『心臓の上』

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帰って来た音がしたのに、一向に姿が見えない。
坂本氏がリビングから顔を出すと、玄関にへたり込む後ろ姿が見えた。
「どうした、千太郎?」
疲れた顔が振り返って言った。
「いえ…今朝からちょっと調子悪いな、と思ってたんですが…風邪をひいてしまったようです」
「なにッ」
「あ、大丈夫です、絶対にうつさないようにしますから。もう寝ますね」
「駄目だ!」
うつむいていた顔がびっくりした顔に変わってこちらを向いた。その顔に向かってずんずん迫る。
「駄目だ駄目だ駄目だ!こういう時こそ私を頼れ!思う存分、看病させろ!」
語尾と共に、びし!と指を立てて迫りきると、目の前にまで近づいた顔がのけぞった。
「おっと、大丈夫か?よし、まずは手洗いうがいだな!洗面所へゴーだ!」
千太郎の手から鞄とコートを奪い取ると、坂本氏はその開いた手を掴み、廊下をずんずん進んでいく。
ここは私が何とかしてやらねば。一緒に住んでいる意味が全く無いからな!ついでに私もうがい手洗いだ!
・・・勘弁してもらえませんか…
その声はあまりにも小さく、坂本氏の耳になど届く筈もなかった。

「風呂は入ったか?夕飯はどうする?何か改めてつくった方がいいか?食べれそうか?駄目なら私がなんとか」
「大丈夫です、食べれます」
「そうだ、夕飯の後にブランデー入りの紅茶をいれてやろう」
「あ、イエ、薬を飲みますからアルコールは」
「ぬあァああ!わかっている皆まで言うな!今自分でも口が滑ったと思ったからもう言うな!」
「・・・・はあ、そうですか…」

その後もひとりぶつぶつ言い続ける後ろ姿を見ながら、桂氏はそっと溜息をついた。
心配してくれているのがわかるだけに、なんとも言えない。嬉しいような困ったようなというシーソーのような気持ちでしばらくいたが、結局そのシーソーは困った方に落ち、具合の悪さも忘れて、思わず未だにうろうろし続ける坂本氏のその背中を羽交い締めにした。

「くおら千太郎!何をする!お前、実は元気で仮病とか?」
「ンな訳ないでしょう!でも、ほら大丈夫ですから坂本さん。一晩寝れば治りますから」
うごうごと、まだ動き続ける身体を自分の方へ向きなおさせると、赤い顔がそれでも心配そうに上目で見上げてきた。
「だいじょうぶなのか・・?私にできることは無いのか?今なら何でもするぞ?」
うーわー、これは反則だろう。風邪と違う意味のめまいに襲われ桂氏は天を仰いだ。なんだかこれだけで治りそうな気がする。たぶん、気がするだけだとわかっているが、力技でなんとかしてこのままなだれ込みたくなる。
いかんいかん、これじゃ風邪をうつすし。ウイルスに襲われた頭の片隅の理性を最大限に発揮させ、坂本氏の身体から手をほどいた。離れると少し寒気がした。

自分の体を抱え込むしぐさの桂氏を見て、坂本氏が、そうだ!と手を打った。
次は何ですか、という目の桂氏を無視したまま、しばし待て!と走り去った坂本氏がしばらくして戻ってくると、何かが握り込まれている手をそのまま差し出した。
「使い捨てカイロ、ですか?」
「そうだ、前にTVで見たんだが、風邪をひいた時、背中にカイロを貼るとよいそうなんだ。何かあった時に、と思って買っておいてよかった。だからお前が使え!私が貼る!」
まあ、そう言ってくれるなら、と桂氏は素直に背中を向けた。すると、その広い背中にカイロでは無い、暖かいものがそっと触れ、心臓がひと跳ねした。
「ちなみにだが、この背中の心臓の上にカイロを貼ると、心臓があったまるんだかなんだかで、血のめぐりがよくなるそうだぞ」
「へえ、そうなんですか」
答えているうちに温かい手が離れて、かわりにぺたり、と、まだ冷たいカイロが背中に貼られた。
「さ、いいぞ」
ぽん、ともう一度、心臓の上に掌が落ちた。

「それ、気持ちいいです」
するりと素直な気持ちが口から出た。身体を向きなおして、坂本氏の手を指さす。
「へ?何が?・・・てのひらが?」
ひとつうなずくと、坂本氏が桂氏の顔を自分の手を何度か見比べた。そうしてにやりと笑う。
「よーし、私のしてやれる事がまた増えたな!今日はお前が寝るまで背中を叩いてやろう!」
「う、わ、それはちょっと…」
恥ずかしいです。そんな事を言おうものなら絶対にこの人はやる。やり続ける。
「いーや、やるぞ私は!お前は黙って労わられろ!さあ寝るぞ!」
「ちょ、坂本さん、手、手を離してくださ」
「いーや私はやる!」
手をひかれながら、何とかこの場を打開できないものか、と桂氏は考えた。そんなの絶対労わられない。弱っているだけに、ついでに何かいろいろバレてしまうような気がする。バレるような何かってなんだ、俺。
そうだ、この人の心臓を跳ねさせることは?何か無いか、このままでは俺だけがあれやこれや何か。

でも、その前に、風邪を治さなければ。
くらくら、手をひかれながら、寝室のドアはすぐそこ。

おしまい。


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