君に願いを。

 

 

 

地下鉄の駅の構内には七夕の時期になると、笹が置かれ、自由に短冊に願いを書けるようになっている。

そこには地下鉄を利用する人の様々な願いが書かれている。

無病息災・家内安全・受験の合格祈願・宝くじの当選などなど。

一つずつ見ていると、人の願いは数多くあれど、こうして願う気持ちを言葉に託すとなると、通り一遍の言葉に集約されやすいことがよくわかる。

短冊を前にすると、色々あった願いの中で、短冊の中に書くほどの願いかと自問自答するのか、あまり小さなことや日常のことを願いにくくなるのかもしれない。

そうなると、平穏無事に日々を送れることが、やはり一番の宝だと思うのか、家族の健康など全般的な願いや、宝くじが当たってほしいというものになるのかもしれない。

 

でも、よくよく考えてみると、七夕の短冊の願いをかなえてくれると思われる主は、牽牛と織女だ。

あの、仕事をサボってラブラブしていて1年に一度しか会えなくなってしまったというカップルに無病息災やら何やらを願ったとしても、とてもそういう叶えてくれるとは思えないのだが。そういう、現世利益についてはやはりしかるべき神社仏閣に願いに行ったほうが通りがいいような気がする。役所のように、部署が違うと願い事がたらい回しにされないかどうか、それだけが心配だ。

 

だから、七夕に願いをかけるのならば、願い事はその線でいかないといけない。

その線がどの線か、そんなものは明々白々だ。

けれど、短冊に飾るとなると不特定多数の眼に触れることになるので、あまり恥ずかしいことは書けない。

しかも、牽牛と織女に願いをかけても、何しろ七夕の当日はラブラブしてるだろうし、それ以外は会えないということで相手のことを考えていて、人の願いをかなえてやろうという気にもならないかもしれない。

ただ、七夕の近づく前くらいの日には、相手に会える日が近いという喜びもあって、他者の切なく淡い願いにも何らかの恩恵をもたらしてくれるかもしれない。

 

そんな都合のいいことを考えながら、笹に願いをつづった短冊を飾る。

まあ、うまく七夕の願いが叶えば御の字だ。

その願いが叶うかどうかは、きっと宝くじの当選確率よりも低いに違いない。

結局は願い事を叶えるのは自分の意志と力だ。

神様に願っているだけでは、自分の望む通りの結末を得られるかどうかはわからない。

つうか、神様頼みにしていたらいつ回答が出るかわからないしな。

 

という訳で、まあ、七夕の短冊には願掛けしつつも、現実的に対応することを忘れてはいけない。

短冊に書かれた願いを見てみたいという思いは、誰にでもあるものだ。

その心理をうまく利用してみない手はない。

だから、短冊には神様にお願いしている風を装いつつも、あの人にわかるようにラブレターを短冊にしたためるのだ。

きっと、願い事はその方がはやく叶う。

どこにいるかわからない神様よりも、あの人に直接願いを。

叶えてもらえるといいのだけれど。

そう願いつつ、短冊に願い事をしたためるのだ。

 

 

おしまい。