乗り継ぎの駅は、たくさんの降りる人と乗り込む人でごった返している。
あまり使わない駅だったので、千太郎の後について、電車から降りようとするが、何でか降りる人が先、という原則に従わずに乗り込んでくる輩がたくさんいる。
それに文句をつけようとする間にもみくちゃになって、下りようとした電車の中に押し戻されそうになる。
気がつくと、私がなんだかすごい状態になっているのに気づきもせんと、千太郎の頭が遠くに行こうとしているので、あわてて手を伸ばす。
人の波を掻き分けて、ぎゅっと千太郎の手をつかむ。
人の波を何とか乗り越える。
すべての人が帰るための電車に乗り込むか、次の電車に乗り換えるために直進していき、周りは、次の電車を待つ静かなホームになった。
ホームに、つかの間で二人きり。
千太郎が、手を握ったまま、こちらを見つめるので、急に自分のほうから手をつかんだことに気がついて、あっというまに顔が赤くなった。
千太郎の顔を見ていられずに、顔を横に向けると、やさしく手を引かれた。
そうして、千太郎は何もいわずに、また、手をつないだまま、乗り換えの電車に向かって歩き出した。
反対方向から、私たちが下りてきた電車のホームに向かって、様々な人がどっと駆けてくる。
それをうまくかわしながら、二人で手をつないで、今日はうちに帰ろう。
真夏の恋は。
電車を降りて、地下から外に出ると、外は雨だった。
今年の夏はずっと雨だ。
結局梅雨明けしないまま、中途半端に夏が通り過ぎていくようだ。
日中はどんより曇っていただけで、降りそうで降らない、なんとも煮え切らない様子だったが、ついに降り出したらしい。
傘をささないとと思い、鞄を探ろうとしたが、忘れていた。
いや、傘をもってくるのを忘れたわけではない。
乗り換えのホームで手をつないでから、ずっとそのままこの人の手を握っていたのだ。
かばんから傘を取り出すには手を離さないといけない。
傘を差さなければ、ずぶぬれになってしまうというのは明白だというのに、なんとなくこの手を離すことがためらわれるのだ。
ちらっと、横を見て顔をうかがってみる。雨脚の強さに見入っている。とても待っていても止みそうな気配はない。
「坂本さん、傘もっていますか?」
と聞いてみる。
「いや、持ってくるの忘れた。千太郎は?」
と聞きしなに、こちらに向けられた視線にえらくドキッとする。
距離が近い。
「俺も今日は忘れてしまって。」
と咄嗟にそんな返答をしてしまった。すると、
「じゃあ、そんなに遠くないし、濡れて帰るか。」
というので、とりあえず賛同してみる。
沸いてしまった俺の頭を冷やすにはちょうどいいかもしれない。
が、この人を濡らしてしまって風邪でもひかれたら困るな・・・
そんなことを考えているうちに、坂本さんは雨の中へと歩き出そうとしている。
手を引かれて、雨の中に踏み出すと、あっという間に濡れねずみになった。
少しでもはやく、うちに帰ろうと駆け足になっている。
手をつないで小走りに走りながら、雨に打たれるのが好きで、子供の頃しょっちゅう傘もささずに遊んでいて、随分親に怒られた、そんな話をこの人がする。
夏の雨は温かい。
雨に激しく打たれているうちに、次第にむやみやたらにおかしくなってきて、意味もなく大笑いしてしまう。
笑いが手をつないで伝染したのか、坂本さんも笑い出した。
そりゃそうだ。大の大人が夜に二人きり、手をつないで雨に打たれて走っている。
端からすれば異様な光景だ。
なのに、えらく愉快で、楽しい。
もうシャツから靴から靴下から、何から何まで水びたしなのに。
この人が雨のシャワーを浴びているようだと聞いた途端に 、急に無邪気に子供に戻ったように、楽しくなってきてしまったのだ。
そういわれれば、子供の頃は、水溜りの中を靴をぬらさないようにそおっと歩くのが楽しかったり、新しく買ってもらった傘が誇らしかったときがあったものだ。すっかり忘れていたことごとが、急に色彩鮮やかに浮かび上がってきた。
大人になったら、雨が降るなんて、ただうっとおしいだけだったのに。
急にめがねをかけているのが邪魔なことに気づいて、はずして胸のポケットに引っ掛けた。
めがねを掛けていると余計見えなくなっていけない。どうせ、この雨で、視界は遮られているのだ。
めがねをはずしたことで逆に視界がはっきりした。
もうすぐ、うちに着く。
うちと坂本さんのうちは、通りを挟んで向かうに位置している。
いつもは、ここで、それではまた、と約束にもならないようなことをいって別れる。
それではまた。
今日はなぜかそれを言い出しかねて、いつも別れるところまで来ても、別れを告げる言葉を言うことができない。
こんなときは、いつもはありがたいと思う駅からうちの近さがえらく恨めしい。
もっと遠くてもよかったのに。もっと二人で雨の中を歩いていたかったのに。
そうは思っても、雨に打たれれば、体温が奪われる。
寒い、と思った瞬間にくしゃみが出た。
自分のくしゃみで、終わりの時間を知ろうとは。
風邪をひいてもひかせてもまずいと、別れの言葉を述べて、手を離そうとすると、逆に手を強く握られた。
驚いて、つないでいる手を見つめると、まくしたてるように、
「傘と服くらいなら貸してやるぞ」
といってきた。
うちはもう目と鼻の先なのに?
わざわざ坂本さんのうちで傘を借りなくても、自分のうちがすぐそこだというのに?
そんなことをいおうものなら、きっともう当分口を聞いてもらえないに違いない。
ただもう、じゃあ、よろしくお願いします、と我ながらえらく嬉しそうに答えてしまった。
もうすっかり雨も気にならない。
もっと激しく降ったとしても、空から祝福されているようにしか感じられない。
もう、走らずに、ゆっくり雨の中を歩きながら、あまりの幸せのあまり、うっかり、服を脱がせるのが大変そうだと、つぶやいたら、この人の耳にも届いてしまったらしく、キッとにらみつけてきた。
夜目にも真っ赤になっているのがよくわかる。
そんな風ににらみつけてきても、ただ俺の胸をときめかせるだけだとは、きっと思いもよらないに違いない。
あまりのかわいさに、つい笑みが深くなってしまったら、急に顔をそらされた。怒らせてしまったかもしれない・・・
それでも、手をつないだまま、振りほどかれずに、無事に部屋の中に入れてもらえた。
ということは、今日はこの人からもOKが出ていると思っていいのかな。
いいか、悪いか、はっきり聞きたいところだけど、きっと聞いても答えてくれない上に怒られるだけに違いないので、今日は心と流れに従って、とりあえず、後ろ手でしっかり施錠しつつ、言葉にはしないけれど、確認の意味で深く口付けをしてみる。
玄関先で難だけれど。
おしまい。
後日談: 手を取り合って、雨の中を走っていたのを高杉・緒方ペアにしっかり目撃されていたそうな。