しむしむさんよりいただいた話

  『・26』  



「明日、非常呼集があると中隊の皆に伝えろ」
完全武装。何があるのかと問う下士官の話を止め、命令を待て、とだけ伝え、その部下の走り去る後姿を見送った。
息を整える。そう、いよいよ明日なのだ。雪が降る、夜の入口の空に自分の吐く息が登っていくのを見上げた。その時、
「坂本中尉」
誰かが私の名を読んだ。静かな声、だが、背筋がぞっとするような気がして、無意識に銃に手が伸びた。
「誰だ!」
街燈の下、ゆらりと出てきた長身の影に目を見張る。憲兵腕章。
「・・・桂、いつからそこに」
「坂本中尉」
話を途中で切られ眉が寄る。こういうことをする奴ではない筈なのに。
「坂本中尉、今から、私の下宿にいらして下さい」
「何を?何故私がそんな所に行かねばならんのだ?それに私は忙しい、今からも」
「坂本中尉」
名を呼ぶ強さと真逆の、その目の冷たさに身体のどこかで警告が鳴る。
「話があります。先程お話されていた事と繋がるかもしれない、…その事についてです」
一時の沈黙。
こいつはどこまで、いや、知っている訳も無い。だが。
「私達が連れ立って誰かに見られるのは避けたい。私はこのまま下宿へと戻りますので、中尉は裏道を通って裏口からいらして下さい。道は…わかりますね?」
約束の時間までにはまだ間がある。目の前の冷たい目を見返した。

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「話とは何だ」
逃げられるかとも思っていた為、その人が叩く引き戸のガラスが揺れる音に少しだけ驚いてしまった。
いま、目の前で背を伸ばして座るその目に感情は見えない。
「下手な駆け引きをするつもりは私にはありません。先程、あなたが部下と話していた明日の事です」
目が一瞬眇められた。だがそれは本当に一瞬のことで、
「何の話かわからんな」
「坂本中尉、あなたを含め一部の人間が、ある洋食店に頻繁に出入りしているのをこちらでも確認してるんですよ」
目の前に静かに座るその目が私を射抜くように見た。
「だからそれが何だと?」
返ってきた声は落ち着いているものだった。それに苛立ちを感じた。
「全部言わせたいですか?そこに集まっているのは、皇進派の人間だけだと」
沈黙がおりた。だが、互いに互いから目を逸らせる事はできなかった。
「・・・私は、私たちは、陛下の元に常に跪いている、私たちのこころは常に陛下と共にある。そういうことなだけだ。残念ながらお前にはわからんようだがな」
だん!と大きな音がした。だがそれが自分の足の踏みしめた音とは自分でも認知してなかった。ただ目の前の人を見ていた。と同時に、その人の腕を掴みあげていた。
「…桂、なにを、」
「アンタの口から出てくるのはいつでも陛下の事ばかりだ。次は誰です?栗原中尉?安藤大尉?」
何を言っているのか。だが頭の隅でちりちり燃えてるものがあり、何故か焦る気持ちに追われる気がした。
「貴様…ッ、陛下を何と!貴様もあの奸賊どもと同じか!離せ、汚わらしい手で触るな!」
至近距離で頭に血を上らせて怒るその人の顔を見つめていた。激怒。だけれども、
ものすごくきれいだと思った。

顎を掴みあげ顔を寄せると、目が見開かれた。その目を息のかかる距離から覗き込む。
「アンタ達が何と対立しようが正直俺には関係ありません。だけどもあなたがそれに係わるというのなら話は別だ」
「・・・かつら、きさ、ま、ッ」
歯の間から絞り出すような言葉と共に、掴んでいなかった方の拳が俺のこめかみに入り、飛ばされた眼鏡が畳の上を滑って行った。
目の前が赤く染まったが、同時に自分でも思いのよらない力がこもり、その人を引き倒し、その上に馬乗りになった。
「ぐ・・・、お前何をす、」
「行かせない」

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こいつが何を言いだし、何をしたいのか、最初のうちはわからなかった。だが、その手はしっかり意識を持って、私の着衣を乱していった。
両手が頭の上で一纏めに掴まれ、上着の袖で固く縛られる。
「かつら、お前・・・、やめろ離せ!桂!」
爪が頬をかすめても、膝が腹に入っても、そいつは手を止めようとしなかった。
いつも冷静な顔をしてまっすぐ静かに佇む、いつもの姿はそこには無かった。そこにあるのは、ただただ激情。こんなこいつの姿は…私は知らない。
背筋を冷たいものが這いあがり、どうにかして、と拳を握ったその時、強い力に背を抱え上げられ、耳が濡れた感触に包まれ肩をすくめた。意識が耳に集中する。避けようと身じろぎをする前に、そこに声が吹きこまれた。
「坂本中尉…、坂本さん・・・ す、…です」
信じられない。
だが、その一言だけで、握り上げていた両拳が力を失ってしまった。


ろうそくの光が揺れている。
意識を手放したその事も自分ではわからなかった。焦り、身を起こしたら足先から頭まで激痛が走った。だがそんな事にかまってはいられない。見まわすと時間はそんなに経っていないのか、まだ夜の深さを感じられた。
痛む身体の様子を窺いながら、起こさないようにと細心の注意を払いつつ温かい奴の隣から抜け出た。部屋のあまりの寒さに体が震える。投げ捨てられていた服に手を伸ばし、自分で自分の肩を抱いた。
私の身体はさらりと乾いていた。意識のない私の身体を拭ったのか。
かッと一瞬、頭に血が上ったが、畳に爪を立てそれを耐えた。一呼吸。
先程まで、私の事を好き勝手にしていた奴のことを見下ろす。行かせない、閉じ込めてしまいたい。奴の声が耳に戻り、右耳を掌で抑えた。
目を開けていると一見冷たくも見えるその顔がやつれて見えた。目の下に影がある。激務はこいつもだろうに、意識のある時はそんな影を一切見せない。今は、落ちたかのように目を閉じている。
昔は、兄弟のように遊んだ。ふたりでいつも笑っていた。せんたろう、そう呼ばなくなったのはいつからか、自分でももう覚えていない。
同じ道を歩んできた。だが、いつしかその互いの道は、こんなに遠く離れてしまった。
ふと、触れたい気持ちが湧き上がってきた。だが、触れたら起きてしまうだろうか。気がつかれたらまた止められる。
手早く自分のものをかき集め抱え込み、なんとか立ち上がる。早くこの場から去り、隊に合流しなければ。もう他の隊は動いている筈、時間が無い。
それでもどうしても。ぎこちなくなる身体を屈め、固い髪にそっとくちづけた。

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寒さで目が覚めると、外のぼんやりした明るさを感じた。
はッと自分の横に手を伸ばす。だが、ただ冷たい感触だけがそこにあった。いない。あの人が。舌打ち。自分だけのうのうと寝ていたとは。
布団を跳ねのけ駆け出そうとすると、障子の手前に白い手袋が落ちていた。拾い上げて戸を開け放つ。
「坂本中尉!」
次の瞬間、目の前はただ白かった。空から降りしきる雪。関東には有りえない程の大雪に目を見張る。
もう足跡すらも残っていない。雪、自分の息、そして手の中にある手袋、見るものすべてがただ白かった。
「坂本中尉……、坂本さん…」
手の中の手袋を握りしめ、唇を寄せた。もういくら呼んでも声は届かないのだとわかった。
手を、手を離さずにいたかった。でも、掴んだ自分の手を解いていったのはあの人だった。

その時、引き戸を強く叩く音がして、自分の名前を何度も呼ぶ声がした。
戸を開けると、そこには血相を変えた下士官が立っていた。陸軍が、大群で襲撃、首相官邸と警視庁とそれから。
「わかりました。すぐに私も行きます」

あの人の信じるその先を見届けに。

おしまい。