142 しかし彼らは、神がエネルゲイアをお持ちであるというとき――その実、それは、実体とはいかなる点でも決して異ならないエネルゲイアとなっているのだが――、まさにこのように言うことによって、自分たちの不敬虔をごまかし、(彼らの話に)耳を傾ける人たちを巧みに欺きだまそうと試みているのである。実際、あのリビアのサベリオスも、このようにして、おん父なる神は、おん子をお持ちであると言ったが、しかし、その実、おん子は、おん父と少しも異なっていなかったのである。したがって、かの男が、おん父とおん子とのヒュポスタシスの上での違いを否定しながら、おん父をおん子なしで語っているとして論駁されたように、今度は彼らが、神のエネルゲイアは、神の実体といかなる点でも異ならないということによって、神がエネルゲイアをまったくお持ちにならないと考えているかどで、断罪されるのである。たしかに、それらが少しも異なっていなければ、神は、創造し働くことさえもお持ちにならないだろう。と言うのは、数々の神学者たちによると、エネルゲイアがなければ、働くことはありえないからである。このことは、また、彼らによると、存在がなければ、存在することもありえないのと同様なのである。しかし、まさにこのことによって、神のエネルゲイアが神の実体とは異なることが、正しく省察する人たちには、明らかとなるだろう。事実、エネルゲイアは、働くおん者とは違う別のものをもたらしているのである。すなわち、神は、諸々の被造物をもたらし、それらをご創造なさるが、しかし神ご自身は、造られざるおん方なのである。さらに、関係[何ものかとの関係]というものは、常に他のものとの関係において語られる。実際、おん子は、おん父との関係において語られるが、しかしおん子が、おん父のおん父であることなど決してないのである。したがって、関係が実体と少しも違わないということがどうあっても不可能であり、また、それが、実体の内に観察されるものでなくて、むしろ実体であるということが、不可能事に属しているのと同じように、エネルゲイアが実体とは異ならず、むしろ実体であるということは、どうあってもまったく不可能なのである。たとえアキンデュノスが不快の念を催しても、である。

 

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