松杖斉略歴

 山口庄三郎(銘 松杖斉しょうじょうさい1900-1978)は1900年明治三十三年新潟に生まれました。

 幼少の頃に小児麻痺で両足の自由を失い、松葉杖を常用していた為、自ら松杖斉という銘を使いました。主な銘は松杖斉知音(ともね)、松杖斉(しょうじょうさい)、松杖斉弄象(ろうしょう)他。


 青年期に仏壇の蒔絵を会得し、量産品に満足出来ず
上京、芝巴町近辺の戸邊工房に弟子入りし印籠製造、蒔絵などの技術を修得しています。東京の戸邊公風の工房では、豊平翠仙、鵜澤松月、渡邊松演、三浦明峰ら十数名の職工と共に印籠などの献上品等を制作していたと伝えられています。
松杖斉16歳頃の写真
 
←戸邊公風一門の貴重な写真。二列目右端松杖斉25歳前後
 
 1923年大正十二年の関東大震災で疎開するも再び上京、昭和三年二十八歳で独立、「つぎ」と結婚しました。1941年、後に継承する息子隆宣は三男として生まれています。

 1945年の東京大空襲で新潟へ疎開、その後茨城へ移住、現在の常陸太田市磯部にあった茨城精漆株工業株式会にて、印籠蒔絵師として活動しました。

 当時この会社では、漆を利用した零戦闘機の部品や薬莢などの軍需物資の加工製造を行っており、軍事統制の解除後、軍需を失った工場の維持の為、漆を利用した工芸品を生産する事を考え、そこで当時蒔絵組合組長の今泉成之の誘いで蒔絵の心得があった松杖斉を新潟から呼び寄せました。
 松杖斉は社宅と仕事場付きという厚遇を受け、工場長の加藤悦孝氏(故人)らと共に乾漆技法による煙草ケース等の漆工芸品を制作し、そこに様々な塗りや古典様式、モダンな図案を用いたデザインを施しました。

 その工場は数年後倒産、廃業後は更に約五年間磯部の下宿先にて七人の子供達と過ごしました。妻「つぎ」はここで亡くなっています。
当時製作されていた乾漆煙草ケース

上の様々な変わり塗りは地名から佐竹塗りと呼ばれ蒔絵も施された
←1976年自宅にて隆宣と松杖斉


 終戦後、東京へ戻り長男の達美(漆文字看板塗り師)と次男哲(漆文字看板彫刻師)の元で暮らし、三男隆宣に印籠製作と蒔絵技術を継承させました。

 
1978年昭和五十三年(享年78歳)に東京都台東区松が谷にて永眠しています。
制作された印籠の実質の総数及び現存数は不明ですが、生涯を通して印籠だけでも数百点に及ぶ数を手掛けていたであろう事が隆宣の証言や残された下絵から推察できます。
 松杖斉の作品は国内のみならず、海外の美術館や個人コレクターが所有し、支持されています。

 近年では京都清水三年坂美術館にて2008年に行われた「研ぎ出し蒔絵の印籠特別企画展」で告知用ポスターに使用され紹介されました。この印籠はこの美術館の所蔵品です。


   
←我が家に残された下絵とその鉛筆スクラッチです。図は鈴木春信からの引用と思われ、上画像の印籠の下絵です。

 参考文献

THE INTERNATIONAL NETSUKE COLLECTORS SOCIETY 1976 6月号 
 淡交社 レイモンドブッシェル著 御子柴操 訳 THE INRO HANDBOOK

尚、銘の松の文字は木が冠となり、杖は点ありとなっています。また、上記の伝聞は主に父隆宣とその兄弟姉妹や、塗師市川昭氏は父が上記の茨城精漆工場からの一員でもあり、達美、哲と共に浅草寺雷門「金龍山」の山号額(文字看板)を手掛け、多くの逸話を伺い、調査しまとめたものです。またHEINZKRESS&ELS夫妻、高尾曜氏、吉川英樹氏にも情報協力頂きました。時の経過により貴重な証言者が失われ益々情報が得られなくなる中、個人を紐解く事は困難が伴います。略歴内容には事実誤認も含まれるかもしれませんが、情報が集まる事でより事実が明らかになり、より良い創作活動の道標になる事、時代背景を学べる事を願っています。関係者各位、今後も情報提供、調査活動にご支援、ご協力下さい。他にも多くの逸話があり、今後の加筆、編集に自身も期待しています。


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