35 この絶対的に善いと同時に、善を超えた善性は、善性の源でもある。しかもこのことはたしかに、善いことであり、数々の善いものの中でも最高に善いことなのである。それにその善性は、完全な善性を欠くことなどありえなかった1)。ところで、飛び抜けた完全な善性は精神であるから、その精神を源として発出するものとして、み言葉の他に、一体何があるであろうか2)。しかしこのみ言葉は、我々の口頭の言葉に準(なぞら)えられるものではない。と言うのは、これは精神に属するものではなく、精神によって動かされる身体に属しているからである。また、我々の内的な言葉にも準えられるものでもない。と言うのは、それでさえも、我々の中でいわば音声の類型に合わせて整えられ、そして生み出されるものだからである。とはいえそれは、我々の悟性の中にある言葉でもない――たとえそれが、音声を伴わず、非物体的な衝撃によって完全に締め括られるものであっても。と言うのはこれもまた、我々の後で存在し、数々の休止と少なからざる時間的延長とを必要とし、一語一語と言葉を継いで発出し、不完全な元から完全な締め括りへと進展するものだからである。むしろそれは、我々に生得的で、精神の中に蓄えられた言葉――我々は、我々をご自身の像に即してお造りなったおん方によってこの言葉から造られている――、常に精神とともに存在する認識に準えられるものである。この認識は、特にあの完全で飛び抜けた善性のこの上ない精神の場合には、それが善性から由来しているという点を除いては、何の不完全さも持たないものであるから、かの善性のすべてと別ち難く一つに結ばれている。そういうわけで、最高のみ言葉はまたおん子でもあり、また我々によっておん子ともよばれるのである。その結果我々は、おん子が完全なる独自の個別存在[位格]において完全であることを認めることができる3)。なぜならおん子は、おん父に由来し、あらゆる点でいささかもおん父の実体に劣ることなく、おん父と別ち難く一つに結ばれ、同一となっているからである。ただし(同一となっていると言っても)個別存在に関してではない。この個別存在は、み言葉がかのおん方から誕生によって神に相応しい仕方で由来していることを示している。

 

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