146 主は、ご自分の弟子たちに仰せになった。「ここに立っている人たちの内には、神の国がデュナミス(力)において来るのを見るまでは、死を味わわない人が幾人かいる(Mc 9.1)」。そして、「六日の後、ペテロとヤコブとヨハネを連れて」タボル山に「お登りになった」。そのとき、主は、「太陽のように輝き、そしてそのおん方の衣は光のように白く光るものとなった(Mt.17.1-2)」。たしかに彼らは、これ以上のものを見ることができなかった。いや、むしろ彼らは、その輝きをじっと見つめる力がなくて、地に倒れ伏したのであった1)。しかしながら、救い主のおん約束によれば、彼らは神の国を、あの言語を絶した神的な光を見たのである。この光を、グレゴリオスとバシレイオスの二人の偉人は、神性と呼んでいる。事実、両人は、次のように言っているのである。「光は、山上で弟子たちに示された神性である2)」。また、「本当にみ力あるおん方の美しさは、そのおん方の可知的で観想されうる神性である3)」と。すなわち、偉大なバシレイオスは、あの光は、神の霊のデュナミスにおいてただ聖なる人たちだけに観想される、神の美しさであると言っているのである4)。それゆえ彼は、さらに次のようにも言っている。「しかしペトロと(二人の)雷の子らは、太陽の輝きをも凌いで照り輝く、そのおん方の美しさを見た。そして彼らは、そのおん方の来臨の序曲を(自分たちの)目で捉えるのに相応しい者とされたのであった5)」。また、神学者ダマスケノスは、黄金の舌を持つヨハネとともに、あの光を、神性の本性的な光輝と呼んでいる。前者はこう書いている。「おん子は、おん父から元なくお生まれになって、神性の元なき本性的な光輝を所有している。そしてその神性の栄光は、またおん身体の栄光にもなった6)」。他方、後者の黄金の語り部は、「主は山上で、ご自身よりも一層輝けるものとなられた。なぜなら、神性がその光輝を示したからである7)」と言っている。

 

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