みちのく放浪記
オヤジ達の渓遊び
TOP オヤジ達の正体 釣行記 楽しい記憶 自慢の道具 LINKS 掲示板 渓流再生計画

 念願の白神山地に足跡を残そうと日光を18日朝出発した。
台風15号は朝鮮半島の方に去りかけたと思っていたら日本海に沿って北に向かって迷走を始めたらしい。
東北道を北に向けて走るカーラジオの気象情報も我々にとって芳しいものではなかった。ただ、この時点では台風が反れてくれる可能性は、まだあったのだ。

18日は入渓点の近くで夜を明かせばいいだけである。時間的な余裕はある。
車が岩手県に差掛かったとき、急遽「中尊寺」というテーマが頭を擡げた。

細谷はここを訪れたことがあるのだが、私と坂下は初めてである。
伊沢元彦氏の著書「義経はここにいる」を読んでから、いつかは見てみたい所だったので私は大乗り気である。

8月18日〜8月22日
細谷・坂下・小平 (ゲスト)Yonpapaさん

杉木立が鬱蒼とした月見坂と称する参道で中尊寺は始まる。
小雨混じりの天気だがこの雰囲気には雨もよく似合う。小雪が舞い落ちるなんてのも良さそうだ。

「東の物見」からの眺め。右奥に見えるのは北上川

中尊寺は天台宗の東北大本山です。寺伝によると、嘉祥3年(850)に天台の高僧・慈覚大師円仁によって開かれました。12世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清衡公が、前九年・後三年の合戦という東北地方で長く続いた戦乱で亡くなった人の霊を慰め、仏国土を建設したいという趣旨のもと、多宝塔や二階大堂など「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」を造営しました。惜しくも14世紀に野火のため多くの堂塔は焼失しましたが、今なお、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝える、東日本随一の平安美術の宝庫です。  ・・・・・・  中尊寺HPより

みちのく放浪記

中尊寺本堂

弁慶です!

坂を登るにつれ、八幡堂・弁慶堂・西行歌碑・東の物見などが道の両脇に現れるが一つ一つゆっくり見て歩く余裕は無い。
どこまでが月見坂なのかは知らないが右手に中尊寺本堂がある。まず、ここでお参りをして次は金色堂である。
金色堂を見る前に讃衡蔵(さんこうぞう)という中尊寺に伝わる宝物を展示してある建物の内部を見て回る。ここも素晴らしい宝物が収められているようだが、じっくり見るというわけにはいかなかった。

さて、次はいよいよ「金色堂」である。
                      五月雨の降りのこしてや光堂  芭蕉

金色堂は「覆堂(おおいどう)」と呼ばれる「カバー」に収められているのだが、この覆堂は「さやどう」とも言う。

「金色堂は、藤原四代によって栄華の象徴として営まれた後、頼朝によって鎮魂の霊廟として完成された・・・・それが広山学説の要諦ね」
      ・・・・中略・・・・・・
「ぼく自身も、人のことは言えないが、散々悪口を言った『近代合理主義的史観』というやつに惑わされていたみたいだね」
「それはどういう?」
「簡単だよ。通説では覆堂は何のために作られたと言っていた?」
「金色堂を風雨から守るため、つまり建物の保護のためでしょう」
「なぜ保護しなくちゃいけないんだ?」
「それは大切なものだから・・・・・」
「文化財保護かい?そんな近代的な考え方が中世にあったと言うのかい」
「・・・・・・・」
「それがすべての錯覚の源だったんだ。つまり広山さんのいうところの”人間の視点を無視した物本位の見方”さ。中世には信仰はあるが、文化財保護という考え方はない。たとえばある軍勢が敵の都を滅ぼしたとする。敵の宮殿や施設がどんな芸術品であっても、破壊してしまう、それが古今東西ふつうのやり方だ」

・・・・・中略・・・・・・

「つまり、怨霊封じのための工事が、たまたま金色堂を風雪から守るという結果を生んだ」
「そうそう、もっとも学者たちが錯覚するのも無理ないよ。この錯覚は三百年も前からの由緒あるものだからな」
「・・・・・・?」
「最初に錯覚した人がそれを書き残した。その人が偉大だったので、あとの人間は皆それに引きずられてしまったんだろうね」
「誰ですか、その偉大な人物とは」
「松尾芭蕉さ」
「芭蕉」
「そう、彼の書き残した『奥の細道』の記述を思い出してごらん。彼は金色堂と覆堂について、『金の柱霜雪に朽ちて、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり』と、書いているじゃないか。彼の見方は既に近代人の視点だよ。覆堂を風雨を凌ぐための施設と見ている」
「そうか。それ以後みんな芭蕉の見方に右へ習えしたわけですね」
「これから言うことは、ぼく個人の推理であって物的証拠はないんだが、おそらく当初金色堂には覆いはあったと思うんだ」
「鞘ではなく?」
「そう、全体をすっぽり覆う鞘ではなく、金色堂の屋根を保護する覆いだ。なぜかというと、金色堂全体で一番痛みやすいのは屋根だ。直接雨があたるし、このあたりはよく雪も降る。しかし、金箔を貼った屋根の雪おろしなんて大変だろう。ただでさえ傷付きやすいのに」
「ええ」
「しかし、すっぽり覆ってしまったんじゃあ、意味がない。黄金の輝きというのは見せびらかすものだ。そうすると、金色堂の屋根の上にだけ、ちょうどカーポートのひさしのような、あるいは自転車置場の屋根のような覆いがあったと考えても、別におかしくない。ガレージのように四方八方囲ってしまたんじゃあだめだ。あくまで金色堂の姿は外からみえなくちゃいけない。これは、言うまでもないことだが、『文化財保護』という考え方とは違うよ。自分の宝物を大事にしようということだから」
「わかります」
「その屋根の上の屋根は何と呼ばれただろう。それは正しい意味での覆いだから、覆い何とかと呼ばれたんじゃないのかな。あるいは覆堂と言われたかもしれない。もちろん、カーポートが『車庫』と言われても、『ガレージ』と違って四方に壁がないように、堂という言葉を使っても実際は柱と屋根だけの簡易施設だったということも有り得る。ところが、だ」
と、南条は身を乗り出して、
「藤原一族が滅亡したことによって、金色堂は記念碑から慰霊碑へとその意味を変えた。となると、それに付随する施設も本体に伴って意味が変わる。それは構造の変化にまで及んだ・・・・」
「屋根だけではなく、まわりにすっぽりかぶせる形になった」
「そう、しかし、かつての名はそのまま残り『覆堂』と書かれた。しかし、意味は変質したので・・・・」
「『覆』と書いて『さや』と読むようになったとおっしゃるんですね」
ユカは目を輝かせた。
南条は会心の微笑を浮かべた。
「そう、そう考えると何もかもつじつまが合うだろう」

                             引用「義経はここにいる」伊沢元彦著 講談社文庫(太線引用者)


ちょいと長い引用になってしまったが、なぜ私が中尊寺に来てみたかったのかは判っていただけると思う。
この「義経はここにいる」は本当に面白い本ですから、興味のある人は是非どうぞ。

金色堂

さて、この中尊寺、初めてなので詳しいことは何も知らないが、ひとつだけ確信の持てることがある。
それは秋のシーズンになると、紅葉の名所になるということだ。
私の住む日光も紅葉では有名なところではあるが、楓の木の風格はこちらのほうに分がある。

駆け足ぎみの中尊寺見物だったが行程はまだ残っている。
明るいうちに入渓点に着かねばなるまい。

国道4号線を北上JCまで走り、そこからは秋田自動車道に入る。能代の最終地点まで高速を走りあとは日本海沿いに101号線を青森に向けて走った。

♪コラ秋田名物八森鰰々(ハタハタ) 男鹿で男鹿ブリコ 能代春慶(しゅんけい)桧山納豆 大館曲わっぱ♪(秋田音頭)
の八森に入る。今年は例年よりワイパーの出番が少なかったような気がするが、今日はその懈怠を挽回するかのように大張りきりである。
今夜はテントで入渓点の近くに寝るつもりでいたが、雨は鬱陶しい。屋根があるところを探そうということになり、運転しながらも目が左右の「テン場適地(?)」を鵜の目鷹の目で探している。すると、ありました!「テン場適地」が・・・。
道の駅「はちもり・お殿水」である。

上の画像には写りこんでいないが、右手に東屋があって、もちろん屋根付きである。とりあえずここを第一夜のテン場候補地にしておいて津梅川を確認しようということになった。
ここから、津梅川は遠くはないことがわかった。県境を越え青森県に入り、大間越トンネルを抜けたところが津梅川で林道は川に沿って進むようだ。
津梅川が確認できれば、あとは酒宴に突入するだけである。

ビールで乾杯し、私は泡盛のお湯割りというコースを辿るのだが、途中、TakeちゃんやらYonpapaさんとの携帯での会話を楽しんだ。
そして、第一夜は楽しく過ごせたと思っていたのだが、匿名希望のH氏は泡盛が口に合わなかったらしく気持が悪くなってしまったのだそうな。
しかし、そんなことは、この波乱万丈の旅の序章に過ぎなかったのだ。

      

Part 1

続く   Part 1  Part 2  Part 3  Part4

8月18日編