80 神の神聖な語り部たちの中でも、神に満たされた共通の舌、神を戴くダマスケノスは、その神学要綱の第二章で、こう言っている。「神について何かを語ったり、聞いたりしようと望む者は、次のことをはっきり知っていなければならない。すべてのことが語られないわけでもなく、すべてのことが語られるわけでもない、神学の事柄についても、オイコノミアの事柄についても。たしかに、すべてのことが知られるわけでもなく、すべてのことが知られないわけでもないのである1)」と。また我々は、数々の神的な事柄の内で語りたいと望むものはすべて、言語を超えているのを知っている。と言うのはそれらも、卓越した言語の次元に属しているからである。すなわちそれらの事柄は、欠陥によって言語を逸脱しているのではなく、我々の側の言葉の及びもつかない所にあるのである。この言葉は、我々が、我々自身の中に内住するものとして持っている言葉であり、また、我々が、我々自身から他の人たちの耳に向けて発する言葉でもある。たしかに、この後者の言葉も、(それらの神的な事柄を)解釈しながら提示することはできないだろう。また前者の言葉も、深く尋ね求めながらそれ自身で(神的な事柄に)到達することはできないだろう。したがって我々は、神について何かを語るときには、我々自身に頼るべきではない。むしろ、霊において霊に属する数々の事柄を話す人たちに、我々自身を委ねるべきである。ことに、反対者たちが説明を求めるときには、そうである。

 

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