145 神の実体は、数々の神学者たちによると、名称を超えがゆえに、まったく命名されざるものである。それと同じように、彼らによると、神の実体は、分有を超えているがゆえに、分有されざるものでもある。ところで、現今、我々の聖なる教父たちを通し(て伝えられ)た(聖)霊の教えに従わず、彼らに同意する我々を罵倒する者たちは、次のように主張している。すなわち、もしも神のエネルゲイアが神の実体と異なるのであれば、多くの神々が存在することになるか、あるいは一者は複合物になるだろうと、彼らは言うのである――神の実体の内にそもそも何ごとかが観察されるにもかかわらずに、である。たしかに彼らは、働くこととエネルゲイア(働き)とが、複合をもたらすのではないということ、そして、働きを受けることと受動とが、複合をもたらすものであるということを知らないのである。ところが神は、お働きになるのであって、ご自身はいかなる働きもお受けにならず、また、変化をこうむられることもない。したがって神は、そのエネルゲイアのゆえに、複合体ではありえない。そのうえ神は、何らかのものとの関係を、しかも創造の元および支配者として、創造との関係をお持ちである。しかしそれだからと言って、神は、諸々の生成物に数え入れられるわけではないのである。さらにまた、エネルゲイアが唯一の神に属しているのであれば、いな、むしろ同じ神が、神的実体であると同時に神的エネルゲイアであれば、どうして、神がエネルゲイアをお持ちであるという理由で、多くの神々が存在することになるのだろうか。したがって、上述の話が、彼らの狂気に由来するたわごとだということは、陽を見るよりも明らかである。

 

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