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● 『せつなくて』 ---siokoさまよりいただきました!  ●

たまに、どうしようもないくらい、あの人が欲しくなる時がある。

だが会えない。

忙しいからではなく『会ってはいけない』のだ。


本当は今すぐ会いたい。声が聞きたい。触れたい。キスしたい。そして、その先も……


もう何度目か分からない溜息をつく。こんな気持ちのまま会うのは危険だと、頭のどこかで警報が鳴り続けていた。

それなのに、そういう時に限って、いつもなら喜び勇んでしまいそうな出来事が起こるのである。

握りしめていた携帯電話の、ついさっき受信したメールを開く。


『夕飯を作りすぎた。食わせてやるから家に来い。 坂本』


以前なら文句の1つも言いたくなるような文章だが、あの人への気持ちを自覚している今は別に、どうとも思わない。らしいな、と納得するくらいか。

大事なのは内容で、いつもだと、こんなお誘いを受けた日には心は踊り、顔は知らずにやけて定時を心待ちにしている事だろう。

が、それは普段の精神状態なら、の話である。

溜息をつきながら、がっくりとうなだれた。何で、よりによって今日なんだ。

いや待てよ。ああ、そういえば……と思い出す。

しばらく仕事が立て込んでいて会えない、落ち着くのは確か今日だと言っていたからかもしれない。

そうか。この人恋しさは、しばらく会っていない上、一段落ついたせいなのか。

もう勤務時間は終わっていて、社内に残っているのは残業中の、ほんの数人だ。

忙しくなければ、よほどの事がない限り定時に社を出て、あの人の元へ向かう。その時間が楽しみでもあった。

今は、そんな気になりづらくて、こうして用もないのに社に居続けている。

急ぎではないが、仕事もないわけじゃない。このまま残業しようか。

これなら会えない理由が出来る上に、何をしでかすか分からないという危険も回避される。

そうしよう。せっかくの誘いを断るのは、もったいないが仕方のない事だ。

件名を『すみません』とし、あの人の家に行けない理由をメール画面に入力した。後は送信ボタンを押すだけでいい。

何て返事がくるだろう。『せっかく、この私が誘ってやったのに!』と怒るだろうか。

それか返信なんてこないかもしれない。元々、互いに携帯のメールは得意ではないのだ。

ふたりとも、ちまちまとしたボタンを相手に何て入力しようか悩むより、直接、口で言う方が性に合っていた。

それに、その方が言いたい事が間違いなく伝わると、そう思ってもいる。あの人も、きっとそうに違いない。

仕事で行けませんと理由をつけたから、まさか電話をかけてくるはずはないと思うが、どうだろうか。

今は電話で話す気力もない。第一、声を聞いてしまったら会いたさは何倍にも募る事だろう。

だから、このメールを送って今日は、しなくてもいい残業でもしていれば、明日にはきっと浮上する……はずだ。

よし、と心の中で気合を入れてみたが効果はない。

いつの間にか携帯電話を持つ手に汗をかいている。後1つボタンを押すだけなのに指が思うように動かない。

節電のため黒くなり続ける画面を、もう何度たたき起こした事だろう。

しばらく逡巡して、ようやくしたのは……さっき打ったメールの削除だった。

そして新たに『今から行きます』と入力し送信する。

あんなにためらった断りのメールは何だったのかと思うくらい、今度はスムーズに送信ボタンを押す事が出来た。……現金なものだ。

それでも送ってから、これで良かったのだろうかと自問自答してしまう。


『会ってはいけない』と自覚しているのに、わざわざ会いに行く必要はないだろう?


会いたくて堪らない人が『来い』と言っている。本気で断れるはずがない!


また溜息が出た。人間とは、つくづく矛盾だらけの生き物だと思う。そして意志薄弱、とも。

以前の俺は、少なくともそこまで意志が弱くはなかったはずなのに。

いや、これはきっと、あの人が絡んでいるからこそだろう。

とにかくもう、サイは投げられた。後は何の目が出るかだ。

ただ、最悪の目だけは出さないように気をつけなければならない。

机の上を適当に片付け───やりかけの仕事の場合きちんと仕舞うより、この方が明日スムーズに準備に取り掛かれるからだ。気が急いているのもあるが

───残業中の方々にあいさつをして、ようやく会社を出た。

はやる心を抑えきれず、知らない間に駆け出していて気づいたら、あの人の住む部屋の前まで来ていた。

走って来たために乱れた呼吸もそのままにインターフォンを押す。

今日、この時間の来客は俺しかいないと分かっているからなのか、何の疑いもなくドアが開けられる。

嬉しいが物騒だからやめてほしい。後で、きちんと伝えよう。

今は何か言おうにも、疾走して来た時とは違う呼吸の乱れから、胸がいっぱいで言葉が出ない。


会いたかった。声が聞きたかった。


「お前……ここまで走って来たのか!?」

あの人は俺の息が荒いのに、ひどく驚いた顔をした。

それに対して、ええ。とだけ答える。

あなたに一刻も早く会いたかったから、という言葉を飲み込んで。


触れたい。キスしたい。


今日は会うのを避けた方がいいと思っていた人に、そんな事をしたら、きっと最後まで───それも無理やり───してしまうだろう。

それは今まで地道に積み重ねてきたものを容易に、しかも容赦なく壊す事を意味する。

大切に想っている相手だからこそ、あえて触れる事はすまいと靴を脱ぐ間に決心し部屋へ入った。

あの人に促されてテーブルを見ると、並べられた料理は素晴らしかった。誇らしげに自慢するのも頷ける。

だが、この量は作り過ぎたと言うより最初から、ふたり分の食事に見えるのは気のせいだろうか。

もしかして俺と食べるために、わざと……という考えを急いで打ち消す。

そんな事あるわけがない。

洗面所を借りて手を洗う。ふと備えつけの鏡を見ると、何とも冴えない表情をしていた。

せっかく招待してもらったのに、こんな顔では失礼だ、とばかり笑顔を作る努力をするが今は出来そうにない。

営業スマイルなら嫌でも身についてしまったので、これでやり過ごすとするか。……これも十分、失礼なのだが。

食事、他愛もない会話の数々。楽しくないわけではないが、心から笑えない。ぎこちない笑顔を作るたびに胸の奥が痛んでいく。

同じ空間に居られるのは嬉しかった。ただ、いつもなら、それで満足なのに今は物足りなく思えてしまう。

もう限界だな……と感じる。明日も仕事だし早目に家に帰ろうか。

ご馳走のお礼を言い、そろそろおいとまします、と告げて立ち上がった。

あ、先ほどのインターフォンの件を、すっかり忘れるところだったな。そうそう、と切り出してみる。

俺が来ると分かっていても、きちんと来客の確認はして下さい。危ないですからと伝えた。

心配する……とは言えない。

あの人は虚をつかれたような顔で「あ、ああ分かった…」と言った。

もしかして、あれは無意識だったのか?

そんなに俺を待っていてくれたのか?

まさか。いや、でも……

抑えきれない想いが溢れ始める。

駄目だ。堪えなければ。

このまま、すんなり帰れば何事も起こさずに、起こらずに済む。


なのに。


頭の中の警報が鳴り止まないまま、気づいたら、あの人を両腕ごと抱きしめていた。

これ以上はしないから、このくらいは許してほしいと誰にともなく言い訳をする。


会えた。声が聞けた。そして、ようやく触れられた。

キスは……無理だ。自爆するようなものだ。


いきなり、こんな事をされて、さぞかしびっくりしているだろう、あの人は振り解くでもなく、なすがままにされていた。

「千太郎」

不意に名を呼ばれる。さすがに文句の1つも言われるかと覚悟して、はい、何でしょうと、どきどきしながら答えた。

「来た時から様子が変だが……何かあったのか?」

突然そう聞かれたから驚いたのは俺の方だ。ここに着いた時から既に気づかれていたとは。

そんなに俺は分かりやすいのだろうか。それとも……些細な変化に気づくほど、ふたりの間が縮まっているという事だろうか。

出来れば後者であってほしいが、楽観は出来ない。

期待しすぎると、それを裏切られた時のショックが大きいのは知っている。

迷った末、ええ。会社でちょっと……と嘘をついた。


本当の事───あなたを抱きたい───など到底、言えるはずもない。


「そうか。私には、その辺はよく分からんが……何とゆーか、お前がしおらしいと、どーーも気色悪い」

そうですね、と答える。確かに以前ほど揉めなくなったものの、顔を見れば必ず何かしらの言い合いになるのが、俺達のお約束のようなものだからだ。

あの人は静かに諭すように続ける。

「まあ何だ……勤めてると色々あると思うが、いちいち気にしてたら身が持たないというか……いや、無職の私がエラそうに言える立場でないのは、じゅーーぶん分かってるが……と、とにかく元気出せ、な?」

はい……と言っただけで胸が詰まった。嘘を信じ、自分なりに俺を励まそうとしてくれる気持ちが嬉しくて堪らない。

決して器用ではない物言いなのに、じんわりと心に染み込んでいく。

どうしたらいいのか。そんな優しい言葉をかけられたら帰りたくなくなってしまう。ただでさえ、この腕を解きたくないというのに。


このまま、あなたと1つになりたい。

一度だけでいいから───。


「……お、おい、痛いぞ……いい加減、離せっ」

抱きしめる手に、いつの間にか力がこもったのか抗議の声が上がる。

儚い夢は、ここまでだ。いい加減、現実に戻らなければ。

もし本当に一度だけで終わったら、様々な後悔の念に苛まれるのは目に見えている。と自嘲するような薄ら笑いが浮かんだ。

ゆっくり離れ、すみませんでしたと謝罪をし、暗い気持ちを抱えたまま靴を履く。

「まーだ、しゅんとしやがって。次、来る時は、そんな辛気臭いツラは会社に置いて来い。分かったな!」

一瞬、呆気に取られて、あの人を見つめた。

何だかおかしくて、くすっと笑いが出る。俺は、ようやく本物の笑顔を作る事が出来たようだ。

あの人も何だかほっとしたように微笑んで「嫌な事は忘れて、ゆっくり休め」と言った。

軽く頷き、おやすみなさいと小声で言って自分の家へと歩き出す。背後でドアの閉まる小さな音がした。

抱きしめただけで済んだ事に、ほっとして長い長い息を吐く。

だから『次』があるのだと、軽はずみな行動に出なくて良かったと心の底から安堵した。

ただ、先ほどまであった、この両腕の中の温もりや感触がいつまでも残っていて。


自宅に着いて衝動に身を任せた俺は、その晩、幻のあの人を抱いた───。


いつか想いが通じて本物のあの人に深く触れる事が出来たら、どんなにいいだろう、と切ない溜息が出た。

だが、また会った時は、今度こそ心の底から笑いたい。


今は未定でも次という約束がある。それだけで、また通常に戻れるのだと思わずにいられない夜だった。


END


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またまたどうも〜!
siokoさんよりいただきました第三弾です。
こちらは絵板の方で非常に辛気臭い顔した桂氏の絵を誤upしていたのをご覧になったsiokoさんがお話浮かんだ!と送ってくれたものですよ。
ありがたや・・・!
時系列は恋人以前とのことで、ど真っ暗な内容といわれていましたが、じりじりするせつな系センサカですね・・・!大好物です(>_<)!
このモダモダと距離が近づきそうで近づかない感じがたまりませんぜ・・・
素敵センサカありがとうございましたよ〜(*´-`*)ノ
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