37 そのことに関して[1]、彼が次のように言っているこを、あなた方はいっそう注意深く考えてもらいたいと私は願う。すなわち「それらの事柄の何かを変更した人がいるなら、その人は異端的であり、使徒の判断に従って『破滅の内に置かれた者として、また、自分自身によって断罪された者として罪を犯している[2]』。そして我々も、彼の権威に従いつつ、同様に判断しなければならない[3]」と。したがって、それらの事柄はそのようになっているのであるから、彼の批判者たち自身に次のことを尋ねるのは必然であると私は思う:すなわち、異端者についてであれ、カトリック[4]についてであれ、彼の諸々の声によって示されたこととは異なることを彼らが考えているのかどうかと。彼れらは、(彼の提示したこととは)別の教会的な諸々の教説が何であるかを言うべきである――もしもそれらが、彼によって上に上述された諸々の事柄でないとすれば[5]



[1] 33(テトスへの手紙注解からの抜粋)で論じられた異端者の問題を指す。

[2] Tt.3,11.

[3] 本書の第33節からの抜粋だが、同一ではない。ゆえに訳も変えた。

[4] 本書にしばしば現れる「カトリック」や「普遍的」という言葉――それらの原語はともにcatholicusである――は、東西教会が分裂する以前には、「正統信仰」や「正統派」の意味で使われていた(盗用厳禁)。

[5] 意訳すると、「もしも彼らが、彼によって上に詳述された事柄とは異なることを考えているなら、彼らの考える教会的な諸々の教説とは何であるかを、彼らは言うべきである」になろう。

 

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