107 被造的に存在する数々のものの場合にも、神の場合にも、本性という呼称が、数々の本性的属性にも適用されるのを見いだす人もいよう。それは、(二人の)グレゴリオスの中でもいちばん神学的な方が、その「(教義的)詩歌」のある箇所で、言っている通りでもある。「まこと、わたくしの主人の性は、幸を伴侶として賜わること1)」と。たしかに、与えることは、どんなものにも属している本性ではない。それは、恵み深いものに本性的に属しているのである。さらに、火の場合にも、火が上昇するものであること、そしてそれが見ているものに光を送り込むこととを、火が本性として持っていると主張する人も、あるいはいるだろう。だが、火の運動は、火の本性でもなければ、一般に(光や熱を)もたらすことも、火の本性ではない。むしろ運動の元が、火の本性である。とにかくそういうわけで、数々の本性的なものも、本性と呼ばれるのである。それはまた、偉大なディオニュシオスが、みずから別の箇所で言っている通りでもある。彼は、「もたらすことと救済することは、善きおん方の本性である2)」と書いている。すなわちこのことは、本性的にそのおん方に属しているのである。だからあなたも、神の実体が分有されざるものであると教父たちがいうのを聞くときには、どうか、その実体は発出せざるものであり、顕現せざるものであるとご理解していただきたい。他方、神の実体が分有されうるものであると(教父たちがいうのを)聞くときには、どうか、それは、神に本性的に属している発出と顕現およびエネルゲイアであると理解してもらいたい。そしてこのように両者を大切にすることによって、あなたは、教父たちと意見を同じくすることになるのである。

 

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