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1998年8月18日

大学審議会「21世紀の大学像と今後の改革方策について(中間まとめ)」に対する見解の発表に当たって

理学部 吉村 洋介

目次

はじめに

 今度出された、大学審議会の中間まとめ「21世紀の大学像と今後の改革方策について」は、「学部教育の再構築」、「入りやすいが出にくい大学にする」方向を打ち出した、と言われています。それに合わせて、「今の学生は勉強していない」「大学はレジャーランドだ」といったことも取りざたされました。
 けれども、少し待って下さい。去年だったか、一昨年だったか、こんな話がされたんではなかったでしょうか?「十年一日の講義をしているような教授がいるからだめなんだ。」「教員に任期制を入れれば大学はよくなる。」

 確かに、“キャンパスライフ”を満喫することのみに精出す学生もいるでしょう。およそ講義に改良・改善ということをしない教授もいるかもしれません。だからといって、単位でぎゅうぎゅう縛って勉強させさえすれば、あるいは任期切れで脅しさえすれば、よい若者が育つ、大学がよくなると信じるのは、やはりどこか狂っているというべきでしょう。たぶん、大学審議会のメンバーの方々の多くも、信じてはおられないでしょう。なのにこうした話が出てくるのは、結局のところ、「何かやってみせなければ」「何か踊ってみせなければ」「何か改革してみせなければ」、という強迫観念がそうさせているようです。今回の中間まとめでは、特に「このままでは国立大学が独立行政法人になってしまう」という危機感が背景に横たわっていることを、強く感じます。

 こうした焦燥感は、昨年12月に発表された教育白書「未来を拓く学術研究」と、今回の中間まとめを比べてみても歴然としています。教育白書では、前年の科学技術基本計画が「自然と人間に対する深い理解は、人類が自然との調和を維持しつつ発展を続ける大前提」とした流れも汲んで、「公共財としての学術研究」を強く打ち出しました。それが今回の中間まとめでは、“社会の要請にこたえる人材育成”が前面に出た関係で、見る影もありません。また、新規な改革策が急には見当たらないことからか、すでに出ている改革策を、政界・経済界向けに、さらに詳細に展開する一方で、困難な問題には口を閉ざしているのも、今回の中間まとめの特徴です。たとえば、大学院教育と学部教育のかかわりについて、文部大臣から諮問されているにもかかわらず、何ら言及していません。

 このような、当面する独立行政法人化の動きに対抗すべく作られた文書ではありますが、それだけに、これが正式の答申として一人歩き始めた時の弊害には、甚大なものがあります。そうした重要性に鑑みて、職員組合として重大と考えられる問題について絞って、今回、京大職組中央執行委員会としての見解をまとめました。

改革がなぜ進まないのか

 大学審議会は、これまで設置基準を緩和するなど、そのことだけをとれば、前向きに評価できる改革策も出してきました。しかし、以前の答申、あるいは今回の中間まとめも指摘するように、提案された改革策は、意図されたのとは、しばしば異なる結果をもたらしました。たとえば社会人教育という華々しい謳い文句と裏腹に、実際には、予算・ポスト獲得の道具であったり、連携大学院という期待を持たせる企画が、実の所は校費の獲得策であったりといった話は、いくらでも転がっています。中でも、一般教育を高度一般教育として再生しようとする、意気高い取り組みは、実際には、従来低い地位に置かれていた教養部教員の地位の向上という側面のみが実現したに過ぎないのではないでしょうか?それ自身は大学の活性化のために役立つと信じられた施策が、あらぬ結果に終わる。特に、改革のコストを一方的に支払わされてきた、学生や職員にとって、羊頭狗肉の講座名や理念に進路を誤ったり、労働強化で過労死が生み出されたりするなど、事態は深刻です。このような事態の起きる最大の要因は、今の大学の貧しさと、さまざまな歪みにあると思われます。

 改革を実のある物にするには、まず、校費の抑制など大学の貧困化策を見直すことです。そしてその一方で、自らの学問分野、既得権益の拡大を求める余り、教養部問題に示される大学の歪みを放置し、貧困化を甘受してきた、大学側のありようの見直しが必要です。今回の中間まとめは、これまでの答申と同じく、大学の学生数など、規模はほとんどそのままで、改革を進めようというわけですから、大学の基盤整備に十分な手当てがなされないなら、今度の改革策も、学生や職員にとってはた迷惑で、実を結ばないものとなるでしょう。

大学とは?

 今回の中間まとめでは、主に「我が国の発展と高等教育の役割」という形で大学のあり方が論じられています。こうした文脈からは、「我が国の発展」のため、国策にかなった人材の養成が、国立大学の存立の意義として色濃く出てくることは当然です。しかし、そもそも大学というのはそれだけの存在だったのでしょうか?日本における近代的な大学の歴史はまだ100年余り。大学の意味を語るには、まだまだ幼いのかもしれません。けれども、われわれもそこに連なる、ここ京大の100年の歴史は、今日、われわれが21世紀の大学を展望するに当たって、多くを示唆してくれていると考えます。

 たとえば、京大の総長室に掛けられている学徒出陣の絵は、今も多くのことをわれわれに語りかけてくれています。それは“時局”の要請をそのままに肯い、有為の若者たちを戦場に引き渡した大学の姿でもあります。大学が批判的なスタンスを失った時、それが若者たちにとって、将来の社会にとって、また学問にとって、いかに甚大な損失をもたらしたか…。あるいは、60年代から70年代にかけて、学生諸君から、大学の存在意義を、社会との関わりのありようを、正面から問われた時、われわれはそれにいかに答えたのか…。われわれは、京大の100年の歴史から、もっと多くを学びたいと考えています。そうした時、大学審議会の今回の中間まとめに、そうした歴史に学ぶ姿勢が、余りに希薄であることには驚かされます。これからの100年を展望するならば、これまでの100年をもっとよく見ていて欲しいものです。

学生は元気か?

 教養部の解体のおりに議論された「高度一般教育」の実像がまだ見えない状況もあって、今回の「見解」では、教育の改革策についてのコメントは、差し控えることにしました。教育のあり方、中でも教養教育のあり方については、現在、京大全体としても教員の合宿を行うなど取り組みが行われていますが、職組でも議論を深めていきたいと考えています。中でも、学生諸君の学問に寄せる心、志操とでも呼びたいものについて、真剣に考える必要があります。

 学生の無気力(スチューデント・アパシー)について語られて久しく、改めて議論されることも少なくなってしまいました。以前、西島元総長は「知への渇き」について語られましたが、「アルバイトへ向ける情熱を、少しでも学問へ向けてくれれば」というため息にも似た声が、ここ京大でもそこここで聞かれます。何が学生の活力を殺いでいるのか?どうすれば、次代を背負って立つ、元気な若者を育てることができるのか?これこそが、今日、大学改革で何より問われなければならない点のはずです。

 これに対し、今回の中間まとめでは、単純化して言えば、「教員を督励し、学生を机に向かわせさえすれば、よい学生が育つ(=学生の質は確保できる)」といった構図が打ち出されているだけです。これは学生の就学態度を、単に勉強時間という物指しでしか見ていないのではないでしょうか?学生諸君に、勉学のあり方について指導することの重要性を否定するものではありませんが、これは事の一面と言うべきです。単位や勉強時間という数字になりやすい一面のみを、事細かに規定するのは、誤った方向へ大学教育を誘導することになりはしないかと、危惧します。

 ここ数十年、小中高の教育においては、今回の大学審議会の路線とは逆に、詰め込み教育からの脱却が図られてきました。現在、中央教育審議会が強調する、「生きる力」、「こころの教育」の是非については、さまざまな意見のあるところです。けれども、何より、子供の立場に立って、あるべき教育、さらには社会のありようを考えるという姿勢は、われわれの大いに学ばなければならない点です。これから社会に巣立っていく若者たちに、いったい何が必要なのか?それを社会からの要請と言う目ではなく、若者たち自身の視点から眺める。若者たちが何を考え、何に苦しんでいるのか…。そして、われわれに何ができるのか…。そういうスタンスが、およそ、今回の大学審議会の中間まとめから感じられないのは残念です。

決定権はいずこに

 中間まとめは、執行機関と審議機関の役割が不分明であることが、煩瑣な会議の多さなどの原因であり、決定権を執行機関に吸い上げるとしています。しかし、これは余りにも単純な議論というべきでしょう。大学という場で、教員を執行機関メンバーと審議機関メンバーに単純に色分けしようとすること自体、大きな問題があります。たとえば、多くの場合、学部の図書委員会のメンバーは、執行機関に属するか、審議機関に属するか、不分明ですし、弁別することに大きな意味があろうとは思えません。図書のあるべき姿を思い定め、より良い方向への決定を行うことが、メンバーに課された役割であり、メンバーのインセンティブを保障していると言ってよいでしょう。そうした決定権を“執行機関”に吸い上げることで、よい図書の運営が期待できるでしょうか?

 図書の例について考えましたが、中間まとめの考える「改革の推進」についても、同様です。執行部には、事務官をはじめ、諸決定を実施に移す上での、さまざまなノウハウを持った人びとがおり、それを一般の教員で代替することは困難です。しかし、新しい学問・大学のあり方を考え出し、それに必要な人材を選び出す能力は、それぞれの分野について、教員が等しく持つところでしょう。したがって、そうした決定は、教員すべてが参加できる場(審議機関?)で行うのが望ましいと考えられます。執行部に決定権を委ねようとするのは、「意にそぐわない決定の執行にはやる気が起きない」ということでしょうか?もしそうなら、それは執行部の側に立った一面的な見方、学長や理事長でメンバーを固めた大学審議会の狭い見方といわれても、やむをえないでしょう。執行部への決定権の集中は、目的・手法があらかじめ明白な、今回の中間まとめが過去のものとする“キャッチアップ型”の企業経営では、有効かもしれません。しかし構成員の創意や能力を引き出していかねばならない、“不透明な時代”の企業経営には、必ずしも有効ではありません。いわんや、さまざまな個性の渦巻く大学という場では、執行部への決定権の集中は、構成員の自発性を損なうものでしかありません。

改革の強制はよい結果を生まない

 大学審議会は、学校教育法で「大学に関する基本的事項を調査審議」し、文部大臣に答申する機関ということになっています。そこが今や、「大学改革推進会議」に様変わりしてしまいました。大学を改革するんだと、いろんな話をひねっては大騒ぎし、「私たち大学審議会は、一生懸命やってるんだけど、大学の先生は頭が固くて....」と、大学の先生が、ぼやいて見せる。もう、そうした見え透いた漫才はやめましょう。腰を落として、大学の現実を、ここでも触れた、改革の進まない理由を、もっと落ち着いて考えていただきたいと思います。

 昨年の教員任期制法制化の際に、参議院(衆議院でもほぼ同文)で、教員任期法に次のような付帯決議が付けられました:

政府は、学問の自由及び大学の自治の制度的な保障が大学における教育研究の進展の基盤であることにかんがみ、この法律の実施に当たっては、次の事項について、特段の配慮をすべきである。

一 任期制の導入によって、学問の自由及び大学の自治の尊重を担保している教員の身分保障の精神が損なわれることがないよう充分配慮するとともに、いやしくも大学に対して、任期制の導入を当該大学の教育研究支援の条件とする等の誘導や干渉は一切行わないこと。

選挙で選ばれた国民の代表が、学問の自由・大学の自治について、これだけの理解を示してくれています。大学をよくするのに、外部から、いたずらに誘導や干渉を行っても、それは大学のありようを歪めるだけではないだろうか...。われわれは、こうした声に信頼し、その信頼に応えて、これからの大学のありようを求めていかねばならないと信じるものです。


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