58 諸情念の欠如と諸徳の現存が、神への愛を組織する。と言うのは、諸悪に対する嫌悪と、まさにそれゆえの諸情念の欠如とが、数々の善の欲求と獲得とを代わりにもたらすからである。しかも、数々の善の愛人であり獲得者が、どうして際立った仕方で、善そのものである主宰者、一切の善きものの供給者であり保護者だけを愛しえないだろうか。彼は、そのおん方の内に特別の仕方でいるのであり、そのおん方を、愛を通して、自分自身の内に担っているのである。それは、こう言っているおん方のいう通りである。「愛の内に留まる人は、神の内に留まり、神もまたその人の内に留まっておられます(I Jn 4.16)」。また人は、諸々の徳から神への愛が生まれるだけでなく、愛からも諸徳が生み出されることに気づくだろう。それで主も、ご福音の中であるときこう言っておられたのである。「わたしの数々の掟を自分のものとし、それらを守る人、その人はわたしを愛する人である(Jn 13.21)」と。また別の折りには、「わたしを愛する人は、わたしの数々の掟を守だろう(Jn 14.15,23)」と言われていた。しかし諸徳の業も、愛のない行いをする人たちにとっては、称賛されるべきものでもないし、有益なものでもない。また、諸々の業に欠ける愛も、まったく同様である。そのあたりのことをパウロは、あるとき多くの言葉を費やして明らかにしている。彼は、コリントの人たちにこう書いている。「たとえわたしがあれこれのことをしても、愛を持たなければ、わたしには何の益にもならない(I Co 13.1-3)」。さらに、そのあたりのことについては、キリストによって特別に愛された弟子も明示している。彼は言う。「わたしたちは言葉や口先で愛し合うのではなく、業と真理によって愛し合いましょう(I Jn 3.18)」。

 

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