128 神学の名を戴くグレゴリオスも、聖霊に関して書ながら、神的なエネルゲイアは、ある意味で偶有性だと言われるにもかかわらず、それでいてそれは、神の内に観想されるものであり、しかも複合を(神の内に)もたらすものではないということを、我々に教えている。実際、彼は、こう言っているのである。「聖霊は、それ自身で実在するものに属しているか、さもなくば、他のものの内に観想されるものに属している。それらのものに精通している人たちは、前者を実体と呼び、後者を偶有性と呼んでいる。それでは、もしも(聖霊が)、偶有的に結果したものであれば、聖霊は神のエネルゲイアだということになろう。実際、(聖霊は)それ以外の何なのであろうか。あるいは、何に属するのだろうか。たしかにこれは、複合を回避するにちがいない1)」。彼はこの箇所で、もしも(聖霊が)神の内に観想されるものに属するものであり、それゆえそれは、まさしく実体ではなくて、むしろ偶有性であり、しかも、霊と命名されるのであれば、それは、神のエネルゲイア以外の何ものでもありえない、と明言しているのである。事実、彼は、このことを明らかにして、こう言っている。「(聖霊は)それ以外の何なのだろうか。あるいは、何に属するのだろうか」と。さらに彼は、どうしてそれ以外の何ものも、性質も、量も、あるいは、それらに類する何らかのものも、神の内には観想されえず、ただエネルゲイアだけが観想されるのかを証明して、「たしかにこれは、複合を回避するにちがいない」と付け加えている。しかし、どうして神の内に観想されるエネルゲイアが、複合を回避するのだろうか。なぜならば、神だけが、受動性のまったくないエネルゲイアをお持ちであり、神は、ただお働きになるだけで、エネルゲイアにおいて何ものをもこうむりにならず、生成もなさらず変化もなさらないからである。

 

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