言葉なしで互いの了解が得られる場合は幸いだ。

では互いの了解も得られておらず、言葉がない場合はどうだろうか。

世の中は前者よりも後者のほうが多く、たいていのことは類推で動いていくものである。











暗黙の了解















「坂本さん、俺の眼鏡知りませんか?」

「いや、知らんが。」

ある休日の朝、桂氏は磯野家の主のように眼鏡の居所を探していました。波平氏ならば自分の頭の上に載っている場合も考えられましたが、あいにく桂氏の頭には載っておりませんでした。困ったなあ、とつぶやきつつ、最後に眼鏡をはずしたと思われる場所を何度か探してみましたが見つかりません。仕方なしに、

「じゃあ、坂本さん。替えのがうちにあるんで、俺、うちに帰ります。」

「え・・・」

坂本氏はそうつぶやいた言葉のあとに、言いかけた言葉を寸前で止めました。

ただ、

「下にでも落ちてるんじゃないか?もう一回探したらどうだ。」

という提案だけしてみました。

「いや、いろいろみてみたんですけど。何しろ、眼鏡ないからあんまりみえませんし。まいったな・・・」

「昨日最後にどこ置いたんだ。」

「記憶にありません。」

「記憶にないって、どっかの政治家みたいなこというな。」

「そういっても・・・うーん。」

そういいつつ、昨日の晩の行動を一つ一つ呼び起こしていきました。

食事+酒、そして風呂を借り、坂本氏の部屋に行ってそのまま朝になり、眼鏡がないことが発覚。

少なくとも風呂上り後に洗面台脇に置いてあった眼鏡を回収し、歯を磨いたところで眼鏡を掛けている自分の顔を目撃した記憶まではある。で、その足で坂本氏の部屋に行ったのだから、やはり眼鏡は坂本氏の部屋の中にあるのだろう。

近づいていったときに坂本氏がどうしても慣れないのか緊張と照れと恥ずかしさが同居したせいでひどく怒っているような顔になっていたのを鮮明に覚えている。裸眼では顔を30cm以内に近づけないとそんな顔はぼやけてしまい拝めないのだから、眼鏡は掛けていたのだろう。

逃げないでくれと思いつつ頬を両手で固定してしまい逃がさないようにし、そのまま口づけをしたときに、眼鏡が邪魔だな、と思ったのを憶えている。でもそこでははずさなかったのだ。あのタイミングで顔を固定している手を外してみろ。うっかりてれが嵩じた坂本氏が自分の自室にいるにもかかわらず走って逃げる可能性も否めない。流れ技で坂本氏が何かを考え付く前にある程度事を進めなければならないのだ。

そのまま首筋に顔を寄せて唇を滑らせたときにいつもならば耳やらその高い鼻にぶつかってしまい、そこでわずらわしくなって外してベッドサイドに置いてしまうのだが、昨日はどこにも引っかからずに先に進んでしまったらしい。どこかの時点で邪魔になって投げ出しているはずなのだが、眼鏡を投げたのと理性を投げ出したタイミングがあいにく逆転してしまったようだ。理性の手綱がはずれてしまった後の意識外の行動ならば記憶がないのも仕方がない。

多分、床にでも落ちているに違いないが見つからない。



「あっ!!!!!」

「どうしました?」

坂本氏の叫び声に声のするほうに桂氏は移動します。

いつの間にか昨日の晩のことを思い出しているうちに脳裏に再現し始めてしまった桂氏を尻目に、坂本氏は朝の炊事洗濯をまじめにとりおこなっていたようでした。

坂本氏は洗濯機の前で洗濯物を握りしめて立ち尽くしています。

その手に変形した眼鏡。形状記憶合金の眼鏡も洗濯機の回転数には敵わなかったようで無残に捻じ曲がってしまい、仮に眼鏡屋に持っていったとしても再生は不可能のように思われました。

「・・・・・・・・・。」

「・・・・すまん・・・」

坂本氏の手にある眼鏡とシーツを眺めると何か文句をいう言葉も出てきません。一度シーツを振るなりなんなりすればシーツに載っていたと思われる眼鏡も容易に発見されたでしょうが。坂本氏がよくよく中身を確かめずに洗濯機に放り込んだ理由も容易に推測がつくため、よもや、シーツを洗濯機に突っ込む前に今一度ためつすがめつしてくれ、などとは言えそうにありません。

なんともいえない沈黙が二人の間に流れます。



「やっぱり、俺うちに帰ります。その眼鏡じゃどうしようもないし。コンタクトも持ってきてないし。」

桂氏はそういって、見るも無残に変形した眼鏡を坂本氏の手から抜き取ります。

これ以上、シーツと眼鏡とお見合いしていても仕方がありません。

だいたい、と桂氏は考えます。

こんなに朝早く、いの一番に洗濯するものだろうか。

そんなにも早く昨日の痕跡をなくしてしまいたいのだろうか。

昨日あったことやそれ以前にあったこともなかったことにしたいのだろうか。

そういえば、昨日もこの人からなにか確証となるような言葉は発せられなかったし、それ以前にも特別な言葉を聞いたことはない。

これ以上なく、深いところまで何度も二人して潜っていったというのに肝心のところで相手が何を考えているのかはわからないのだ。

まあ、それも今に始まったことではないと桂氏はため息を一つつきます。



呆然と抜き取られていく眼鏡の行方を坂本氏が目で追っていると、桂氏はもう背を向けて扉の方へ向かっています。今にもそのまま玄関に直行しようとするその背中に向かって、手に握りしめていた湿っているシーツを投げつけます。

「帰るってなんだ。約束と違うぞ!!!」

不意に沸き起こった衝動をそのまま形にします。

ため息をつかれたのとそのまま何もいわずに背を向けて立ち去ろうとするのに猛烈に腹が立ちました。

めがねを壊したのは悪かった。

次回はちゃんと何かものが巻き込まれていないか確かめてから洗濯機に入れようと思う。

非常に悪いと反省しており、謝罪する気もあるというのに、その言葉を聞くことなく帰ろうとするとは何事だ。

だいたい・・・自分のしたいことをするだけしたら、そのままさようならなのか。

昨日、いやその前からもずっと繰り返しいい続けている言葉を忘れているとしか思えない。

都合のいいときだけ免罪符のように使ってるんじゃなかろうか・・・

坂本氏が疑いの眼を桂氏に向けます。

「え・・・なんか坂本さんと約束なんてしてましたっけ?」

頭からかぶっているシーツを手に移動。坂本氏に向き直り、全く思い出せないように首を傾げています。

その姿を見て、坂本氏の機嫌はマイナス方向に怒りのボルテージ急増。その握り締められたこぶしを容赦なく桂氏に叩き込みます。

みなさんご覧ください。今、まさに坂本邸ではダーリン名物のダーリン空を飛ぶの図がお約束通りに展開されています。もしマンションに天井がなければ、かなりの確立で大空高くに桂氏は飛び立ったことと思われます。きっと隅田川上空に咲く花火のように大輪の花を咲かせたでしょう。すばらしいパンチ力。いや、この場合は桂氏の飛翔力を褒めるべきでしょうか。(高杉氏が飛んだことってありましたっけ?)

全力でパンチしたため、肩で息をしながら坂本氏は、



「言った。よもや忘れたとは言わさんぞ。ずっと一緒にいるって言ったじゃないか!!!」



坂本氏は勢いに任せて最初に眼鏡の在り処を知らないか聞かれたときに出てくる寸でのところで止めた言葉をうっかり口にしてしまいます。そんなことを言おうものなら相手を調子付かせてしまうということはいつもなら坂本氏も重々承知しており、うかつに変なことを言わないように言論規制を自分にかせているのですが。あまりの怒りに規制を解除というより勝手に振り切ってしまいました。

いったあとにハッとして、見る見るうちに自分の顔が赤く、完熟トマトよりも赤くなっていくのを自覚します。また相手に勝ち札をむざむざと投げやってしまったと後悔しても遅く、せめて振り出された賽の目が自分にとってそれほど悪くないものであるようにと祈るほかはありません。

だいたい、と坂本氏は考えます。

分が悪いのだ。相手のほうが年下のくせして、何もかも知っているのだというようなしたり顔でこっちを見てくるのも気に食わなかった。始終突っかかってくるし、居心地は悪い。正直苦手といってもいい相手だろう。それが何でまたこんなことになってしまったのだろうか、などと考えるのだが正直自分でもさっぱりわからない。いろんな流れに流されて波に乗っていたら、しまいにはこういうことになっていたのだ。

自分の思い描いていた浜からはどんどん遠くなってはいましたが、その流れに乗っているのも悪くないと思い始めたのはいつのころだったか。それなのに、それなのに、それなのに!!!!!



興奮する坂本氏を眺めながら、なぜ俺は今眼鏡もコンタクトもしていないのだろうか、この裸眼の視力では怒っている坂本さんのむちゃくちゃかわいい顔など霧の中のように全然見えない、あーもったいない、などと桂氏は考えていました。

しかも今坂本氏が口にしたセリフはどうだ。桂氏の胸の中に住んでいる小鳥達が一斉に空を飛び立ち胸の中を埋め尽くしました。胸の中には幸せが吹き荒れます。



昨日どころかずっと前から桂氏は坂本氏に

「ずっと一緒にいたいです。」

といい続けていました。それに対する回答はなく、かといって何かを仕掛けても拒否されることもなく、ようは回答がないまま事実関係が進行するという状態でした。まあ、そのうち何かしらの回答が出るに違いないということで桂氏は既成事実・外堀埋め埋め大作戦で着実に地盤を固めてはいたのですが。回答がないということに不安がないわけではありませんでした。かといって、うかつに回答など求めてみたら、どんな回答が出るかわかったものじゃありません。怒りや照れや恥ずかしさであっという間に一杯一杯になってしまうような坂本氏を見ていたら無理強いしたら逆張りの回答がでてしまうやもしません。

「お前のことなんてなんとも思ってなーい!!!」

などといわれた日にはちょっと立ち直れそうにありません。

ところが今のセリフはどうでしょうか。

桂氏は「ずっと一緒にいたい」と言い続けていましたが、それは桂氏の願望の表明でしかありませんでした。

それに対して、坂本氏は「一緒にいるという約束をした」といっているのです。

何度繰り返しても「うん」というわけでもなく、うなづいてくれたこともなかったのですが。

回答をくれない人の回答はいつも思いがけず、桂氏は自分ばかりがこんなに幸せでいいのだろうかと思うのです。



「俺、なんて言ってましたか?」

「〜〜〜〜〜(怒)!!!!!!!」

そんな恥ずかしいこと自分の口から言えというのか。繰り返し唱えられた言葉の数々が脳裏によぎります。どれもこれも信じて受け入れたというのに、その場の流れの適当な口からでまかせだったというのか・・・

信じられん・・・

もう一度パンチを繰り出そうとすると、腰に手を回ってきて強い力で引き寄せられます。

桂氏はしっかり抱き寄せて暴れたりしないようにしながら、耳に顔を寄せて

「忘れてませんよ。」

と囁きます。

正面に顔を向け、こつんと額をあわせます。しっかりと眼を合わせながら、

「俺はあなたとした約束、忘れることなんてありませんよ。」

と、坂本氏が読み誤ることがないようにはっきりと目に力を入れて告げました。

すると、すいっと坂本氏は目を横に逸らして伏せてしまいます。

よくよく考えたら明るい場所で眼鏡なしの桂氏を見るのは初めてかもしれません。

眼鏡を掛けていない桂氏の顔をまじまじとそんな距離で見てしまったために異様に心拍数が上がってしまい、自分でもどうしていいかわかりません。

急にそんな決め顔を見せられると困る。その顔は節度ある距離のときによろしく頼む、などと意味不明なことを坂本氏は混乱した頭で考えます。だめだ。眼鏡がない千太郎は危険すぎる。いつもこんな顔で歩かれたら、いつもどきどきしてなきゃだめじゃないか・・・困る。それは困るし、それに人に見せて歩かれても困るのだ。もったいない。方々に見せて歩くなどもってのほかだ。

などと考える坂本氏の心情を知らない桂氏はそんな態度の坂本氏をみて、まだ怒りが収まらないのか、はたまたまた自分がオーバーフローしてしまったのが恥ずかしいのかなあ、などと思いつつその伏せられたまぶたに唇を落とします。

「じゃあ、今日は眼鏡買いに行くのに付き合ってくれますか?できたら坂本さんに選んでもらいたいんですが。」

とお願いをします。すると坂本氏はしぶしぶといった按配で目をようやく開いて、

「仕方ないな。ないと困りそうだからな。」

「ええ・・・なにしろ顔の一部ですから。男っぷりの上がるの選んでくださいよ。」

「お前なんか100円均一の鼻眼鏡で十分だと思うが・・・」

「鼻眼鏡・・・」

「まあ、それじゃ働けないだろうから、私が掛けるだけで素敵なナイスガイになれる眼鏡を探してやるとするか。」

といいつつも、眼鏡を掛けてあんまりにもかっこよくなられても困る・・・などと真剣に坂本氏は考えていましたが、坂本氏の中で危険度は眼鏡なし>眼鏡ありというような図式が成り立ったため、早く眼鏡買わないとまずいとばかりに二人仲良く眼鏡を買いに出かけました。



それ以来、なくされて壊れたら困ると、桂氏の眼鏡は坂本氏があらかじめ前もって律儀にはずすようになった模様。

坂本氏からのGOサインがすぐにわかると桂氏は喜んでいるそうな。



おしまい。