36 知性的な善性をいわば源として、誕生によって発出する善性はみ言葉なのであるのだから、また、理解力のある人なら、息吹のない言葉を考えることはできないだろうから、それゆえ神よりの神であるみ言葉は、ご自分とともに発出するものとして、聖なる息吹(聖霊)をおん父から受けている。しかしそれは、我々の唇を通して発せられた言葉に伴う息吹に準えられるものではない。と言うのは、これは物体であり、身体器官を通して我々の言葉に合致せしめられているからである。さらにそれは、たとえ非物体的な仕方であったとしても、我々の悟性に即した内的な言葉に伴う息吹でもない。と言うのはそれもまた、精神のある種の衝動であって、我々の言葉とともに時間的に拡がり、同じ延長を要求し、不完全から完成へと進展するものだからである。しかしかの最高のみ言葉の息吹は、曰く言い難い仕方で誕生したみ言葉それ自身に対して、その産みのおん親が抱いておられる、ある種の言いようのない愛のようなものである。そしてこの愛を、おん父の、愛すべきみ言葉であるおん子ご自身も、産みのおん親に対して抱いておられるのである。しかしおん子は、その愛を、おん父からご自分とともに発出し、同一本質的にご自分の内に留まっているものとして所有している1)。そして我々は、肉を通して我々と交流されたこのみ言葉によって、その息吹の、(み言葉の誕生とは)異なったおん父からの由来の名称を教えられ、さらにその息吹が、おん父に属しているばかりでなく、み言葉ご自身にも属していることを教えられた。事実、み言葉は、「おん父のみもとから発出する真理の息吹(Jn 15.26)」と言われているのである。それによって我々は、み言葉ばかりでなく息吹も、誕生によってではないが、発出によって、おん父から由来することを知る。そのうえおん子も、おん父から、この息吹を真理と知恵と言葉の霊として受けている。なぜならみ言葉は、産みの親にかなった真理や知恵だからである2)。そしてみ言葉は、み言葉を喜ぶおん父とともに、喜んでおられる。それはみ言葉が、ソロモンを通して、「わたしは彼[主]とともに喜ぶもの[知恵]となった(Pr 8.30)」と言われている通りである。み言葉は(ここで)、「喜んでいた」と言われず、「ともに喜んでいた」と言われている。それと言うのは、そうしたおん父とおん子との、代に先立つ歓喜こそが、親密さの点で[この享受の点で3)]お二方に共通する聖なる息吹[聖霊]だからである。それゆえこの息吹は、両者によってさらに、相応しい人たちにも遣わされる。ただしその息吹は、その実在に関しては、ただおん父だけに起源を持っている。したがって息吹は、その実在に関しては、まさしくただおん父だけから発出するのである。

 

次へ