修験ということについて考えてみる。
役小角(えんのおづぬ)が始祖ということになっているのだが、この山岳列島に人間が存在し始めた当初から人々は聳え立つ山々に霊験の存在を感じ、畏れと敬いを共存させながら生きていたのに違いないと思う。
それは「神」が山に存在したということでもあるし、山そのものが「神」であるということにもなる。
外来の宗教である仏教が伝わり、日本的な変革をし、在来の「神」との習合を遂げるに及んで修験が芽生えた。
その後、密教・道教・山岳信仰を複雑に絡み合わせ、また、多岐に渡って派生し修験道は全国的な広がりをみせる。
これは私見だが、薬草や鉱物の発見は、ほとんど修験僧によるものではないか。それに、キノコを含めた山菜を初めて試食したのも、彼等だったような気がする。
もちろん、「マタギ」や「山窩」と呼ばれる人々の存在もあるが、「マタギ」が日光二荒山神社の許任状を授かって各地の猟場を巡ったことを考えると、修験と無関係ではありえない。
日光における修験は、勝道上人に始まる。
日光の輪王寺、二荒山神社の礎を築き、男体山に十五年の歳月をかけて登頂を果たし日光開山の祖といわれている。
今回は、その勝道上人が修行をしたと伝えられる古峰ヶ原から、日光開山のおり歩いたといわれる禅頂行者の道を辿ろうという企画である。
伝えられるところによると、上人とその弟子達は、出流山(いづるさん・現栃木市)から永野、粕尾、粟野の山々を巡り大剣峰(横根山)に至り、三昧岩から大岩山、地蔵岳、薬師岳と修行し、薬師より東の尾根伝いに進み三の宿(三番目の宿の意)、滝ケ原峠、鳴虫山と下り大谷川(だいやがわ)の岸に到着した。
そして、上人たちが大谷川の急流を渡りあぐねていたとき、祈りによって現れたのが深沙大王で、手に持った青と赤の蛇を投げると蛇橋になったが、鱗が気持悪くて渡れない。その時、山菅(やますげ)が蛇を覆ったので渡ることができたのである。
これが、現在修理中の神橋の起源である。
上人一行は対岸に小庵を結び、後に一寺を建立して四本龍寺と名付けた。これが日光山(輪王寺)の起こりである。
参考・日光修験道 山王院

2003.11.9 小平・細谷・JUKE

日光山内に建つ勝道上人の銅像
平成17年まで修理工事中、姿は見えません。
修験道を色濃く伝える輪王寺の強飯式(ごうはんしき)。毎年4月2日に行われる。
さて、我々は朝5時に行動を開始した。
まずは、下山予定地の細尾に車を置かねばならない。
細谷と私の車でデポ地点に向かい、細谷の車を置いて、待ち合わせ地点でJUKEさんを拾い、私の車で出発地点の古峰ヶ原に向かう。車の回収の手間を省くため私の妻にも同行してもらった。古峰ヶ原の入山地点で我々三人は車を降り、妻は一人で帰っていく。(スマヌ、スマヌ)
あいにくの雨模様であるが、オヤジ達は元気に午前6時30分に林道を歩き出した。

概略図


古峰神社第一の鳥居
古峰神社境内
林道は沢沿いに続いている。
霧が立ち込め、回りの風景が良く見えないのだが、錦秋は終わりを告げ晩秋の装いである。


残念ながら山伏の衣装ではない。
わずかに残った秋。
林道が終わり、登山道になるが、杉木立の中を歩いてゆく。


杉木立というのはいかにも殺風景であるが、今にも山伏が現れそうな幻想的な雰囲気もある。


沢を渡り、奥の二俣を越えると、少し急登の斜面になり、やがてなだらかな斜面になる。
ここで、小休止をしたのだが、このすぐ上にハガタテ平の分岐があり、この場所もすでにハガタテ平の一部だったのかも知れない。



初めての我々には、ありがたい道標。


地蔵岳が木立の向こうに見える。
ハガタテ平から地蔵岳までは距離は然程ではない。ただ少し高度を稼がねばならない。JUKEさんは久しぶりの山行だし、細谷は病み上がりである。
もう少し傾斜がきついかと思ったが回りこむように山頂に向かう。
それでも、地蔵岳への径は、割合となだらかに山頂に向かっている。
地蔵岳の山頂には午前9時頃到着。



地蔵岳山頂。
このお地蔵さんはホノボノとしている。
地蔵岳の山頂でコーヒーブレーク。美味かったなこのコーヒー。
しかし、禅頂行者の道はまだまだ続くのである。
(1)
修験道

修験道を歩く