしまっていて、やばい。
とにかくうちに一刻も早く帰ろうと、タクシーに乗り込む。
とにかく眠らないと、死にそうだ。というか、もうどこかは完全に死んでいる。
どこが死んでいるかは、うちに着いてからわかった。
日常に対する誠意が死に絶えているのだ。
挨拶もそこそこに自分の部屋に引っ込んでしまった。
きっと、いつものように食事を用意してまっていてくれたとわかっているのに、食事をとる気になれない。
一言、くたびれすぎてて調子が悪いといってから引っ込めばよかったのに、過剰に反応されて、なんだか知らないうちに揉め事になるのが避けたくて、無愛想に扉を閉めてしまった。
きっと怒っているか、不審に思っているに違いない。
やはり、俺のわがままでこんな時間まで待っててもらわずに、ちゃんと先に寝てもらうように、元気になったらちゃんと話をしよう。
今は、眠らないといけない。疲れが苛立ちを呼んでしまう前に。
横になると、体は眠りを欲しているというのに、頭の痛みのせいか、眼をつむっていても、眠りが訪れない。
胃に何も入っていない状態で薬を飲むのがよくないと知りつつも、薬を先ほど飲み込んだ。
はやく薬が効くか、眠りが訪れるかして欲しい。
が、訪れたのは、眠りではなくて坂本さんだった。
やはり心配させてしまったらしい。いや、苦情か?今日は外で一杯クレームだらけだったから、家庭内のクレームまで引き受けられるほどの度量はきっとない。このまま狸寝入りでもしようかと姑息なことを考えないでもないが、もう少し様子をみようとそっと動向を窺ってみる。
覗き込まれている気配がする。
手を伸ばせば捕まえられるくらいの距離まで、近づいてきているのがわかったので、手を引っ張ってみる。あの人には不意討ちだった様で、案の定俺の胸の中に転がり込んできた。
これで、元気はつらつだったら、そりゃもう、もちろん、包装紙を剥いてしまうところなのだが、弱りきった体には、自分がしたこととはいえ、えらいダメージだった。苦しい・・・失策だ。自爆に近い。
自業自得で苦しんでいるところで、坂本さんが我に返ったか、身を起こしてくれた。
急に動いたせいか、血流がどっと頭に回って、えらく右目と頭が痛む。痛みを抑えようと、目に手をあてていると、手をとられて、代わりに、坂本さんの手が両目を覆ってくる。
目の上に置かれた手のひらから、やさしい波動が伝わってくる。
どこかに飛んでいってしまって、戻れなくなっていた心がようやく元の体に収まる。
えらくささくれていた心が、そっとなでられて凪いでいく。
どんなにつらいことごとがあっても、そうして傍にいてくれるだけで心強い。
弱りついでに甘えて、もう少しこのままで、といってみたら、眠れるまでは傍にいてくれると約束してくれた。
その言葉に甘えて、ようやく眠ることができたのだ。
ほんとうに最終的にはいつも坂本さんは優しいな、と思いながら。
後日談: 翌日に、坂本さんが作ってくれたてんむす茶漬けを朝ごはんにたべているときに、昼ちゃんと食べているか聞かれた。
食べられるときは、といってお茶を濁したら、えらく怒られた。
それ以来、ときどき昼のお弁当を作ってくれるようになった。(社内では愛妻弁当と話題もちきりだったそうな。)
あの人曰く、
「私と暮らし始めてから、貴様が死体にでもなったら、高杉に何言われるかわからんからな!!!」
だそうな。
おしまい。