120 神的な事柄において賢明なキュリロスは、多くの言葉を費やして、次のことを提示した。すなわち、おん子が我々を生かすおん方であり、数々の生けるものの生命であるおん者として、そのエネルゲイアに即して生命であり、生命をお持ちであると言われている。しかしそれにもかかわらず、おん子はまさにその点で、おん父に似ていないわけではない。と言うのは、おん父も生命をお与えになるからである。(賢明なキュリロスは)そのことに加えて、さらに次のことを証明しようとした。すなわち、たとえおん子が、何か他のものとの関係においてではなく、まったく独立して、かつ絶対的に生命であり、生命をお持ちであると言われるにしても、しかしそれだからと言っておん子が、生命の点でおん父に似ていないというのでもない。なぜなれば、我々が神を、我々を生かすおん方として、我々の生命だというのではなく、まったく独立して絶対的に(生命だと)いうときには、我々は、神に本性的に属しているエネルゲイアから、神の実体を――たとえば、知恵だとか善だとかそのほかすべてのものだとか――呼んでいるからである。そこで、(賢明なキュリロスは)このことを証明しようと望んで、次のように言っている。すなわち、「我々が、このように、おん父はご自分の内に生命をお持ちであるというとき、我々は、おん子を生命と呼ぶ。なぜなら、おん子は、だたヒュポスタシスにおいておん父と異なっているのであって、生命に関して異なっているのではないからである。それゆえ、そのおん方(すなわち神)について、何らかの複合とか二重化とかは考えられない。また逆に、我々が、おん子は、絶対的に考えられるあの生命をご自分の内にお持ちであると主張するとき、我々は、おん父を生命と呼ぶ。たしかに(神は)、他のものとの関係においてではなく、ご自身で、独立して、おんみずから生命なのであるから、おん父とおん子とは、お互いの内におられるのである。事実おん子みずから、「わたしはおん父の内におり、おん父もわたしの内におられる」と言われていたのであった1)」。かくして、以上のようなことを、神的なキュリロスは主張して、おん父の内にある生命、すなわちおん子が、ある意味でおん父と異なりまた異ならない、ということを明示したのである。しかし、おん父の内にある生命は、おん父とおよそ決して異なるものではなく、あらゆる点でおん父と同じである、なぜならその生命はおん父と少しも異ならないからだ、という者たちは、そのようなことを前面に打ち出し、しかもそれがおん父の独り子であると強固に言い張るのであるから、彼らが、威厳あるキュリロスの数々の教説に与するのではなく、サベリオスの諸教説に与しているのはまったく必然である。

 

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