132 数々の個別存在的特性は、まさしく神の場合には、諸特性相互の関係において相対的に語られる。そして諸々のヒュポスタシス(位格)は、相互に異なっているが、しかしそれらは、実体において異なるものではない。他方、神は、創造との関係において相対的に語られる。実際、至聖なる三位一体の神は、代に先立つおん方、以前から元なきおん方、偉大なおん方、善きおん方と言われるのと同じように、おん父でもあるとは言われえないのである。と言うのは、諸ヒュポスタシスの各々がおん父なのではなく、三つのヒュポスタシスの一つがおん父だからである。その他のものは、おん父から由来し、おん父へと遡っている。しかしながら、創造との関係においては、絶対の非存在から導きだされた一つの業は、三つのヒュポスタシスに属しているのだから、また、三つのヒュポスタシスに共通した恵みの提供による数々の息子の採用のゆえに、三位もおん父と言われうる。事実、「お前の主なる神は、唯一の主である(Dt 6.4,Mc 12.29)」という言葉と、「諸々の天にましますわれらの唯一の父よ(Mt.6.9,23.9)」という言葉は、聖なる三位が我々の唯一の主であり神だといい、そればかりか、ご自分の恵みによって我々を再生なさる我々のおん父だと言っているのである。しかし、すでに我々が述べたように、ただおん父だけが、同一実体のおん子との関係において相対的におん父と言われるのである。また、その同じおん方は、おん子と聖霊との関係において元であるとも言われる。他方でおん父は、創造との関係においても、元と言われる。だがおん父は、すべての被造物の創造者および支配者として、そう言われているのである。したがっておん父が、創造との関係においてそれらだと言われているときには、おん子も元である。しかも二つの元があるのではなく、唯一の元がある。というのも、まさに数々の従属者との関係における支配者として、おん子も、ただ創造との関係において相対的に元と言われているからである。したがって、おん父とおん子とは、聖霊とともに、創造との関係において唯一の元であり、唯一の支配者、唯一の創造者であり、唯一の神、そしておん父であり、管理者、保護者、およびその他すべてのものなのである。そのうえ、それらのいずれも、実体ではありえない。なぜなら、もしもそれが神の実体であれば、それらはいずれも、他のものとの関係において相対的に語られえないからである1)。

 

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