52 こういうわけで、死は、かの(二人の)人祖たちの後に続くことになった。そしてその結果、我々よりも更に長生きする人たちに対しても、それは取っておかれることになったのである。そして身体は、我々にとって死すべき物となった。また、この点でいわば何かしら長大な死といったもの、いや、むしろ無数の死が存在するようになった。その死は、我々が一つの最終的かつ永続的な死に到達するまで、次から次へと継続的に別の死を受け入れていくようになったのである。実際、我々は、生成流転を止めるまで、消滅の中に生成し、生成しつつ流転している。我々は実に、たとえ不注意な者たちには、我々が(いつも変らず)同一人物であるように思われても、同一人物としてあり続けることが決してないのである。ちょうど、薄っぺらい麦藁のてっぺんを捕えた火が――実際、この火も、別のときには別のものに変る――麦藁の長さをその存在の尺度として持っているのと同じように、転変する我々にとっても、各人に属する生命の長さが、その(存在の)尺度となっているのである。

 

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